「知る」「感じる」「伝える」、これが私たちの責任
春口 あかね(筑紫野市議)
私は昨年に次ぐ訪問だったが、たった1年で改めて中国の急速な発展に目を見張らされた。
同時に、とくにハルビンで出会った青年たちの「歴史をしっかり学んでください。そして、二度と戦争をしないよう、私たちの世代で友好を築きましょう」とのメッセージを重く受け止め、日中双方が共に平和を追求し、さらに繁栄を共有していくための一歩を踏み出したい。
以下、報告します。
トランプを日中関係前進のチャンスに変える
今回の訪中においては、日中双方が直面している政治・経済面の課題について意見交換を行うとともに、地域の安定と発展に関して多角的な協力を模索する機会を得た。
中国での最初の22日の午前中、広範な国民連合と友好協力関係にある「華語シンクタンク」との意見交換会が行われた。中国側の中心の中国清華大学国際関係学院の劉江永先生は「米中貿易摩擦の影響緩和に向けた協力の必要性」と「アジア地域の平和的環境整備にむけた協調的取り組み」の二点を強調した。中国は、トランプ政権による追加関税(いわゆるトランプ関税)の負の影響に苦慮しており、日中双方が協力してアメリカ主導の保護主義的な動きに対して柔軟かつ建設的な経済連携モデルを提示していく重要性を強調していた。
夜は、今回の旅をコーディネートしてくださった中国国際友好連絡会(友連会)の蔡鵬鳴秘書長主催の意見交換夕食会だった。そこでも蔡秘書長が、トランプの攻撃はチャンスであるといった趣旨を述べられた。
この一日、日中協力して発展と平和を実現しようと確認できた。
先端技術の粋を見学
22日の午後は、AIと自動運転の先端技術の見学だった。
まず、「H3Cテクノロジーズ」を訪問した。同社はネットワーク機器からクラウド、AI、セキュリティー、5Gまで幅広く展開している。クラウドとAIを融合した「デジタルブレイン構想」が印象的で、企業や政府のデジタル変革を支援している。最先端の技術とインフラを視察し、デジタル時代のイノベーションの重要性を再認識。
H3Cは自社の統合AIプラットフォームの中核に、DeepSeekモデル(R1など)を搭載して提供。このプラットフォームを用いて、医療AI(病理診断など)、行政支援、ビジネス分析などに応用。実際の事例として、深圳の医療AI企業と協力し、DeepSeekを使った病理画像診断AIを展開し、診断スピードを向上させた実績がある。
続いて、北京市の高級別自動運転示範区(BJHAI)を訪問した。
昨年も同じところを訪問したが、その段階では実際の運転はしないが安全確保のための運転手が同乗していた。今回は完全無人運転車に進化しており、運転席自体がない車両も見学。技術進歩の速度に圧倒された。
3日目、ハルビンで七三一部隊跡へ

1936年に建設され45年8月、日本降伏前夜に爆破されたボイラーハウス跡に残された煙突3本の前で団員(原竹団長は公務で帰国)
飛行機で23日昼、ハルビン市に到着、七三一部隊罪証陳列館(資料館)を訪問した。
かつてこの地で行われた非人道的行為の痕跡を目の当たりにした。罪証陳列館の展示は、想像を絶する人体実験や細菌兵器の研究が行われた史実を克明に伝えており、閲覧者に強い衝撃を与える。日本人として、その事実を直視せずに済ますことは許されないと痛感した。
部隊跡の面積は約24万8000平方メートル、おおよそ東京ドームの6個分近く。敷地内に鉄道の引き込み線はもちろんのこと、飛行機の滑走路まである。作った細菌爆弾をそのまま爆撃機に搭載して中国全土に爆撃するそんな基地だったわけだ。わが国の中国侵略計画の恐るべき全体像が読み取れる。
資料館の最後のブースに、ある日本人の証言が残されていた。その証言の中にこういう言葉があった。
「私は自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております。そうして終始懺悔をし、後悔をしております。私は将来生まれ変わって、もし余生がありましたらば、自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております」
