寺沢秀文・満蒙開拓平和記念館館長に聞く
今、生かさなくてはならない『満蒙開拓』の歴史
9月18日、満州事変の発端となった柳条湖事件(1931年)から90年を迎える。旧南満州鉄道の線路が「爆破」されたという事件である。日露戦争の結果「満州」での権益を獲得した日本は、植民地権益拡大を狙い兵力行使の口実をつくるために、関東軍幹部が仕組んだものであった。翌年には、傀儡国家「満州国」がつくられ、中国への侵略が拡大していく。軍隊だけでなく、青少年を含む民間人も「開拓団」として送り込まれた。
今日、衰退するアメリカの中国封じ込め戦略に従った安倍・菅政権のもとで日中関係はかつてない険しさとなっている。政府やマスコミにあおられ、国民の間にも「嫌中」「反中」感情が高まっている。こうした今、歴史に学び、今に生かすことは重要である。編集部は、長野県阿智村に民間の力でつくられた『満蒙開拓平和記念館』館長の寺沢秀文さんにお話を伺った。文責、見出しを含めて編集部。
名ばかりの「開拓」、実は農地も家も中国人から奪ったもの
実は私自身の両親も「満蒙開拓団」の中にいました。私の父親は、戦後、シベリア抑留も経て何とか生きて帰って来て、実家近くの下伊那郡松川町の戦後開拓地に入植、そこでまた開拓を始めるわけです。私はそこで生まれ育ちました。その父が子供のころから話してくれたことがあります。
それは、かつて満州に行く時に、「開拓団」ということで開拓すると思って行ったが、行ってみたらそこにはあらかじめ用意された家も畑もあったと。「開拓」とは言うけれども、もともとそこに住んでいた中国人の家や畑を奪って入っていったのが実態だったと。日本に帰って来て山の中に入って開墾し実際の開拓の苦労をしてみて改めて、中国農民の、自分たちの大切な家や畑を日本人に奪われてしまった悲しさ悔しさが本当によく分かった、あれは本当に日本の間違いだった、中国の人々には申し訳ないことをしたという話を、私は子供のころから聞いて育ちました。
父親は、91歳で亡くなったのですが、亡くなる前の90歳まで「語り部」として、満蒙開拓の話をしてくれました。私は幸いにして肉親の父親からこうした話を聞くことができました。
その父の言葉が、こうしてボランティアとして記念館の立ち上げに関わり、今、館長を務めている私の一番の原点になっていると思います。
「残留孤児」に出会って
しかし、父親から先ほどのような話を聞いても、正直なところ学生時代とかはあまり意識していませんでした。その後、東京から帰って飯田市内で仕事を始めた。ちょうどそのころが、中国からのいわゆる「残留孤児」が帰ってきた時期でした。
私は、下伊那の戦後開拓で生まれましたが、長男に当たる兄は満州で生まれ、満1歳で現地で命を落としていました。「残留孤児」の報道や『大地の子』というドラマもあったものですから、もしかしたら兄もあんなふうになったかもしれないと思うと、他人事ではない。父親の言葉も思い出すなかで、仕事の傍ら、中国帰国者支援を熱心にやっていた地元の日中友好協会に入って残留孤児支援のボランティアを始めました。
やっていくなかでだんだん分かってきたことがありました。それはたくさんの残留孤児が帰ってきますが、実はその多くは開拓団の子女だった。どうして開拓団の子女だけが残留孤児として残されたのか。そのことを調べてみようと思ったら、全国どこにも満蒙開拓に特化した資料館はない。そんなこともありまして、満蒙開拓という歴史を伝えるために資料館をつくろうとなりました。
全国で一番多く送り出した長野県の中でもその4分の1を送り出したのは、この飯田・下伊那地域です。その地に、全国で唯一の記念館をつくろうじゃないかということで、飯田日中友好協会が提唱者になって、地域の皆さんにも提案して準備会をつくったのが2006年でした。
当初は、国策で行われた満蒙開拓ですから、できれば国立とか県立でつくってほしいと訴えかけました。ですけれどもなかなか難しい面があって、結局は民間でとなって足掛け8年かけてようやく13年に開館したわけです。
満蒙開拓団とは何であったか
なぜ「満蒙開拓団」が全国から送り込まれていったのか。
その背景とか目的なんですけれど、大きくは三つあったと言われています。
一つ目は、満州国は、実質的には日本が植民地的に支配していた場所でした。その支配力を強めていくためには、そこに定着する日本人の人口を増やす必要があった。そのために開拓団で人々を送り込む必要があった。
二番目には、今度は日本国内の事情です。
