笹の墓標強制労働博物館を創る
NPO法人東アジア市民ネットワーク代表理事 殿平 善彦
2024年9月28日、北海道幌加内町朱鞠内に「笹の墓標強制労働博物館」がオープンした。オープニングセレモニーには日本各地、韓国、ドイツ、オーストラリア、フランスから180人が参集した。
新ひだか町静内からアイヌの葛野次雄さん親子が来て、カムイノミ・イチャルパを行い、強制労働犠牲者の遺骨も安置される博物館が完成したことをアイヌの神々に奉告した。
朝鮮民族楽器奏者の河栄守さんたちの鎮魂の演奏と舞、仏教僧侶の読経の後、朱鞠内に残されてきた犠牲者の遺骨が高校生、大学生たちに奉持されて博物館に収められた。朱鞠内に強制労働博物館が誕生するまでを報告する。
戦時下の強制労働
戦時下の日本に動員された朝鮮人労働者は少なくとも70万人と言われているが、北海道は九州とともに最も多くの強制動員が行われた地であり、その数は14万5千人に上る。多くの犠牲者があったが、その数は判明していない。犠牲になった労働者の少なくない遺骨が遺族に届けられることなく各地の寺院や墓地の片隅に埋葬されたまま放置されてきた。幌加内町朱鞠内もそんな場所のひとつである。
アジア・太平洋戦争下の1935年~43年まで、朱鞠内は雨竜ダム工事、名雨線(後の深名線)鉄道工事が行われ、朝鮮人強制労働、タコ部屋労働の現場だった。工事を行った企業は王子製紙と飛島組(現在の飛島建設)である。数千人の労働者が使役された。主な労働形態はタコ部屋であり労働者は拘禁されて重労働を課せられた。40年ごろからは出征した日本人に代わって朝鮮人の強制労働が中心になった。8年間の工事期間中に約250人の犠牲者が出た。
発掘された遺骨
雨竜ダムの近くの光顕寺は1934年に創建された寺で、大正期に開拓入植で朱鞠内に来た人たちがよりどころとした寺だ。
創建された翌年に鉄道工事が始まり、4年後の38年にはダム工事が始まった。小さな開墾の村だった朱鞠内は一気に数千人が入り込み、巨大な土木工事の続く場所になった。過酷な強制労働で逃亡するとリンチが待っていた。毎日のように出る死者はダム工事現場の近くにできた光顕寺に運び込まれた。形ばかりの位牌が作られ、墓地に運ばれた。
光顕寺に位牌を残した犠牲者たちは朱鞠内墓地の奥に埋葬されたまま戦後を迎えた。埋葬地は私有地になり、死者たちは忘れ去られ、戦後の長い時間が過ぎた。
民衆史掘り起こし運動
1970年代、北海道で起きた民衆史掘り起こし運動は日本の高度経済成長のゆがみが顕著になる中で、明治以来の近代史を民衆の側から見直す運動として始まった。それまでの「開拓史観」ではなく、先住民族アイヌ、タコ部屋労働、中国人、朝鮮人強制労働に焦点を当て、重労働、拘禁労働で犠牲になった人々の遺骨発掘に取り組んだ。
深川市を中心につくられた民衆史掘り起こし集団「空知民衆史講座」は幌加内町朱鞠内で光顕寺を訪問して本堂に残された位牌を発見する。80余りの位牌には日本人タコ部屋労働者と共に朝鮮人強制動員犠牲者の名前が書かれていた。犠牲者の多くが共同墓地の裏側の笹藪の下に埋められていることを知った。80年から4年間にわたって、地元住民と協力して朱鞠内共同墓地裏の笹藪の下から犠牲者の遺骨を発掘する取り組みが行われ、16体の遺骨が地上に導き出された。
遺骨は荼毘に付され、ダムの近くの仏教寺院光顕寺に安置され、遺族を探して、遺骨返還が取り組まれた。しかし、発見されて遺族に届いた遺骨は数体にとどまり、多くの遺骨は光顕寺に残された。笹藪の下に遺骨はまだ残っていると思われたが、83年の発掘を最後に遺骨発掘は終了した。
東アジアの若者たち
日本と韓国・朝鮮との間には植民地支配の歴史がある。日本の敗戦で植民地は解放されたが、戦後も長く植民地支配への清算ができず、日本と韓国が国交を樹立するのに20年かかり、朝鮮民主主義人民共和国とは今も国交交渉すら行われずにいる。日本国内でも在日コリアンに対して差別と抑圧があり、日常の交流は乏しいままだ。日本の先住民族であるアイヌと和人の間にもアイヌの存在を認めない社会の中で差別や断絶が続いてきた。
1997年8月、30人の韓国の学生、研究者、大阪などから在日コリアンの若者たち、日本の学生、アイヌの青年など100人が朱鞠内で9日間の合宿を行い、笹藪の下に眠る強制労働犠牲者の遺骨発掘に取り組んだ。「強制労働犠牲者遺骨発掘日韓共同ワークショップで」ある。
期間中に4体の遺骨を発掘した若者たちは対話と葛藤の中から離れ難い友情を育んだ。2001年からは朝鮮籍の若者たちが参加して「東アジア共同ワークショップ」と改称して、夏と冬にワークショップを続けた。
共同ワークショップは半年ごとに朱鞠内や韓国、沖縄や台湾でも開催され、今日まで継続されている。
笹の墓標展示館
強制労働犠牲者の位牌が残されてきた朱鞠内の光顕寺は過疎化のなかで檀家が減少したため空知民衆史講座が建物を引き受け、1995年に歴史資料館として開館した。
「笹の墓標展示館」と名付けられた館内には犠牲者の遺骨発掘で出土したご遺骨が安置され、出土した副葬品や位牌、発掘の写真などが展示された。
97年からは共同ワークショップに参加した日本、韓国、在日、アイヌの若者たちが交流して宿泊する合宿場にもなった。
朱鞠内は日本最寒の地であり、多雪地帯だ。2019年冬、笹の墓標展示館は屋根雪の重みで傾き、翌年冬に倒壊した。
私たちは再建を志し、募金を訴えた。日本をはじめ韓国、ドイツなど世界から6000万円を超える募金で新しい施設が誕生した。名称を「笹の墓標強制労働博物館」とした。
近年、日本政府は戦時下に動員された朝鮮人の労働に強制性はなかったと主張し、強制連行や強制労働という表現を忌避した。安倍政権からは小泉政権下で使用した「旧民間徴用者」という表現もやめて「旧朝鮮半島出身労働者」と言うようになった。
戦時下に渡日した朝鮮人労働者はさまざまな渡航形態があり、すべてが畑から引き抜かれたような連行とは言えない。しかし、強制連行と呼ばれる形態があったことは確かであり、自主渡航であっても、労働現場はおしなべて強制労働であった。
新しい展示館を「強制労働博物館」と名乗ったのは、歴史的事実としての強制労働を伝えたかったからである。朱鞠内で行われた強制労働で多くの死者があったことを私たちは忘れてはならないと思う。遺骨発掘に参加した若者たちが集う朱鞠内は東アジアに和解と平和を求める場になった。
開館から4カ月になるが冬の雪の中でも参観者が絶えない。まもなく日本、在日コリアンが共同で冬のワークショップを取り組む。
東アジアなかんずく韓国・朝鮮と日本との歴史和解は未完の課題だ。政府はそれを実現する責任がある。さらに市民同士の交流が和解への道を開いていくだろう。越境する市民の出会いを「笹の墓標強制労働博物館」で実現していきたい。
あなたもぜひ朱鞠内に来てください。