争うよりも愛したい。 髙良 鉄美

辺野古埋立て設計変更不承認に関する
最高裁判決と沖縄 ―法の支配の視点から―

参議院議員・琉球大学名誉教授 髙良 鉄美

辺野古訴訟の経緯

 米軍普天間基地の移設先になっている名護市辺野古の埋立て工事は、沖縄県民の反対にもかかわらず、強行されてきた。これまでいくつもの裁判が県と国との間で行われてきているが、ここでは2023年9月4日の最高裁判決について取り扱う。埋立て工事は辺野古側と大浦湾側(と言っても対岸ではなく、埋立て区域を便宜上分けただけである)で行われるが、辺野古側は浅瀬で比較的工事がしやすく、現在この部分は一応の埋立ては完了している。大浦湾側については軟弱地盤等の存在もあり、沖縄防衛局は沖縄県知事に埋立て工事の設計変更を申請した。知事が同申請を不承認としたため、沖縄防衛局はこれを不服として、国交大臣に県知事の不承認の取り消しを求めて審査請求を行った。国交大臣は不承認の取消裁決を行い、さらに承認するよう知事に「是正の指示」を行った。この是正の指示が地方自治に対する「違法な関与」にあたるとして県が国を被告として裁判所に判断を求めたものだが、最高裁判所は「国の指示は適法」として上告を棄却した。

最高裁の判断

 2000年の地方分権一括法で国と地方は対等関係であるとされた。これは、地方分権一括法によって対等になったというより、地方自治の意義を確認したという方が正しい。それまでの地方が国との上下関係でとらえられていたこと自体が、明治憲法下の色眼鏡で見た景色でしかなかった。ようやく日本国憲法の眼から見るようになったといえる。ところが、今回の最高裁判決は、まだ憲法9条や憲法第8章「地方自治」のなかった明治憲法の色眼鏡で判断をしたのではないかとさえ感ずる。明治憲法下では裁判所は民事と刑事の事件のみを扱い、行政事件は行政機関である「行政裁判所」(全国1カ所、1審終結)の管轄であったからである。加えて、軍事基地問題等は天皇大権(軍事大権)であり、裁判所どころか、帝国議会でさえも言及できないものであった。そこでは、地方と国が対等関係にあることなどは前提となるはずもなく、国の行政機関の判断が優先すると考えるのは明白であった。
 さて、明治憲法の色眼鏡を取り去り、国と地方を対等関係に置く日本国憲法の眼には、国の行政機関Aが申請した許可等について、地方行政の将来計画や環境保護、実情等を法的側面も加味して行った知事の判断について、Aが同じく国の行政機関Bに不服を申し立て、Bが知事の判断を取り消し、私の判断通りにしなさいと指示をしたという構図はどのように映るであろう。Bは明治憲法下の「行政裁判所」そのものではないのか。仮に裁判所ではなく、行政機関だから仕方がないということが通るとしても、日本国憲法の「すべて司法権は…裁判所に属する」司法制度において、裁判所は、国の行政機関の裁決が、対等であるはずの県知事の法的、多角的、かつ慎重に行った判断に当然に勝り、県は国の裁決に従わなければならないといえるのだろうか? 「地方自治」という法原理の中にあっても、知事の判断は違法な裁量権の濫用だとする裁決および「是正の指示」を適法と断ずるのは問題ではないか? 「法の支配」とは「法律の支配」ではなく、憲法や法原理の支配である。その内容は①憲法の最高法規性、②人権の保障、③適正手続きの徹底、④恣意的な権力行使を抑える司法権の優位が挙げられる。司法権の優位は恣意的な国家権力の行使を抑制するからこそである。「憲法の番人」「人権保障の砦」と言われる最高裁が、このような「法の支配」の視点から今回の判決に至っているのか、甚だ疑問である。県は「是正の指示」が地方自治の原理に反した、恣意的な国家権力の行使だと主張しているのであり、最高裁判決はそれに答えず、また権力行使の内容を審査せず「適法」だと判断した。この「適法」の「法」を法律という捉え方であったとすれば、「法の支配」から外れていると言わざるを得ない。

判決後、知事が承認に至らなかった判断は違法か?

 まず、玉城デニー沖縄県知事が、最高裁判決を尊重せずに従わなかった、とする見方は、間違っている。9月4日の判決後、20日に届いた県への通知文書で、国交大臣は27日を期限として承認するよう勧告した。国連演説等海外出張もあった知事は、この期限では承認する判断に至らなかったと会見した。知事は最高裁判決に従わなかったのではなく、尊重したからこそ、承認の可否について各方面から意見を聞き、苦慮しながら、判断に至らなかったのである。尊重せずに判決にも従わないなら、すぐにでも判断できたはずである。これを受けて10月4日までに承認するよう国交大臣が指示をした。それでも知事は事実上承認しない結果となったが、知事の判断は違法といえるだろうか?
 否、むしろ国と地方の対等関係という地方自治の原理はもちろん、法律の趣旨にも適合しているといえる。地方自治法には、所管大臣が知事に対し、勧告、指示をしても従わない場合、大臣はすぐに代わりに執行することはできず、知事に執行を命ずる裁判を高裁に起こすことができるとする。しかも、裁判所は大臣の請求に理由があると認めるときに、知事に対して期限を定めて執行を命ずる判決を出すことになる。この時点でもなお代執行ができるわけではなく、さらに知事が従わなかった場合に、はじめて大臣が代執行できることになる。この地方自治法の代執行の手続き規定は、地方のことは自らを熟知している地方自身が決定するという自治権、自己決定権を尊重する法原理に基づいており、「法の支配」の要素である、恣意的な国家権力の行使を抑制する司法権の役割を組み込んだものといえる。

地方自治における民意の重さと代執行訴訟批判

 憲法92条の「地方自治の本旨」は団体自治と住民自治とされる。団体自治は、地方行政が国とは別の機関である地方公共団体によって自治的に行われることを指し、地方分権を意味している。住民自治は、住民の住民による住民のための自治を謳い、民主主義を意味している。いずれにせよ自治は民意に基づくべし、という重みこそ、「地方自治の本旨」なのである。
 辺野古新基地建設をめぐる沖縄県民の民意は明確である。1996年の日本初の県民投票は辺野古新基地建設反対を念頭に入れた「基地の整理縮小」に賛成が89%を占めた。97年の名護市民投票においても辺野古の海上基地建設反対が過半数を超えた。さらに、2013年以降、全県選挙区である知事選挙、参院選挙、いずれにおいても、辺野古新基地建設反対の候補が当選した。19年には辺野古の新基地建設の是非をピンポイントで問う沖縄県民投票があり、反対が72%を占めた。
 14年の名護市長選で辺野古新基地建設反対を掲げる候補が当選した際に、当時の木原防衛政務官(現防衛大臣)が「永田町の民意もある」旨を発言したとの記事があった。後で国会の民意と訂正をしたそうだが、「民意」を全く理解しておらず、国(政権)の意思と捉えている。国による辺野古の新基地建設強行や代執行手続きの圧力は、地方自治における民意の重さを蔑ろにするもので、「法の支配」に逆行するといえる。国と地方が対等であるとした地方自治法の下で初めて行われる代執行訴訟において、裁判所には、「法の支配」、特に「恣意的な権力行使を抑制する司法権の優位」、を担う機関しての存在意義さえ、問われている。