そのころ農村は子だくさんで、私の父親も、今の下伊那郡高森町出身ですが、そこの農家の8人兄弟の3男坊だった。山の中で、分けて与える土地がない地域です。しかも、農家の収入の一つは養蚕業、お蚕さんで、アメリカなどに生糸を輸出していたのですが、1930年代の世界大恐慌で価格が5分の1くらいに暴落し、農家は現金収入も途絶える。貧しい中で、満州に行けば20町歩という広い農地がもらえるという、じゃあ満州へということになった。
いわば日本国内からの人減らしということもあったと言われています。
三番目には、これが一番大きな目的だったと言われますが、対ソの戦略上の必要さです。日露戦争で日本はかろうじてロシアに勝って、この地域のロシアの権益、特に鉄道などの権益を手に入れた。さらに、満州事変を契機として「満州国」をつくった。
日本に負けたロシアはその後、ソ連となって、満州を奪い返そうと狙っているというわけですね。満州がソ連によって奪い返されると、朝鮮半島から日本本土も危ないということで、当時「満州は日本の生命線」と言われた。この防衛のために日本軍、いわゆる関東軍がたくさん入るが、なんといっても日本の約3倍と言われる面積ですから、関東軍だけではとてもカバーできない。そこで民間人主体である開拓団をここに送り込むことによって満州防衛の一端を担わせることが大きな目的であったと言われています。
いわば北のソ連と、もう一つ、現地の「抗日勢力」に対する、いわば人間の盾、人間の防波堤として送り込まれていった。
子供たちも「義勇軍」として送り込まれた
そういった国策、満州の「防衛」のために送り込まれたということです。「移民」というと、南米のブラジルなんかの移民を思い浮かべる方が多いのですが、そういった移民と全く様相を異にしたのがこの満蒙開拓の歴史だった。
また、全国の開拓団のうちの約3割、長野県の場合は約2割は満蒙開拓青少年義勇軍と言って、満14歳から18歳の少年を集めて、それを現地に送り込んでいる。こんな少年たちが長野県でも6千人以上、14歳から18歳ですから多くは学校年齢だったわけですけれども、「往け若人! 北満の沃野へ‼」とかいったポスターが学校に張られ、町村には割り当てがある。このノルマを果たすために学校の先生方も一生懸命にならざるを得なかったということもあったりして、このような少年たちまで送り込んだのも満蒙開拓なんですね。
戦後「悲劇」の責任は日本政府に
満蒙開拓に27万もの人が旧満州に入っていった。けれども最後の場面で、昭和20(1945)年の8月9日にソ連軍が満州に突然攻め込んでくるわけです。その時に実は開拓村には若い男性はほとんどいなかった。敗戦直前になると関東軍の兵士が足りなくなって、開拓の村から18歳から45歳の男性が皆、召集されていく(根こそぎ動員)。私の父親も、終戦のわずか2週間前に軍隊に入っていく。
そこにソ連の軍隊が襲い掛かり、あるいは現地の人々が襲い掛かってくる。両親の話で先ほど触れましたが、「開拓」といっても実際には中国の人々の家や畑を奪って、そこにいた中国人を追い出したり、村に残った人々は日本人の小作人、使用人として使われたりした。当然、中国の人々は日本人のことを恨んでいた。ですから最後の場面では、ソ連軍が襲い掛かった時に開拓村は中国人からも襲われるんです。それにはそういった背景があったわけです。
「関東軍」は作戦通り秘密裏に撤退
ところが守ってくれると信じていた日本軍(関東軍)はもうそこにはいませんでした。関東軍は、もし強力なソ連軍が攻め込んできたら、定められた朝鮮半島寄りの「作戦地域」まで南に下がり、他の地域は「放棄」するという作戦を立てていた。作戦通りに関東軍は南へ行く。しかも敵に知られてしまうからということで開拓団には一切そのことを知らせないんですね。結果として、置き去りにされた開拓団からはたくさんの犠牲を出すことになります。特に集団自決なんかでたくさんの犠牲者を出すわけです。
その中、何とか生き延びた子供たち、婦人たちが日本人残留孤児、残留婦人として残される。その多くは実は置き去りにされた開拓団員の子女、子供たちが多かったんですね。戦争は終わりましたけれども、多くの日本人が日本に帰ることができませんでした。
「移民」、実は「棄民」
