日本の安全保障の議論の偏り

ピントのずれた安全保障議論「セルフ兵糧攻め」

東京大学特任教授・名誉教授 鈴木 宣弘

 日本の安全保障の議論は軍事的な側面ばかりに力点が置かれている。政府は3月31日、他国から武力攻撃を受けた際に住民が避難する「シェルター」を2030年までに市区町村単位の人口カバー率100%を目標として確保する基本方針を閣議決定した。シェルターも準備して、いざとなれば、「攻めていくぞ」と言わんばかりの威勢のよさが目立つ。
 しかし、国民の命を守るのは戦うことではない。まず国民を飢えさせないことだ。このことについてはどう備えるのかの議論はほとんど聞こえてこない。米国のイラン攻撃によるホルムズ海峡の封鎖が日本国民に突きつけている危機の認識が欠如していないか。

食料自給率は実質数%か?

 筆者は、20年以上前から食料危機への備えを訴えてきた。今回のホルムズ海峡の封鎖は食料・生産資材の調達への懸念をさらに深刻化させた。
 「一部に供給の偏りはあるが、国全体では量は十分足りている」という国の認識とは裏腹に、原油・ナフサの供給が滞り、農業機械、ハウス暖房などの燃料の高騰、輸送費の高騰、肥料や飼料に加え、ビニールや土を覆うマルチフィルムなど、あらゆる資材の高騰に加え、受注停止・供給制限も生じている。生産コスト高にとどまらず、食料生産が滞る事態にもなりかねない。
 日本の食料自給率は38%というけれど、化学肥料の原料はほぼ100%輸入に依存している。90%を海外に依存している野菜の種だけでなく、コメなどの種も同様の流れになりかねない制度改定が進む。実質的な食料自給率は最悪9・2%に近づいていると警鐘を鳴らしてきたが、それさえ甘かった。それには、エネルギー自給率が10%少々しかないことは算入していなかった。
 ホルムズ海峡の封鎖に直面し、エネルギー自給率の低さも勘案すれば、日本の食料自給率は実質数%しかないといっても過言ではない。

危機逆行の「食糧法」改正

 そのような中、農家はさらなるコスト高の一方で米価などが下落し始めて、「あと5年以内にここでコメを作る人はいなくなる。ここは住めなくなってくる」という地域が続出している流れは、いっそう加速しかねない。
 しかし、食品価格が上がったら30年間所得が減り続けている消費者も苦しい。だから、農家に必要な額と消費者が払える額のギャップを埋める政策が必要だ。農家の所得が確保され、消費者も安く買えて助かり、自給率も上げられる。海外では当たり前の政策だ。
 一刻も早く、苦しむ農家を助け増産し備蓄も増やし、食料自給率を上げないと飢餓のリスクが高まりかねない。しかし、政府はそういう政策はやらないと言っている。今国会での「食糧法」改正は、それとは真逆に、苦しむ農家を放置し、生産を抑制し、備蓄も減らし、自給率をさらに下げることになりはしないか。
 改正の柱の第一は「需要に応じた生産」だ。生産調整の文言はなくすが、国が需給見通しを出して、それに応じた「生産の目安」の達成に個々の農家が努めることを明記した。自治体、農協などによる「再生協議会」を通じた実質的な生産調整の強化を求めている。
 仮に価格が高く維持されすぎたら、その分だけ輸入米に置き換わるだけだ。去年は米の輸入が95倍にも増えた。結局は農家を追い込み、米の自給率も低下して、輸入が途絶したら、国民は米さえ食べられなくなる。
 第二が、流通実態把握の強化だ。需要に応じた生産の達成のための需給見通しの精緻化のため、流通段階におけるコメの量を、対象範囲を広げて罰則も強化して厳しく報告させる。
 そもそも需要・供給を正確に把握しようとしても限界があるのに、民間業界に余計な負担を増やしてまで注力すべきはそこではない。自由な生産を促し、需給に余裕をもたせ、消費者は安く買え、農家のコスト割れを補塡すればよいだけだ。
 第三が米の民間備蓄への移行だ。「国の備蓄の放出が手間取ったから民間備蓄を増やす」というのは建前で、本当は、国家備蓄に金をかけるのがもったいないという理由で民間備蓄を増やそうとしている。財政当局は2025年11月に民間備蓄にすれば403億円の備蓄費用が16億円に減らせると提言しており、これと符合する形だ。
 そもそも民間備蓄といっても固定的に取り置くわけではない。「一定量はいざというときに出せる量として認識しておいてください」という話で、本当にその量を出せる保証はない。しかも、民間業界からすれば、「なぜそんなことを強制されなければならないのか」ということになる。
 積極財政と言いながら、農業予算については相変わらず米国から武器などを買う穴埋めの削減対象としか見ていないかのようだ。財政出動ではなく「価格を維持したいなら生産を減らせ」という形で生産者へのしわ寄せを強化し、備蓄も民間に押しつけようとしている。
 中国は人口14億人の1・5年分の穀物備蓄があるというが、日本の米備蓄は15日分程度まで減っている。本当に物流が止まったら日本人は飢えかねない。それなのに、国民の命を守るという視点ではなく、「増産支援や国家備蓄に金をかけるのはもったいない」という考えしかなく、増やすべき米生産と備蓄を減らす方向へ動いているのはまさに逆行だ。
 今こそ必要なのは農家にもっと作ってもらい、備蓄も増やし、国産で輸入を置き換えることだ。そのコストは「もったいない」のではなく、いざというときに命を守る安全保障・国防のコストだ。米国から在庫処分のものを大量に買うのに巨額予算を使うのなら、まず、ここにきちんとお金をかけるべきである。それこそが本当の国防だ。

