統一地方選結果から考える

地域での大衆運動が不可欠

熊本県・広範な国民連合全国世話人 山下 初男

 今度の統一地方選挙の特徴は、一つは参政党とか新しい政党が出てきたこと。関連して「維新」の全国展開、そして女性の増加、その3つぐらいがマスコミを通じて宣伝された。それがかなり有権者の意識の中に浸透して、選挙の結果としても反映している。


 熊本でも女性の県議が1人から5人になった。政治経験が何もない女性がいきなり当選した。維新も議席を獲得した。これらは特徴というよりも、マスコミが持ち上げた結果でもあった。また、単に新人が無所属で出るのではなくて、それぞれの政党の公認として出たことは、政党を選ぶ選挙であったと言える。女性候補者を積極的に擁立する政党、また、新しい政党を有権者は選択し、無所属候補の落選が相次いだ。既成政党vs新しい政党の対決の構図となり、参政や維新の躍進につながった。

〈「新たな戦前」と言われる状況について〉

 われわれは労働運動なり、市民運動で戦争の悲惨さとか平和の大切さをずっと教えられてきたけれども、今日では労働運動の中からその課題が消えてしまった。もう一つは学校教育。教育の中で、日本国憲法の基本的なことを教えられ、民主主義とは何か、三権分立とは何かなどを学んできたが、それが公教育の中から消えてしまった。その結果、今の若い世代は、権利意識がなくなってしまった。
 また、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のように、連日マスコミが報道することで、高揚感を煽り、国民の意識中に、ナショナリズムが刷り込まれている。よく、セックス、スポーツ、スクリーンは大衆操作の武器だと言われるが、それらによって、政治に対する関心が薄れている。
 その意味では、音楽とかスポーツなどを含めて、本来の健全な文化をつくることを、政策としても運動としても取り組んでいくことが必要だ。諸外国では、デモ行進とか集会でも、常に音楽がある。単なる娯楽とか刺激の音楽だけではなく、メッセージや社会性のある音楽や芸術も広めるべきだ。

〈生活問題や農業問題などを共有しよう〉

 特に地方選挙では、日常の生活の中に出てくる矛盾を拾い上げて政策化していくことが大事ではないか。場合によっては東京と熊本の政策というのは、優先順位が違ってくるのは当然だ。熊本は農業が今でも重要な産業である。しかも、農業問題としてだけでなく、中山間地の地域をどうするのかという視点で捉える、全県的な課題にもなっている。
 そういう問題など、運動や政策づくりで、きめ細かさが足りないのではないか。例えば、統一選挙の時期は、入学、卒業がある。入学金をどうしようか、東京に子供を行かせたいがやれない。そのように経済的な問題で多くの人が悩んでいる時期でもある。働いている人の4割が非正規で、中産階級もぼろぼろと下層に落ちているわけで、そういった状況がもたらす問題を政策化していったのか。教育費の問題で、給付型の奨学金を増やすなど。生活の中に出てくるいろんな矛盾を政策化していく姿勢、能力があるのかというのを問いたい。最優先の課題を訴えるということでは、維新などが功を奏していると言える。参政党は、健康の問題に的を絞っていた。
 選挙というのは、通常の政策課題とは違ってくるから、戦術も絡んだ訴え方も必要になる。わかりやすくわかりやすくということだ。その意味ではポピュリズム的なところがある。ポピュリズムはある意味大衆路線だから、悪いばかりではない。民衆のつぶやき、悩みに耳を傾けて、それに乗っていくということだから、民主主義の一つでもあると言える。
 言い方を変えれば、有権者や市民が、何を政治や議員に求めているのか、それは日常的な活動の中でしかわからない。それをつかんでいるのかどうか。事務所の中で、デスクワークで書く政策ではいけない。政党は、日常活動を通じて、政治、政党、議員に何が求められているのか、常に把握することが大事だろう。また、政党(議員)として、市民に何を伝え訴えたいのか、双方向が必要となる。その際、日常の身近な問題を取り上げ、わかりやすい言葉で伝えることが大切になる。

〈これからの運動の進め方について〉

 まず、政党は政治に対する責任が問われる。私たちは常々、検証・総括して文章として出しているが、それが本当に生かされているだろうか。責任の取り方として「代表を辞めます」というのがあって、それはそれで責任の取り方の一つだが、肝心の問題点、課題が引き継がれていかない。検証・総括の結果が、責任も含めて引き継がれていく、そういうのが日本の政治にはない。各党共通で、どの党にもそれがない。何回やっても同じような総括をしている。検証・総括が引き継がれていかない弱さがある。それを有権者や市民は見ていると思う。反省や課題を明確にし、しっかりと克服していく政党活動の在り方が問われている。
 労働組合の運動については、春闘などを見ていると、私は「翼賛春闘」になっていると思う。使用者側と労働者と政府の三者の春闘、政府が口を出す春闘になってしまっている。まさに、談合春闘であり、言い過ぎだろうか。労働者は闘いを通じて要求を前進させるべきで、諸外国ではそうしているが、日本は違っている。「体制翼賛」で、政府から賃上げをしてもらおうとなってしまった。労働組合の意義がなくなったと言い切ってはいけないが、労働組合の意義が問われていると言える。本来なら要求をまとめて、労働者の権利である団体交渉、場合によっては実力行使で勝ち取ることが大切だ。今の状況では勝ち取ったという意識が生まれない。そうした意識が生まれないということは、それと表裏一体である権利意識も生まれない。政府から実現してもらったとか、トリクルダウンによるもので「アベノミクスは悪いことじゃなかった」ということになる。労働組合とは何かの原点が問われる。もう一度、自己改革して、労働組合とは何か、お互いに勉強することが大事になっている。
 農民の運動についても、労働運動と一緒で、事実上農協が瓦解してしまった状況だ。いいも悪いも農協は、むしろ旗を立てて米価闘争を引っ張ってきた。しかし現状はといえば、物わかりの良い農協になっている。政府の「食糧は買う力があればいいんだ、生産はいらない、自給は必要ない」ということを許してしまった。労働運動と一緒で、農協も弱い者が団結して要求を実現する実態を失っている。その結果、日本農業は崩壊の淵に追い込まれている。
 日本という国をどうしていくか。冷戦終結から今日まで30年の間に、世界のほかの国では、問題を抱えながらも所得は上がっているのに、日本だけが遅れてしまった。まさに、失われた30年だ。それは、振り返れば、国民一人ひとりの意識、民主主義が不十分だったというか、進歩がなかったことだ。民主主義が進歩するということは、憲法を生かすということだ。その点でも、十分な運動にできなかったという反省が必要だ。
 以上のことを踏まえ、これからの運動は、「新たな戦前」という危険な状況を許さない運動がとても重要になっている。ただこの場合、「新たな戦前」は戦う体制づくりにもつながる響きがあり、翼賛体制のスローガンに利用されかねない。「新たな戦前」は、慎重で丁寧に扱うことが重要ではないか。
 また、それと同時に、それぞれの県や地域で、もっと大衆の切実な声を取り上げ、具体的な運動にすべきだ。現状に対する不満や怒り、方向を求める人はたくさんいる。そうした人々の受け皿になる運動が本当に求められている。

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