それはなぜかというと、当時の日本政府の方針が外地にいる日本人は現地にとどまって、現地で生き延びよ、ということだった。これも記念館に展示がありますけれども、終戦と同時に日本の政府は二つの文書を出しています。一つは「昭和20年8月14日」ですから、日本のポツダム宣言を受け入れて敗戦が決まったその日に日本の外務省が外地の日本人に対して、在外の居留民はその地に「定着」ということで現地にとどまれということを通知する。もう一つはその10日後、「昭和20年8月26日」に大本営参謀名で出した文書はもっと中身がひどい。「満鮮(満州、朝鮮半島)に土着するものは日本国籍を離るるも支障なきものとする」と、要するに、現地にとどまって現地で生き延びよということを言っているわけです。
帰国した残留孤児の多くが「残留孤児訴訟」を起こしました。その中で、国策で「移民」として渡らせておきながら最後には国によって「棄民」させられてしまった、と訴えるのは、このことがあるからなんです。
多くが日本に帰ることができたのは、翌年、1946年からです。しかし、日本に帰っても、再び困難が待ち受けていた。もともと分けてもらえる農地がなくて、満州に行っている人たちばかりですから、日本に帰ってきても行く場所がないんですね。どうしたかというと、再び故郷を離れて全国各地に再入植をしたり、あるいは県内でも手のついていなかったような山間の戦後開拓地に入っていったりした。私の両親もそうです。
「不都合な史実」にも向き合わなくてはならない
満蒙開拓というのはそういう多くの犠牲を出した歴史です。けれども、大きな問題として、「満蒙開拓は語られなかった歴史」だと言われています。なぜ、あまり語られなかったかといえば、やはり、向き合うことが難しい、不都合な歴史、不都合な史実であったということが大きな理由だと言われています。
「被害」だけでなく、「加害」の歴史にも向き合う
日本人の開拓団の皆さんのそういった犠牲、被害も語り継いできていますけれども、それ以前に現地の人々に対する「加害」という面があった。そういった満蒙開拓の「被害」と「加害」の両面に向き合っていくことが大切なことだと改めて思い、そのことをスタンスにこの記念館をつくった経過があります。
よく言われることですが、不都合な事実に目をつぶるものは再び同じ過ちを繰り返すのが歴史です。たとえ不都合なことであっても、なぜああいうことが起きてしまったのか、二度と同じ犠牲者を出さないためには不都合なことであってもそれに向き合っていくことが必要であるとの思いのなかから、記念館を立ち上げ、何とか今も一生懸命、運営しております。
なにぶんにも今、コロナの中で大変厳しい状況はあります。けれども、おかげさまでというか、県外に行けなくなった県内の修学旅行なんかが若干来てくれていますので、なんとか維持しております。
私たちのような民間が手弁当でやっていますが、それでいいのか、本当はもっと国や行政ももっと関わってやっていくべきではないかとも思っています。
国策の嵐の中でも「自由大学」で学び抵抗した人々が
特に若い人たちに、あれは昔のこととかいうことでなくて、自分たちがこれから生きていく、未来に向けても平和な時代を続けていくために、それは他人事ではなくて自分事として受け止めてほしいと思う。もし自分がその時だったらどうなっただろうか、どうしただろうか、あるいは中学生であれば、自分と同じ年ごろの少年たちが青少年義勇軍として満州に渡っていってたくさん亡くなっていることについて、どう思うのか、自分だったら行っただろうか、自分だったらどうしただろうかと自分事として捉えてほしい。
国策として進められ、町村など行政も、あるいは子供たちを送り出していった教育界も、当時だから仕方なかったという方も結構いらっしゃるんです。しかし、あの当時だから仕方なかったではなくて、二度と繰り返さないためにはやはり、そのことにきちんと向き合う勇気を持ってほしいということを改めて思います。
実は、当時でも頑張った自治体などもあったわけです。当時の旧大下条村の佐々木忠綱村長は「準備に時間がかかる」などの口実で実施を延ばし、「分村」計画を最後までやらせなかった。佐々木村長が、なぜそういったような感性を持つに至ったのか。当時、「伊那自由大学」という、いわば市民大学のようなものが飯田にはあって、佐々木さんはそこに何里も歩いて通っていました。こうしたことが影響していたとご本人もおっしゃっておられます。そう思うとこの記念館も、これはおこがましいかもしれませんけれども、現代の自由大学でありたい。
こういったことを学んで、やはりこれっておかしいと感じられるような、たとえ国策でもこれって違うじゃないかということを感じられるような、そういった感性を持った国民が一人でも増えるように、そのためにも学びの場が重要だと改めて思っています。