文化 ■ 中国での西夏文字の研究と保護

よみがえった少数民族の文字

西安外国語大学教師・陳垚旭 華語シンクタンク副秘書長・夏孝駒

「日中時事交流フォーラム」(広範な国民連合と中国民間の華語シンクタンクとの共催)第7回フォーラムは「沖縄の現状」を伊波洋一参議院議員などが報告、議論した。その中で沖縄での琉球語復活の取り組みが容易でない現状も出された。議論の中で、中国での少数民族言語の保護の現状を中国側がレポートしますと約束され、本稿が投稿された。感謝し掲載する。(編集部)

西夏文字で書かれた楷書体の碑文

1 西夏王朝の歴史

 中国における西夏文化の保護について紹介する。中国の経験が、日本での琉球文化などの保護になにがしかのヒントとなれば幸いである。
 西夏はタングート族(7世紀~13世紀ごろに中国西南部の四川省北部、青海省などに存在したチベット=ビルマ系民族)によってつくられた王朝であった。
 唐の末期、タングート族は唐王朝への反乱を鎮圧し、首都長安の奪回に尽力したため、タングート族の王は唐の皇帝から募兵集団司令官としての「節度使」に任命され、唐王室名字の「李」も与えられた。その後、タングート族の指導者は元の名字を捨て、「李」を姓とするようになった。唐が北宋に滅ぼされた後、タングート族の王であった李継遷は唐を裏切りたくないという理由から遼国と連結し、北宋に対抗する道を選んだ。1038年、李継遷の孫である李元昊が現在の寧夏回族自治区銀川市で帝位に就き、西夏を国家として成立させた。その後、西夏は戦争で優位に立ち、北宋、遼と3国が鼎立する態勢となった。
 1227年、西夏最後の皇帝李睍は、モンゴル軍が民衆に手をかけないことを期待して首都銀川の城門を開いたが、おぞましい大虐殺は避けられなかった。西夏のほとんどの国民は殺され、数人のタングート族貴族だけが銀川を脱出し、チベット高原の奥地で消えていった。
 西夏は終始正統性のある中原王朝の後継者を自認していた。制度的には、儒教を尊び、科挙制を官僚登用試験として使用し、法典である「天盛律令」も、唐の律令、宋の刑罰制度などの中原王朝の法制度を受け継いでいた。

2 初代皇帝李元昊が
西夏文字を創出

 李元昊は漢字の構造を参考にして西夏文字を創出した。漢字にそっくりだが、実際には一文字も見分けがつかない。西夏文字には漢字との相違点が主に4つがある。
 ①西夏文字に複雑な画数があり、ほとんどの文字は十数画から成る
 ②西夏文字は中国語の文字よりも斜めのはらいが多く、字の形は均整である
 ③西夏文字には漢字のような明確な部首がない
 ④漢字は原始的な象形文字から発展したもので、象形文字が多い。これに対し西夏文字はタングート族が封建社会に入ってから作ったもので、象形文字はほとんどない
 他に、西夏語の文法は中国語と異なり、日本語と似ている。例えば中国語は「食べるご飯(eating food)」だが、西夏語では「ご飯食べる(food eating)」と言う。