この言葉が、私の胸に深く残っている。
加害の歴史を直視することは、時にとても苦しく、逃げたくなる。でも、だからこそ向き合わなければならない。
過ちを繰り返さないために、歴史から学び、語り継ぎ、平和のために自分にできる行動を重ねていく責任があると強く感じた。
見学の最中、資料館の敷地内にある椅子で休んでいた際、中国人の若い男性から声をかけられた。「日本人ですか?」「何のためにここに来たのですか?」と問われ、私は「政治家として視察に来たが、歴史を反省し、二度と同じ過ちを犯さないために友好関係を築きたい」という正直な思いを伝えた。彼は静かにうなずき、言葉を残さずに立ち去っていった。が、その無言の姿は、歴史の重みを改めて突きつけられるようであった。
この重さに私は戸惑った。この続きは冒頭の牧瀬さんとの対話に。
満州国警察署跡へ
翌日午前、ハルビン市の旧満州国警察庁蹟にある『東北烈士紀念館』を見学した。
そこに私と同い年である当時の革命家・趙一曼さんのエピソードが紹介されていた。同行していた議員は私と重ね合わせて涙を流し、私自身も胸が熱くなった。満州事変(1931年)の後、日本による「満州国」建国を受けて、彼女は東北抗日聯軍に参加。この軍は、中国共産党が主導した日本軍へのゲリラ抵抗組織であった。
彼女は女性ながらも、政治指導員・宣伝幹部として前線に立ち、また実際に武装戦闘にも参加。その中で捕まり36年8月2日殺された。
「母はあなたに会えなくなるけれど、あなたは立派な人になってください。母のように祖国を愛し、祖国のために戦える人になってください」と子どもに宛てた遺書で語っている。
館外では、赤いネッカチーフをした子どもたちが次々と集合し参観に向かっていた。
その後、ハルビン市を後に、瀋陽市へ向かった。瀋陽では、九・一八歴史博物館、撫順炭鉱博物館(撫順市)などを見学した。
とくに撫順炭鉱ではこれまた考えさせられた。
露天掘りで有名で、今は一部石油をとるような石炭を掘ってもいるというが、長さ5キロメートル幅2~3キロの巨大な穴になっている。その巨大な穴を埋め立てて緑地化しようと巨大な工事が進んでいたのも印象的で、中国政府の戦略的仕事に驚く。
だが、それではなくかつての日本の「戦略性」である。日本軍は早くも日露戦争後の1905年ここを軍事占領、中国政府に追い出された44年までの間に2億2300万トンの石炭を手に入れたという。その石炭で、31年の9・18事変(柳条湖事件、満州事変。鉄道爆破の現場にも行きました)から32年の満州国でっち上げ…大陸全面侵略に進む。七三一でもそうだったが、かつての日本のアジア侵略がいかに国策として「計画的」に進められたか、またも目の当たりにさせられた。しかし、すぐに破綻するのだが。
また、長崎市民が平和のシンボルとして瀋陽市に贈った「長崎の鐘」(瀋陽市の公園にある)を見学した。公園の中心部で大事にされていた。贈られたのは1995年、30年前のことだ。平和のためにはしっかりとした長期にわたる努力が不可欠だと考えさせられた。
アジア全体の平和と繁栄に向けて
今回の訪中において感じ取ったのは、歴史的な痛みを抱えつつも、今後の平和と発展を願う多くの中国の人々の声である。その声に応えるためには、日本側も過去の過ちに正面から向き合い、再び同じ過ちを繰り返さないという決意を行動で示すことが欠かせない。
そして、日中間の協力を広げることは、米中間の対立緩和にも寄与する可能性を持っている。今、アジア地域で必要なのは、単なる軍事的均衡ではなく、経済・安全保障・人材育成など、多角的な面での協調と信頼醸成である。
ハルビンで出会った青年たちの「歴史をしっかり学んでください。そして、二度と戦争をしないよう、私たちの世代で友好を築きましょう」というメッセージは、私たちに与えられた責務を明確に指し示している。政治家として、そして同じ時代を生きる人間として、このメッセージを重く受け止め、日中双方が共に平和を追求し、さらに繁栄を共有していくための一歩を踏み出したい。
本報告が、日中両国のみならずアジア全体における新たな協力と平和への道筋を探る一助となることを切に期待する。