水俣病公式確認70年と戦後80年が問うこと

チッソの企業責任と国や県の責任と

水俣市議会議員 藤本 寿子

 水俣では、毎年5月1日の水俣病公式認定の日に、「水俣病犠牲者慰霊式」が開催される。今年も多くの患者団体、個人をはじめとして、石原環境大臣をはじめ、鹿児島県、熊本県知事、国会議員も14人が参加。公式確認70年ということでいつになく参列者が多く感じた。毎年繰り返される祈りの言葉であるが、患者代表の緒方正実さんの祈りの言葉には、苦悩の思いが滲み出る。
 慰霊式前の4月23日には福岡高裁で、症状と水銀の因果関係を否定し、原告7人を全員棄却するという不当判決が出たばかりだった。原告7人は、水俣病被害者互助会の会員であり、1953年から60年にかけ不知火海沿岸で生まれ、民間の医師から「水俣病」と診断された。2002年から5年にかけ、それぞれ熊本県と鹿児島県に認定申請したが、10年後に棄却。15年に両県に棄却処分の取り消しと認定義務付けを求めて提訴していた。判決後、最高裁に控訴ということになったが、水俣市民にとってもこの判決については残念だという声を多く聞いた。裁判に対し、冷ややかに見る市民が多かったなか、闘い続ける被害者への思いは変わりつつある。
 慰霊式の前後には、環境大臣、熊本県知事との懇談が毎年行われる。昨年は、この懇談のなか、水俣病患者連合の会員が亡くなった奥さんの話をしようとしたその瞬間、時間切れですと言わんばかりにマイクを打ち切ったということがあり、全国から環境省の被害者への扱いに対する批判が相次いだ。
 今年の慰霊式前後の懇談会では、長年現行の公健法(公害健康被害補償法)による認定申請では被害者は救済されることなくきたこと、また、被害の実態を早急に把握するためには、不知火海一帯の健康調査を行うことを求めた。だが、先行して行われている、天草での脳磁計による健康調査を深掘りするとの回答で今年も終始した。患者団体からは、それでは実態の把握にはならないと反発が強まった。
 問題の根本にはチッソだけでなく、水俣病拡大に手を打たなかった国や県にも責任がある。水俣の魚を食べ自覚症状がある人には、広く補償をするという原点に返らねば問題は解決しないと私は考えている。
 1956年5月1日、原因不明の脳疾患患者の多発が水俣市の保健所に報告された。水俣病の公式確認である。だが、国や県は手を打たなかった。公式確認後も廃水は10年以上流され続け被害は拡大した。

困窮する被害者

 今年3月、東京から来た友人とともに隣町に住む患者さんの家を訪れた。彼女は、1995年の村山首相政権下でやっと国が動いた、いわゆる政治解決をのまざるをえなかったひとりだった。「救済策」は、わずかな一時金支給、医療費は無料、それに療養費だ。だが療養費は2万円に満たず年を追うごとに困窮していた。
 けいれんや発作がありながらも若いときは働くこともできたが、高齢になり働いて入る収入はなく、年老いた母親を介護しなければならない状況が続いていた。ある時、「母ちゃんと一緒に死のうかと思う日がある」と言うので、母親の施設への入居を早めてもらえないか町役場に相談に行った。まわりの方々の援助もあり、母親は施設に入ることができた。安堵したものの、彼女ひとりの生活費もままならない状況は続いている。生活保護をもらうようにしたらと言うと70歳までは、手続きをしたくないと言う。
 突然訪ねたその日は、家は暗く、いるのかと思ったら、家の中から声が聞こえてきた。電気もつけず、テレビもついておらず、こたつもない。
 「暖房は?」と聞くとお湯を沸かして容器に入れ、それで体を温めていると言うのだ。節約するのはいいが体を壊すよと言って帰ってきた。彼女のこの村は、家から海までが数メートルという漁師の村であり、かつては魚介類に恵まれた生活を送っていた。
 しかし、私が村に通い始める頃から漁業の衰退は、すでに始まっていたが、最近では数隻の船が海に出ているという状況が続いていた。先日、あらためて村の人に話を聞くと、今年に入り中東での戦争が始まり、燃料の高騰でますます漁をする人がなくなってくるだろうということだった。
 この村には、私が所属する「ガイアみなまた」が事務局をする甘夏生産者がいるが、みかんの方も高齢化とこの中東での戦争により、今後の生産に影を落としているという状況だ。
 水俣病は、健康被害もだが、環境被害に加え、暮らしを支えてきた生活基盤をも同時に奪ってきたことだと改めて感じている。

軍需企業としての「チッソ」

 水俣病問題をめぐり、国会でも心ある政党、有志議員による早期解決へ向けた動きがある。だが同じ国会で、高市政権による武器輸出制限撤廃、さらに平和憲法改悪の動きが現実のものとなり、大変危惧している。武器輸出には、世論調査でも反対が多いなか、閣議決定で決めるとはまったく納得がいかない。
 それに加え、水俣病の原因企業「チッソ」が歩んだ歴史を繰り返すことになるのではと危惧している。戦前武器製造を担ったのは、どこであったのか。その一翼を担ったのが「チッソ」であった。
 昭和初期、日窒コンツェルンは、3拠点を有機的に結合させた盤石の生産体制を確立した。圧倒的な水力発電を背景に肥料と火薬を大量生産する朝鮮の興南工場。宮崎の延岡では、化学繊維と火薬を製造し緻密な化学技術を誇っていた。そして創業の地・水俣では、カーバイド派生のアセチレン有機化学という独自な鉱脈を掘り当てた「収益」の拠点としてあった。
 時代が戦争へと傾斜すると、アセチレン化学は、軍需の要となった。日本で初めて塩化ビニール樹脂の工業化に成功。これは、電線の被覆やパッキンとして、軍に重宝された。日本の戦闘機の防弾ガラスも供給。水俣工場は、橋本彦七(技術者)の指揮下で最先端の軍需工場へと変貌した。
 朝鮮の興南工場では、軍のエネルギー調達への圧力に翻弄されたあげく、結局ひとつだけ成功したのが「イソオクタン」の成功であったと記録がある。アセチレンから、航空用ガソリンを合成し、陸軍の主力戦闘機などの燃料になったとのこと。
 チッソは、東洋一と言われる巨大なダム建設や興南工場建設にあたっては朝鮮人、そして中国の苦力には、牛馬のような扱いで働かせたという記録がある。軍部を背景に他国を侵略していった様子が「チッソ」の歴史として浮かび上がってくる。
 この軍部と歩んだ「チッソ」の体質こそが戦後も続き、利益のためには、環境も人間も犠牲にする。その体質が残り続けたのではないかと思う。
 それは、今も日本を牛耳る大企業の体質へとつながっていると確信する。これらの企業と軍部、政治を縛ってきたのが、曲がりなりにも私たちが持つ「平和憲法」ではなかったか。
 不知火海一帯で苦しむ水俣病被害者、原爆をはじめ戦争により犠牲になった人々の苦しみ、その歴史を再び繰り返すことがない世界をつくっていきたいと思う。

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