『国家が戦争に向かうとき』を刊行して

危機感の共有をひしひしと感じる

東京大学大学院総合文化研究科学術研究員 田中 駿介

国家が戦争に向かうとき

もくじ
まえがきに代えて 昭和維新と令和維新
第1章 高市政権と日本社会の空気感
第2章 昭和10年代へ回帰する日本政治
第3章 思想なき国家
第4章 マルクスと日本人
第5章 戦後民主主義と天皇
第6章 民主主義の行方
第7章 日本が目指すべき場所
あとがき

 『国家が戦争に向かうとき』を刊行してから、予想していた以上に反響を受けていることに驚いている(おかげさまで、三刷が決まったそうです)。それと同時に、この本で取り上げた問題に対する危機感が、それだけ広く共有されていることをひしひしと感じざるを得ない。
 先日、本の刊行に関連して北海道新聞の取材を受けた。「戦禍の記憶を未来に生かすには」というテーマで、いわゆる「8月ジャーナリズム」に属する、終戦の日に合わせた特集記事だった。
 そのとき、戦争を知らない世代が社会の中心になっていくなかで、戦争の記憶をどのように受け継いでいくのか、という話に至った。むろん、私自身は第2次世界大戦を経験した世代ではない。だからこそ、戦争の記憶を「受け継ぐ」ということを、少し違った角度から考えてみたいと思っている。
 戦争を経験していないことは、必ずしも戦争について肯定的であることを意味しない。むしろ、戦争を直接知らない世代のなかであっても、戦争に行きたくない、戦争に巻き込まれたくないという感覚は、とりわけ日本人の間では強いという調査もある。私は、そこに一つの希望を見いだしたいと思っている。

「なぜ戦前の社会が戦争を止められなかったのか」

 しかし、その感覚だけで十分なのだろうか。私が『国家が戦争に向かうとき』の企画を受けたときから考えていたのは、この問いである。
 そうして、戦時体制そのものよりも、「戦前」のことを考えるようになった。いちど戦争が始まってしまえば、社会は大きく変容してしまう。戦時体制に移行し、国家総動員のもとで、何をするにも「国のため」ということが前提となる。戦争に反対する言説はもちろん、国策とは異なる考え方を口にすることさえ難しくなっていく。
 しかし、戦前、すなわち戦争に向かう社会のなかにも、抵抗する言葉があり、別の社会の在り方を模索する人々がいた。だからこそ、「なぜ戦争になったのか」だけではなく、「なぜ戦前の社会が戦争を止められなかったのか」を考える必要があるといえる。
 そもそも、日本は戦後ずっと平和だったのだろうか。戦前と戦後を単純に分けて、戦前は戦争の時代、戦後は平和の時代、と考えることはできない。戦後の日本は、朝鮮戦争やベトナム戦争と無関係に存在していたわけではない。日本の基地は米軍の戦争を支え、日本社会もまた、その戦争の影響の外にあったわけではなかった。「戦後日本は平和だった」という言葉そのものを、再考する必要がある。
 そう考えてみれば、私たちはすでに「戦後」の終わりに立っているのかもしれない。あるいは、もっと踏み込んで言えば、すでに「戦中」に至っている。むろん、いまを戦時下と呼ぶことには慎重でなければならない。日本国内で、実際に戦禍が発生しているわけではないのだから。しかし、戦争に備えることが当然となり、そして軍事力の増強が前提となり、社会のなかで軍事的な事柄について語ることの意味そのものが変容していくとすれば、それはすでに「戦後民主主義」の恩恵を享受してきた時代とはその内実が異なるともいえる。

「まさかそんなことになるはずはない」と考えることは、もはや不可能

 「戦後が終わった」という言葉は、戦後、反復されて使われてきた。それは、高度成長の終焉という意味でも、冷戦の終結という意味でも使われた。しかし、いま起きているのは、それらとも性格を異にするものだ。戦争を経験しないことを前提としてつくられてきた社会のあり方そのものが、変わりつつあるからである。
 いまの日本では、軍事費の増額、日米安保体制(通常、これは「日米同盟」と呼ばれる)の役割の拡大など、安全保障体制をめぐる大きな変化が進んでいる。たしかに、日本を取り巻く国際環境が厳しくなっていることは否定できない。しかし、問題は、そこで何が「仕方のないこと」にされてしまっているのか、ということである。
 以前なら大きな議論になったことが、いつの間にか当然の出来事として語られるようになる。すると、その意図とは別にしてもなお、戦前回帰とでもいえる状況を招来しているのではないか。
 私は、ここに戦前・戦後の歴史を現在から読み直す意味があると考えている。
 最近、気になった報道がある。熊本日日新聞が報じた、陸上自衛隊の情報部隊による国内の大学教授やNPO関係者らの情報収集の問題である。記事によれば、調査対象者について氏名や経歴、顔写真だけでなく、「愛国心」「対自衛隊感情」「思想・信条」から「性的嗜好」(!)などの情報が「個人BSD(ベーシックソースデータ)」と呼ばれる報告書にまとめられていたという。
 これは単なる個人情報の問題として片づけるべき性格のものではない。実力組織が市民について、その思想から個人的事項を調べていたとすれば、そこには文民統制や民主主義との関係という、より大きな問題がある。しかも、報道では、その活動が防衛相をはじめとする政治家や官僚にも知らされていなかったとされている。
 戦争に向かう社会を考えるとき、私はこうした出来事もまた、遠い過去の歴史とは別のものとして切り離すべきではないと考えている。むろん、これだけで日本に特高警察が蘇ったという言説を展開しようとは思わない。しかし、いま何が起きているのかを直視せずして、「まさか日本がそんなことになるはずはない」と考えることは、もはや不可能である。
 『国家が戦争に向かうとき』は、そうした問題を考えるために企画された書物である。ぜひ、手に取っていただければ幸いです。

 (見出しはタイトルを含めて編集部)