ガザ、ウクライナ、あるいは生活の地続きにある若者の平和主義
明治大学学生 佐伯 蓮
この一年ほどの間に、日本社会の底流では決定的な変化が起きている。「戦争」や「憲法」をめぐる問題に対して、若い世代の中で少しずつ、しかし確実に空気が変わり始めているのだ。SNSや街頭で見られるようになった若者たちの自発的な抗議や緩やかな集いは、彼らが抱く危機感の正体を鮮やかに証明している。今の若者たちがなぜ憲法や戦争反対の声を取り戻しつつあるのか。
ウクライナ、そしてガザがもたらした「地続きの衝撃」
若者たちの間で「戦争」という言葉がリアリティーを持ち始めた背景には、ここ数年の国際情勢の急速な変化がある。
決定的な契機は、2020年のロシアによるウクライナ侵攻、そして23年秋から続くパレスチナ・ガザ地区への軍事侵攻だ。マスメディアのフィルターを通さないこれらのデジタルリアリティーは、若い世代に「今、この瞬間にも暴力によって理不尽に命が奪われている」という、倫理的な違和感を植え付けた。
そして、この世界的な人道危機は、決して「海の向こうの出来事」ではない。日本国内でも安全保障環境の激変が同時に叫ばれているからだ。台湾有事をめぐる緊張の煽り立て、防衛費の異例の増額、南西諸島の軍事拠点化など、まるで一歩ずつ戦争へ近づいていくかのような国策が、日々のニュースで可視化されている。
これまで政治や外交を「自分とは遠い物語」と感じていた若い世代にとっても、「自分たちの国もいつの間にか他国の戦禍に加担したり、自分たちの世代が戦場に送り込まれたりするのではないか」という当事者意識が、かつてない現実味を帯びて立ち現れてきている。世界の戦禍と国内の軍拡。この二つが交錯する中で、彼らの沈黙は破られつつある。
イランでの戦禍拡大と、それに伴うエネルギー価格のさらなる高騰・物価高は、日本の若者にとって戦争が自分たちの生活をダイレクトに脅かすという危機感を一挙に加速させた。
理念なき「生存の防衛」としての平和主義
ただし、こうした若者たちの変化を、かつての左派運動が掲げた理念的な護憲意識の高まりとして単純に総括することはできない。
現在の若者たちの感覚は、抽象的な平和主義のイデオロギーから出発しているのではない。むしろ彼らの動機は、「自分たちの普通の生活が壊れるかもしれない」という、極めて実存的で切実な生存への不安に根ざしている。
現代の若者を取り巻く環境は過酷だ。非正規雇用の拡大、実質賃金の低下、物価高騰による生活苦、そして奨学金返済。もともと脆く、不安定な日常をサバイブしている世代にとって、急速な軍拡や戦争への足音は、「自分たちのささやかな生活そのものをさらに根底から揺るがすもの」として受け止められている。
「私たちの教育や福祉の予算、生活困窮者への支援は削られるのに、なぜ防衛費だけが増え続けるのか」
ここにあるのは、高尚な憲法論議ではなく、生活者の視点から発せられる真っ当な違和感である。彼らの平和主義は、理念というよりも、生活と尊厳を防衛するための本能的な選択なのだ。

「所属」から「接続」へ
SNSが変える連帯の形
そして、こうした組織なき若者たちの意識を、点から線へ、線から面へとつないでいるのがSNSである。
近年の社会運動において、SNSは単なる情報発信の道具ではない。それは、人々を現実の行動へ導く構造そのものであり、社会関心の「入り口」として機能している。
かつての社会運動では、特定の組織への所属や、継続的な活動へのコミットメントが重視された。運動に参加することは、ある種のアイデンティティーを選択することを意味していた。
しかし現在は、SNSのタイムラインで偶然に情報を知り、「少し気になる」と思った人が、個人のままで緩やかに意思表明に関わる流れが主流になっている。
そこには、「所属」よりも「接続」を重視する感性がある。強い思想的結びつきや過去の運動史の文脈を共有していなくても、ただ「ガザでの虐殺を止めてほしい」「今の日本の軍拡はおかしい」という、目の前にある不安や違和感の共有が出発点になる。
かつてのような熱量や排他的な空気に距離を感じていた若者であっても、SNSを通じた緩やかなつながりの中であれば、自分の意思を表明しやすい。特定の組織に縛られず、それぞれの場所で同時多発的に声が上がる理由は、この接続の容易さにこそある。
脆さを乗り越える
新しい公共性の芽生え
もちろん、こうしたSNS型の動きが持つ限界や脆さについて、冷ややかな視線が存在することも事実である。一過性の感情や共感でタイムラインに拡散される現象は、爆発的な広がりを見せる一方で、持続性や組織性に欠ける。ブームが去れば霧散してしまいやすく、権力側に対する長期的な対抗軸として機能しにくいという指摘は一理ある。共感がどれだけ広がっても、それが具体的な法案の阻止や政治の転換という実利に結びつくまでには、高いハードルが存在する。
しかし、それでもなお決定的に重要なのは、「政治に無関心」と言われ、社会の決定から排除され続けてきた世代の中から、自分たちなりの言葉で平和を語ろうとする人々が現れているという事実そのものである。
既存のマスメディアは、こうした地殻変動を十分に捉えきれていない。メディアの側も現場の余力を失っており、集会の参加人数という数字だけで運動を評価しがちである。SNS上で先に問題意識が沸騰し、それをメディアが後追いする構造の中で、小さくとも重要な若者たちの内面の変化や草の根のネットワークは見落とされがちだ。
だが、若者たちの動きは決して消えてしまったわけではない。その形を、時代に合わせて変容させたのである。それはかつてのような一枚岩の巨大な岩盤ではなく、無数の個人が緩やかにつながり合うネットのようなものだ。一カ所が切れても、別の場所でまたつながる。そのしなやかさこそが、現代の強みでもある。
おわりに 新しい時代の並走者として
今、若者たちの間で起きている静かな変化が私たちに提示したのは、新しい時代の公共性のあり方である。それは、特定の正しさを強制する組織ではなく、個人の自由と尊厳を互いに認め合いながら、危機の瞬間にだけパッと結びつく、しなやかな連帯の形である。
長年運動を支えてきた年長世代に求められているのは、こうした若者たちの変化を「組織化されていない」「思想的に未熟だ」と評定することではない。むしろ、彼らが発している「世界の人道危機への怒り」や「生活の地続きにある危機感」に耳を傾け、彼らの独自の言葉遣いやSNSを通じたつながりの形を尊重しながら、いかにして並走できるかという姿勢だろう。
それはまだ頼りなく小さな芽に見えるかもしれない。しかし、「若者は政治に関心がない」と諦めを植え付けられてきた長い停滞の時代を振り返れば、この変化の持つ歴史的意味は決して軽視できない。
私たちは今、その新しい芽を大切に育てる責任を負っている。
