辺野古転覆事故を受けて思う

表現規制には敏感に 現地学習の大切さ

専修大学ジャーナリズム学科教授(言論法) 山田 健太

 3月16日の痛ましい事故から1カ月がたった。事故原因の調査・捜査が続くなか、亡くなられた高校生の遺族がインターネットの投稿サイト「note(ノート)」で3月28日以降、情報を発信されている(4月16日までに8回)。そのなかで、メディア報道の在り方への指摘・批判は重く、改めて誤ったイメージを誘引したこと、警察発表即実名報道の意味合いなど、きちんとした反省と議論が求められている。
 一方、そのなかでも誤情報についての指摘があるが、ネット上での誹謗中傷は遺族のほか、関係当事者、さらには事故とは全く関係がない民泊施設や教育機関にも向けられてきた。なかでも収まる気配がなかなか見いだせないのが、抗議活動や平和学習についての罵倒ともいってよいような批判的言動だ。

複合差別

 いま沖縄をめぐって起きているネット空間を中心とした誹謗中傷にはいくつかの要因が絡まり合っている。一つは、世界的に広がっている分断と排斥の風潮と、政治家がそれを煽っている状況によって、一般市民とりわけネット匿名言論においては、さらに差別言動の閾値が下がっていることが挙げられる。
 二つは、少し前の普天間に人は住んでいなかったといった類いの明らかなデマや、辺野古の座り込み行動に対する嘲笑というさげすんだ笑いによる見下し感がある。これらは、沖縄に対する差別的感情が根強く存在することを表していよう。
 そして三つには、集団強制死(集団自決)や慰安婦の日本軍関与の否定など、沖縄戦に関する歴史修正主義の根強い主張がある。それらに対する「日本人ファースト」的な賛同が幅広くみられており、これは沖縄県内においても若手・中堅層を中心に、参政党が根強い支持を集めていることと無縁ではなかろう。
 さらにもう一つ挙げるなら、経済的な落ち込みのなかで、憂さ晴らし的な、あるいは面白半分のヘイトが広がっていることがある。稼げるコンテンツとしてヘイトがあり、まさにビジネスとして成立している現実がある。それゆえに、県内外で広がりをみせる今回の差別言動は、一過性のものではなくじわじわというより勢いをもって一定期間長く続くものになりかねない危険性を孕んでいると思う。
 こうしたなか、参政党の梅村みずほ参院議員が4月1日の参院沖縄北方特別委員会で、市民団体や民泊、美術館などの思想を国が調査し、平和学習を実施する学校に情報提供するよう求めた。これもまた、こうした差別構造を固定・助長させるものの一つであろう。
 なお文部科学省は、政治的中立性を定めた教育基本法14条②に基づき、特定の見方に偏った教育で生徒の主体的な考えを妨げないことを求める通知を2015年10月29日に出している(「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」)。
 高校生が放課後等にデモや集会に参加することや、主権者教育との関係などで議論になった通知であるが、4月7日に改めて「適切な教育活動の実施について」として周知する旨を「学校における校外活動の安全確保の徹底等について(通知)」として発出した(8文科初第58号)。通知は全国の教育委員会と私立学校を所轄する都道府県の担当部局などにあてられたものだ。

抗議も表現行為

 前出の思想調査の前提として、「過激な活動をされる方が多いのは沖縄の特殊事情」との発言があるように、いくつかある批判の対象の一つとして、抗議活動自体が「悪」のように捉えられ罵詈雑言が投げつけられている。しかし、こうした市民の直接的な表現活動は、SNS同様あるいはそれ以上に重要な市民の表現方法であって、これらを否定することは、ネット上の投稿を否定することでもあることに気が付いてほしい。
 デモや集会、ビラやチラシといった表現行為は、プリミティブ(原始的)表現とも呼ばれ、最も簡便に自分の気持ちを表現できる手段であって、表現の自由の根源的なものである。一方で為政者からすると、その大衆的な力は脅威でもあって、より強権的に抑え付けがちでもある。また市民も時に、自分に関係がないとして社会の平穏を壊すものとして公権力の規制を傍観しがちだ(詳しくは、拙著『法とジャーナリズム 第4版』勁草書房)。
 だからこそ余計に、この種の表現行為を規制しようという声には敏感になる必要がある。気軽に否定するような社会の空気に対しては冷静に、自由に批判をしたり抗議をしたりすることができる社会の大切さに理解を求めたい。
 そもそも、現地での実習を実施するにあたり、その組織(学校)や担当者は心血を注ぎ、通常の講義よりも多くのエネルギーを費やして実施しているはずだ。少しでもよりよいカリキュラムにするために工夫や努力をしているわけで、自身の自己満足や自分の思想を押し付けるようなプログラムは決して長続きしない。こうした地道な努力を全否定するような軽々しい批判は許し難い。
 確信的にいわゆる平和学習を「反日教育」とし、歴史修正主義の立場から沖縄の歴史を意図的にゆがめようとしている人が一定数はいる。そうした彼らの言動にはきちんと対峙して、間違いであることを言う役割がジャーナリズムにはある。これから県知事選に向け、まさにファクトチェックの手腕の見せどころともいえよう。
 同時に、嘲りで他者を蔑む空気が強まっているのは、大変悲しいことだ。当事者にその反論を委ねるのではなく、報道機関にこそ事実による反証をきちんとしていってもらいたい。これは選挙期間中の切り取り動画に対する対処と同じで、民主主義を維持していくうえでも決して諦めてはいけないことだ。

現地を訪れる意味

 断片的な情報に基づき、叩きやすい者を叩く昨今の風潮は大変残念だし、こうした社会は個人も組織も活動がどんどん萎縮してしまい、とてもつまらないし生き苦しい社会になってしまう。実際に現場に足を運ぶこと、あるいは当事者の話を聞くことは何事にも代え難い経験であり、学びの機会であって、そうした機会を少しでも増やそうと教育の一線で努力されている先生方の努力をむしろ後押しすることが必要だ。
 現在進行形のイラン戦争一つとっても、在沖米軍基地から海兵隊が派遣されている現実があるわけで(米軍は、派遣報道が不正確だとして琉球新報に対し4月7日の会見参加を拒否したことが問題になっている)、平和を沖縄で考える機会を設けることは貴重だ。しかも、地方自治体と国との関係、独特の食や文化、美しい自然に触れることもできる。ただしあくまでも大切なのは、さまざまな選択肢の中で、担当の教員・学校が自由に選択できることであり、現在のようなバッシングによって、選択の幅が狭まってしまうことがいちばん憂うべきことだ。
 社会のさまざまな事象に関心を持つこと、背景や歴史を学んだうえ、現地に行き当事者に会い、自分とは違った価値観や考え方があることに想像をめぐらすこと、それについて議論し自分の将来の行動に生かすこと、こうした学びを実現する一つが、沖縄での現地学習だと思う。しかも学びは、即時的にすぐ効果が見えるものではない。その場ではピンとこないことがあっても、5年後10年後に経験は生きるのが教育というものだろう。
 (琉球新報2026年4月10日付掲載の寄稿に一部加筆)

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