「いちのたんぼの会」の20年を振り返る

市民が農作業を続けてきて

いちのたんぼの会代表 樋口 茂敏(福岡県大牟田市)

「いちのたんぼの会」草刈り隊(右端が会代表の樋口茂敏さん)

 福岡県大牟田市の市民団体「いちのたんぼの会」は結成から20年を迎え、8月下旬に「20周年を祝う会」を開催しました。当日は、大牟田市長、市議会議員、市農業委員会会長、グリーンコープ生協支部理事長などの来賓を含めて40名近くが参加し、20年の軌跡を振り返り、今後の課題を確認し合いました。編集部のご厚意により、この間の私たちの取り組みの一端を報告させていただきます。

一人の農家との出会いから

 大牟田は旧産炭地で農業が主要な産業ではないのですが、「たんぼの会」の発足には、石炭産業の動向が少し関わっています。
 1997年3月に三井石炭鉱業有明坑が閉山し、当地から石炭産業が消えることになります。市は石炭なき後のまちづくり策を提起していました。それを理論的に批判する力は当時の私たちにはありませんでしたが、「何か違うよな」という感覚はありましたので、小さな勉強会を続けていました。その一つのテーマが農業でした。まずは地元の農家の話を聞こうということで、生協に野菜を納めている当時40代半ばだった農家に出会いました。2002年6月のことでした。その農家が、以降20年一緒に活動することになる山下公一さんでしたが、初対面ですっかり人柄に魅了されたのです。話の最後に彼は「消費者の皆さんと米作りをしたいと考えている」と話されて、思わず「やりましょう」と手を上げたのが事の始まりでした。

無農薬・無化学肥料での栽培に挑戦

 山下さんの地元は大牟田市櫟野という中山間地ですが、耕作を見合わせていた棚田を地主さんから借りて準備してくれました。こうして03年に10人ほどが4枚の棚田(計12アール)に田植えをして活動がスタートしました。メンバーは勉強会の参加者が主でしたが、農業高校を定年退職された方にはぜひにと参加していただきました。翌年から、大牟田市職員労働組合のメンバーが参加されました。「自治労の運動が庁舎内だけに止まるのではなく、地域の住民の運動と連携すべきだ」という方針で、副委員長、書記長、学校給食担当の執行委員などが農作業に参加するようになりました。こうして会の骨組みがほぼ出来上がりました。
 その後紆余曲折はありましたが、徐々に耕作面積を広げてきました。この地域でも農家の高齢化は進んでいて、「うちの田んぼも作ってくれ」というような話もあって、可能な限り応えてきました。無農薬・無化学肥料という方針でしたから、10年ほどは雑草との格闘でした。8月、9月の暑さの中で、田んぼにはいつくばって除草するという難業によく耐えたものだと今は思っています。その後、偶然に田んぼに発生したジャンボタニシを除草に活用する手段を会得して、現在は夏場に田んぼに入ることはほぼなくなっています。
 野菜の栽培は、山下農園を手伝うという形で関わっていきましたが、山下さんは研究熱心で、08年ごろから「炭素循環農法」に取り組むことになりました。農薬・化学肥料はもちろん堆肥なども投入せず、炭素成分の多い有機物(落ち葉や野菜くず、キノコを育てた後の廃菌床など)を畑に浅くすき込んで微生物に分解してもらい、その力を借りて作物を育てるという農法です。またソルゴーという草丈2mにもなるイネ科植物を育て、これを緑肥として活用するというようなこともやっています。
 現在会員は二十数名で、週2日午前中だけ農作業をしていますが、週1の人も、時々参加する人もいて、それは自由です。
 中山間地の棚田や段々畑は面積が小さく、その分だけ畦が増えますので、夏場は畦草刈りに追われます。しかも段差があるので、下段から刈って折り返して上から刈るという作業になります。秋には棚田と彼岸花という風景が出現しますが、あの景色は自然にできるものではありません。夏の終わりに畦草を刈るとその後に花茎が伸びて花をつけるのです。かつて安倍晋三氏が山口県の棚田を見て「日本の美しい原風景だ」と言ったと報じられた時、私は「あんたにはそれを言う資格はない」と書いたことがあります。

安全な農作物を届ける

 大牟田市に二つあった市立保育所のうちの一つ、「くぬぎ保育所」の経営が社会福祉協議会に委託され、それを機に食育を保育方針の中心に据えることになって、たんぼの会に給食食材納入の依頼がありました。たんぼの会だけで全ての野菜を賄うことはできませんから、不足分は減農薬のグループから、それでも足りない場合は市販の野菜という組み立てで、献立も旬の野菜を原則にということで取り組んでいます。12年から継続していますが、給食だけでなく稲作体験もということで、年長組の園児たちが田植えと稲刈りをしています。その後もう一つの市立保育所や別の幼稚園、さらには地元の小学校の5年生が来るようになって、普段は静かな山里にその日だけは元気な声がこだまします。
 こうした活動のなかで、消費者のグループとのつながりもできて、「たんぼの会や山下農園の野菜を買いたい」という声も出てきました。そこで15年に商店街の空き店舗をお借りして、週に1度の直売所「だんだん畑」を開設しました。空き店舗の借用期間が限られていましたので、19年に閉店しましたが、この頃たんぼの会に参加していた一人が、無農薬野菜だけを取り扱う「八百屋実」を開業しましたので、そこに引き継いでもらうことになりました。

生産者と消費者の連携をめざして

 私たちは市内の各所からこの中山間地に通うなかで、耕作放棄や農家の高齢化などの現実に出会ってきました。そこで06年にいくつかのグループに呼びかけて実行委員会をつくり、「農業者と消費者をつなぐ経験交流会」を開催しました。この交流会はその後、12年の第4回まで1年置きに開催しました。「農業後継者」や「有機給食」などのテーマで、基調講演と実践報告をお願いして学習してきましたが、4回をもっていったん終了しました。けれどもこの経験が、その後の取り組みにつながることになりました。
 その後、この国の食と農に関わる危機が深まることになり、それに対応する取り組みを行ってきました。18年8月、講演会「タネはどうなる」(講師:元農林水産大臣・山田正彦氏)を皮切りに、20年2月、講演会「国連の家族農業の10年と持続可能な社会への移行」(講師:愛知学院大学准教授=当時=関根佳恵氏)、20年11月、映画「タネは誰のもの」自主上映会、22年3月、映画「食の安全を守る人々」自主上映会などを続けてきました。これらは広範な国民連合・大牟田地区懇談会との共催という形での開催でしたが、県内の種子条例制定を求める運動や22年4月に福岡市で開催した「日本の食と農の未来を考えるつどい」につながっていきました。

今後に向けて

 20年が経過し、会にも高齢化の波が押し寄せていますが、昨年来比較的若い女性陣が参加してきましたし、仲間の一人が新規就農を決意しました。彼は現在、山下さんの下で修業に励んでいますが、私たちの当面の課題は、彼の農家としての生業が成り立つために支援するということです。そのためにも今は、どうすれば農福連携と有機給食が実現できるかの研究を続けています。農業の危機的な状況の中で小さな取り組みではありますが、志を共有する多くの人たちと連携していきたいと考えています。

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