争うよりも愛したい。下地 あかね

家の近所から始まった小さな声に翼が与えられ

宮古島市議会議員 下地 あかね

 9月24日、「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」設立キックオフ集会が、沖縄市民会館大ホールで行われました。宮古島からはオンライン会場をつないでの参加となりましたが、この集会にこぎつけるまで、10回を超える会合にオンラインで参加しています。侃々諤々の議論を経てのキックオフ集会開催に、大変感慨深い思いになりました。


 集会では基調講演として、NGOで活躍されてきた谷山博史さんの、紛争・戦争に向かっていく社会の構造や、その流れにあらがい、対話の仕組みを構築していくことの重要性についてお話がありました。戦争に向かうとき、私たちの社会は分断に始まり、対話を失っていく。しかし沖縄の辺野古新基地建設に対する粘り強い闘いは、世界でも類を見ないものである――。一貫した反戦・非戦への願いは、沖縄の歴史そのものを背負っており、先人から私たちへ受け継がれてきた魂の声でもある。分断を乗り越えること。反戦と平和、そのための対話にこだわること。
 私たちの向かうべき先を改めて確認し、共有する素晴らしい基調講演でした。

思いを広げていく運動の前進

 キックオフ集会までに重ねた議論も振り返って思い出されます。紛争前夜を経験されたという方の、「戦争はあれよあれよと始まる」との話と、その切迫感は、今でも印象に強く残っています。私自身、目の前で運び込まれるミサイル弾薬を、ただ見送るしかなかった思いは今も消えません。配備の前線に立てば、言葉はどうしても強くなります。けれども立場の違うおのおのが手を取り合える言葉を探らなければ、運動のすそ野は広がっていかないのでしょう。
 老いも若きも、保守も革新も、沖縄の人も大和の人も、多くの人が共感を抱き、言葉をひとつにしてまとまれるとしたら、この運動は必ず実を結ぶでしょう。そのために私たちに、どんな知識が必要だろうか。どんな言葉が、どんな経験の共有が必要だろうか。模索を続けていかなければならないのだろうと思います。

分断はつくられる

 8月4日、宮古島にある保良訓練場を出発地に、公道を歩く行軍訓練が行われました。
 早朝に保良訓練場ゲート前に着くと、メディアと、抗議に駆けつけた人たちのほかに、応援の横幕を持った数人が並んでいました。初めて訓練に参加する隊員がいるので、家族や隊友会を招待したのだと駐屯地の方の説明でした。ゲート前は隊員らを励ます声と、抗議の声が入り混じりました。行軍する隊員たちが訓練場に消えていくと、間もなく「地本」と書かれた車が訓練場から出てきて、彼らを乗せて帰っていくのでした。
 強風の中、強い雨が叩きつけていましたが、すぐにその場を立ち去ることができませんでした。雨の向こうに訓練場が霞んで見えました。応援の横幕をしまい込んで訓練場内に消えていった車を見送りながら、目の前に横たわる分断への絶望感や、状況に対する怒りで、降りしきる雨の冷たささえ感じられないほどでした。
 分断はつくられる。その通りかもしれません。
 私が宮古島に帰郷したばかりの頃、宮古島市民に対して行われた沖縄防衛局の説明会では、自衛隊配備に反対する人と、賛成する人の怒号が飛び交う場となりました。防衛省への批判的な意見や質問に対し、野次が飛び、嘲笑が起きました。自ら進んで分断に加担していく島の人たちの姿がそこにありました。
 街頭でマイクを持つとき、議場で言葉を発するとき、自分の向かう怒りの先には国や防衛省がいるのだと思ってきました。けれども実際には、私が向き合うのは国や防衛省ではなく、島の人たちかもしれないという思いになることがあります。率先して誘致をしてきた人たちに対して、複雑な思いを抱え、それでも対話の言葉を探していく。お互いに共感できる言葉を見つけていく。罵り合う言葉ではなく、ともに一つの島に住む私たちが、信頼し、一致していける未来を描いていくために必要な言葉を。

島を出ていく一択の
選択肢か

 宮古島市議会でも以前に比べ、有事の際の国民保護についての議論が発言されるようになってきました。「配備反対派が『戦争になる』と言うと笑っていた人たちが、今は有事を想定して質問をしている」と驚く声が聞こえるほどです。軍備が進むにつれ、国のほうからシェルターや、島外避難の必要性を強調するようになり、状況も変わってきました。
 石垣市では新聞社の主催で住民避難についてのシンポジウムが行われ、元陸上幕僚長が講演に立ち、ジュネーブ条約を引き合いに「⾃衛隊のそばに⺠間⼈がいれば、攻撃に巻き込まれても⽂句は⾔えない」と島外避難の必要性を訴えました。
 与那国島では町長自ら、島内での軍民混在は避けるべきとして「⼀夜にして町⺠と実⼒部隊が⼊れ替わるような体制が必要」と答えています。そんな中、9月から10月にかけて、与那国町主催での住民避難の説明会が行われました。報道によれば説明会では、「避難は強制なのか」と避難しない選択を問う声も多く上がったようです。与那国町は「強制ではないが、理解を得られるように努力する」と回答し、島内に住民が残る選択肢には触れませんでした。
 これまでの私たちの抵抗は、島に軍事配備をさせないためのものでした。しかし今や、全く別の段階に入っています。有事となれば私たちは、島を出ていくこと一択しか選択肢がないかもしれません。
 ジュネーブ条約第一追加議定書は、「軍民分離」を原則としています。軍用物は攻撃の対象とされるため、軍事と民間は明確に区分けされなければなりません。しかし有事になれば、小さな島において「軍民分離の原則」を遵守することは、ほぼ不可能です。ですが、仮にすべての島民が島外避難をすれば、この懸念は解消されることになるのです。
 しかし、そもそも全住民が島外避難をしなければ「軍民分離」が成り立たない配備は、初めから国際人道法の理念を逸脱してはいないでしょうか。

島に住み続けることが
私たちの反戦

 いま私たちが奪われかねないのは、この島にある生活です。同時に、この島に住み続けることが、島に住む私たちの反戦の手段かもしれないと思っています。10年後も、20年後も、その先も、歴史を引き継ぎ、次の世代に受け渡せる島の暮らしを続けていく。そのことにこだわり、求め続けていく。その願いは、島の人たちが互いの言葉に耳を傾け、対話から逃げずに向かい合い、思いを一つにしていくことでしか成せないものです。
 国が矢継ぎ早に打ち出す軍事強化に、沖縄県内での集会・デモが、毎週のように行われています。開催側の大変な苦労が偲ばれますが、機運の盛り上がりも感じています。
 初めは家の近所から始まった配備に反対する私たちの活動でしたが、各地の活動とつながっていくことで、小さな声に翼が与えられるようです。11月23日には県民集会が行われます。宮古島からも、これまでより多くの集会への参加を希望する声が届いています。声をつなげて、平和を希求する思いがもっと広がるように願っています。