シェルター完備しても
食料はなし

 食料の国家備蓄をさらに減らしてシェルター作って国民の命が守れるだろうか。シェルターを準備して「攻めていくぞ」と言ったとたんに、台湾海峡や日本の周辺の海が封鎖されたら、食料生産能力も激減して、わずかな食料備蓄で、何カ月間、飢え死にせずにすむかどうかの問題になりかねない。これでは、自国政府自らが国民を飢えさせる「セルフ兵糧攻め」になっていないか。
 しかも、苦しむ農家と消費者を放置して、政策の重点はフードテックだと言い出した。フードテックは、既存の農家は地球温暖化の犯人だから、これからは植物工場とか昆虫食、人工肉などに切り替えていく、というものだ。苦しむ農家を放置する方向性とフードテックを進めるという方向性は実に「整合性が取れている」というのが恐ろしい。
 「植物工場で食料自給率100%をめざす」という発想でフードテックに予算を増やす方向性はどう見ても現実離れしている。これでは、一部の企業が儲けて政治にお金が還元されても、農業・農村は崩壊し、食の安全性も食料自給率もさらに蔑ろにされ、いざというときに国民は本当に飢え死にしかねない。

タネもますます危ない

 種子関連の2法案も制定されようとしている。
 まず、新品種開発をめぐる新法だが、気候変動に対応した品種開発を大義名分としているが、国民の税金や公的資源を投入して種苗企業をさらに儲けさせるという本質を隠すカムフラージュだと考えたほうがよい。実質的には、国の農研機構や県の試験場といった公的機関が、民間企業に協力させられる構図になっている。
 民間の種苗企業が新品種を開発するにあたり、公的機関が遺伝的データや施設など、さまざまな資源を提供して協力しなさい、という立て付けだ。そして、そこで出来上がった新品種は企業が持っていき、企業の利益のために使われる。
 種子法が廃止された後、各自治体では種子条例をつくって、地域の種子の開発を何とか続けていこうとしてきた。しかし現実には、県の試験場に向けられる従来型の育種予算が減り、人も減らされている中で、この新法によって、種子法廃止後に各地の種子条例で守ろうとしてきた地域の育種事業は、ますます形骸化する。地域に合った品種を守るのではなく、大企業が儲けたい方向の品種開発に、公的機関が動員される流れが強まる。
 さらに、種苗法の再改定では、特に注目されるのが育成者権の長期化だ。種で独占的に利益を得られる期間をさらに延ばす内容であり、まさに種の公共性に反する方向だ。企業が種ビジネスでより長く儲けられるようにする。
 これは新薬のデータ保護期間延長によってジェネリック医薬品が作りにくくなり、患者の命よりも巨大企業の利益を増やす構図と似ている。同じ問題が、日本が率先して、種の世界で起きている。日本の種の育成者権は世界最長になる(表)。
 ここで押さえておくべきなのは、「種を制する者は世界を制する」という構図だ。世界では種子企業が買収を重ね、自分たちの種を買わなければ生産できない仕組みをつくろうとしてきたが、世界中の農家・市民が猛反発して、苦しくなってきた。苦しくなるといつもそうだが、何でも言うことを聞く国があるじゃないかと。日本に要求が来る。
 まず公共の種子事業が邪魔だとして種子法が廃止された。自治体などが育成した種の知見を民間へ譲渡させる仕組みもつくられた。さらに、農家が自家採種できるままだと次から種が売れなくなるからと、自家増殖を原則禁止する方向へ種苗法改定が行われた。表向きの大義名分は「シャインマスカットが中国や韓国に取られたから、日本の種を守る」というものだったが、実際には企業に種を渡して独占させる流れを強めてきた。そこへ、今回の新法・改定が重なっているわけだ。
 そもそも種は誰のものなのか。何千年もかけて、多くの人々が育ててきた共有財産である。地域ごとに根づき、多様な種が育まれてきた。それを、一部の企業が少し新しい形質を加えたからといって長期に独占し、利益を増幅させていくのは、種の公共性に反する。それは、地域に根ざした品種の保存や地域社会の持続そのものに対する脅威である。
「飢えるか、植えるか」
 政府が何もしないなら、国民一人ひとりがやれることをやるしかない。この状況を変えられるとしたら、それは農家だけでなく、国民一人ひとりの行動であろう。
 一人ひとりが、自分でも野菜を育てたり、流通を担ったりすることで、国の応援がなくとも、食料生産を増やしていくことができるはずだ。これを私は佐伯康人さんの言葉をお借りして「飢えるか、植えるか」運動と呼んでいる。
 こうした運動は一人では心もとないが、草の根レベルから広がっていけば、大きな動きとなるだろう。小谷あゆみさんに倣い「ローカル自給圏」と呼んでいるが、そうした動きが続々と起こっている。
 筆者の講演会に参加したのを契機に、地元の市民グループが決起して、耕作放棄地を再生する活動を始めた、といったお話をたくさん伺っている。希望の芽は確実に広がっている。
 いまこそ一人ひとりの覚悟が求められる。