3 中国における
西夏文字の研究と保護

 その後の元、明、清王朝が西夏文化の保護を施さなかったため、西夏語利用者はいなくなり、西夏文字も死語となった。19世紀末期、フランスのデヴェリアが西夏文字を再発見し、文字として認めた。それ以来、多くの学者が西夏文字を研究し始めた。その中でも最も優れた学者は、ロシア人学者ニコライ・ネフスキーと日本人西田龍雄および荒川慎太郎である。彼らは西夏文字の辞書、経典などの資料を分析し、西夏語の解読に貢献し、貴重な研究成果を多数残した。
 中華人民共和国成立後の1950年代、中国における西夏研究はほとんど空白状態だった。その後、民族平等政策が実施された結果、一部の歴史学者が少数民族の歴史と文化の研究に注目するようになり、四川大学において、西夏史の研究を黙々と行う学者が現れた。60年代初頭、四川大学の学者らは大学院生を募集し、新世代の西夏研究者を育て始めたが、西夏文献に詳しい専門家は一桁に減っていた。
 72年から75年にかけて、寧夏博物館が銀川の西夏王陵の考古調査と発掘を行い、大量の建築部材、金銀装飾品、竹や木の彫刻、絹織物、金銅製の牛などの文物が出土した。これらの考古発見に基づき、学者たちは西夏文化に関する著作を次々と発表した。
 その後、97年、98年および2000年には、中国社会科学院が西夏文化研究センター、寧夏回族自治区が西夏博物館、そして寧夏大学が西夏研究センターをそれぞれ設立した。
 21世紀に入って以来、中国政府から膨大な資金を得た上、世界各地に散在していた西夏文文献が次々と中国で出版された。また、西夏研究に関連する出版物と研究データは続々と国家重点出版プロジェクトと重点研究テーマに指定され、「国家社会科学基金会」の支援を受けるようになってきた。また、「西夏学」最新の研究成果を反映している「西夏学Xixiaology」という学術誌も、中国語版SSCIジャーナルに収録されてきた。
 05年、寧夏社会科学院の専門家は西夏文のワープロシステムを開発し、コンピューター入力を実現させた。それ以来、「遠くから見ると、すべては文字に見え、近くで見れば文字ではない」西夏文字はコンピューター入力によって、印刷と出版が容易になった。
 その後、西夏の旧都に位置している寧夏大学は09年に寧夏大学西夏学研究所を設立し、西夏学研究、西夏学人材育成、国際学術交流などの多角的な研究を行ってきた。10年に、西夏学研究所はロシア科学アカデミー東洋文学研究所と連携し、中露西夏学共同研究所を設立した。
 また、2年ごとに開催される「西夏学国際学術フォーラム」も、開催地の文化事業と学術研究を促進する役割を果たしており、10年から23年まで計8回開催された。
 中国社会科学院の支援により、大学生向けの西夏文教材も出版されている。13年に出版された「西夏文教程」では、西夏文の歴史と西夏文学の概要を紹介しているほか、西夏文の構成や、西夏文の音韻、語彙、文法、各種西夏文の解釈も扱っている。
 15年から16年にかけて、寧夏大学西夏学研究所は、教育部(文科省)に人文社会科学の重点として設置された「国家社会科学基金会重大プロジェクト」に、『西夏通志』、『西夏語大辞典』、『西夏文化の多様性とその歴史的位置づけに関する研究』の刊行を相次いで申請した。
 『西夏通志』の完成によって、元王朝が宋、遼、金に史書を作成して与えただけで、西夏に史書を書いて与えなかったという遺漏を補うことができた(中国では各王朝が前王朝のために、史書を作る習慣があるが、チンギス・ハーンの元王朝は西夏のために史書を作らなかった)。21年に出版された『西夏語大辞典』は約600万字の大型辞書である。辞書の完成によって、初心者から専門家まで使える西夏文字を最大数で収録したツールとして学界に提供することができた。『西夏文化の多様性とその歴史的位置づけに関する研究』は、西夏文化の多様性を綿密かつ体系的に論じ、より広い中華文明という視点から西夏文化を考察し、中国歴史における西夏文化の位置づけと役割の科学的理解に貢献している。

西夏国王の墳墓

4 中国政府の全面支援で西夏文字はよみがえった

 現在、西夏文は文字コードの国際的な標準規格であるUnicodeに含まれ、コンピューターで入力したり表示したりすることができている。寧夏回族自治区・税務局の紙製のインボイスにも、西夏文での「寧夏地税」という偽造防止マークが入っている。
 西夏文を認識できる人が2、3人しかいなかった1970年代から、2009年に寧夏大学に西夏学研究所が設立され、何百人もの修士・博士課程の学生を養成するまで、西夏文の研究は中国政府の全面的な支援を受け、ついに死語になることを免れた。これはおそらく西夏国王自身も、西夏文および西夏文化の復活は思いもよらなかっただろう。