東アジアの平和的安定こそ、沖縄の生き残る道
琉球大学名誉教授 上里 賢一
「台湾有事」は、沖縄の破滅
アジアの地図を広げると、沖縄は絶妙な位置にあることがわかる。西に広がる中国大陸の東南、日本列島の九州の南に弓状に連なって台湾につながっている。さらに南に目を向けると、フィリピンから太平洋島嶼、インドシナ半島からマレー半島、インドネシアへと続いている。
かつて、琉球王国時代の琉球は、これらの地域を相手に交易し、「舟楫を以て、万国の津梁となす」(万国津梁の鐘銘)という言葉で知られる「大航海時代」の黄金期を形成した。1372年(明の洪武5年)に中山王察度が、明の皇帝の招諭に応じて使者を派遣してから、1879年(明治12年)に日本に武力併合されるまでの約500年間、琉球は独立国として明・清の冊封を受けた。途中、1609年に薩摩の侵攻を受けて、幕藩体制に組み込まれるが、幕府と薩摩の対中国貿易への関心から、薩摩支配は隠蔽され、中国との交易は薩摩侵攻後も継続された。
17世紀後半から、18世紀にかけては、琉球のルネサンスと言われるほどの琉球文化が花開くが、これは、日本、中国、朝鮮、ベトナムなどアジア地域、なかでも東アジアの政治的安定が大きく影響している。
この時期に中国から琉球経由で日本に伝わった主なものとして、次のものがある。歴史学者の東恩納寛惇は、産業の甘藷(イモ)の伝来(1605年、野国総官)、医学の全身麻酔による外科手術(1689年、高嶺徳明)、道徳教育の「六諭衍義」(1708年、程順則)を挙げているが、私はこれに空手、三線(三弦)、孟宗竹、つけ揚げ等を加えたい。
この歴史を見れば、今われわれが中国や朝鮮半島、ベトナムなどのアジア諸国とどのように向き合うべきか、答えがある。「台湾有事」を揚言して、アメリカと一緒になって中国に対抗しようなどということが、沖縄の経済的繁栄に逆行し、生き延びる道を閉ざすものであることは、冷静になって考えれば分かることだ。
「復帰50年」と反基地の闘い
沖縄にとって「復帰」とは何だったか。さまざまな意見がある。「復帰30年・40年」との違いは、沖縄の主体性、自立・自律を強調する論点が大きくなったことだ。新城和博氏は、「沖縄の復帰とは何か、むしろ本土の日本人に問いたい」と言う。
「復帰」に託した沖縄の夢の一つは、平和憲法を手にすることであった。沖縄住民は、日本で唯一地上戦を経験し、「命どぅ宝」、「軍隊は住民を守らない」を教訓として獲得した。米軍支配下で、島ぐるみの土地闘争、主席公選や教公二法反対闘争など、血の滲むような闘いで自治権を勝ち取り広げてきた。
しかし、「復帰」すると、教員の政治闘争を制限する公務員法があり、公選制だった教育委員会は任命制、肝心な憲法も解釈改憲で、憲法の精神が骨抜きにされている。夢は無残に裏切られた。こともあろうに、日本政府が米軍の盾となり、住民の面前に立っている。
米軍統治下での沖縄の闘いは、阿波根昌鴻さんの伊江島の闘争に象徴される非暴力の抵抗である。それは、今日の辺野古の新基地建設反対運動にも引き継がれている。悲しいことに、沖縄の民意は日本政府によって無視されるか、踏みにじられている。基地維持のために特措法が作られ、名護市や辺野古周辺の区に見られるように、基地建設に対する姿勢によって交付金を与えたり、与えなかったり、地域の一体性を破壊し、分断している。憲法の保障する地方自治は、政府によって大きく制限されている。
日本の安全保障のため、沖縄では憲法の上に安保条約が置かれ、国土面積のわずか0・6%の沖縄に、全国の米軍基地の70%以上がある。これを「構造的差別」と呼ぶ研究者もいる。日本の安全保障のために、安保が必要だというなら、その負担は公平であるべきだ。沖縄問題は、日本の真の独立と民主主義、憲法の問題である。
沖縄から東アジアの平和構築を
今のままでは、沖縄は安保の負の部分の吹きだまりとなり、軍事要塞化される。これは、「国を守る」ために、沖縄が再び犠牲になることである。一部勢力は、中国の脅威に対する「抑止力」を持ち出して、中国包囲網形成の口実に利用している。これは東アジアの平和創造に逆行するものだ。今こそ冷静に、50年前の日中国交回復時の「日中共同声明」と1978年の「日中平和友好条約」の精神を想起したい。「国際連合憲章の原則にもとづき、日本国および中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力または武力による威嚇に訴えないことを確認する」(「日中共同声明」)。これは、その一部である。
東アジアの平和的安定は、沖縄の繁栄と存立の基礎である。沖縄を東アジアの平和構築の場とするため、知恵を出し合いたい。基地建設に反対すると同時に、現在ある基地の返還とその活用の方法を考えたい。「基地返還アクションプログラム」(大田県政で策定)を具体的な政策にしていきたい。若い人たちを中心にして、「復帰60年」には、基地のない沖縄へ向けて、返還跡地の活用の具体的取り組みが進んでいるようにしたいものだ。
(7月30日記、発言予定原稿による)