日中平和友好条約45周年 丸川 知雄

処理水(核汚水)騒動のなかで迎えた45周年

東京大学社会科学研究所教授 丸川 知雄

 日中の平和と友好が大事と考える人々にとって今年(2023年)の夏はなかなかつらかったと思う。いうまでもなく、福島第一原発の敷地内に溜まった核汚染水を処理した水を海洋に放出する作業が始まったからである。日本政府と東京電力は、汚染水に含まれる放射性物質を極力取り除くものの、トリチウムは濾過しても取り除けないので海水で希釈したうえで放出するのだと説明している。


 その動きに対して中国政府が強く反発した。私は8月に中国からの学生訪日団数組に対して日中関係に関して講義を行い、8月下旬には深圳と広州とを訪問したが、会う人ごとに処理水放出問題が話題になった。中国のテレビのニュースではかなりの時間を割いて日本の「核汚水」放出がいかに不当であるかを解説していた。
 中国からの学生訪日団から最初にこの問題に関して意見を求められた時、私の答えはかなりしどろもどろなものだった。日本のニュースで、汚染水のタンクが福島第一原発の敷地のほとんどを占拠している映像をたびたび見せられているので、これを何とかしないと廃炉作業が進まないということは理解している。他方で、東京電力や経済産業省が原子力安全神話を振りまいたあげくに取り返しのつかない大事故を起こした経緯を思い起こすと、彼らがいくら自分たちの処理方式は「科学的」で「安全」であり、「国際原子力機関(IAEA)のお墨付きを受けている」と主張しても信用できないと思ってしまう。最初に質問された時には、そんな感じで、相矛盾した気持ちを答えるしかなかった。
 だが、その後同じ問題を中国の新旧の友人たちと繰り返し議論するなかで、私は次のように説明するようになった。すなわち、処理水に含まれるトリチウムについてはもともと生物のなかに蓄積されないものと言われており、放出しても問題ないと思う。問題はそれ以外の放射性物質を完全には取り除けないのではないかという点である。日本のマスコミは、中国の原発からより高濃度のトリチウムが排出されているのだから中国には福島の処理水放出を非難する資格がないと主張するが、それは問題のすり替えである。問題はむしろトリチウム以外の放射性物質が濾過を経てもなお漏れ出る可能性があることであり、経済産業省の説明でもその可能性がゼロではないことを認めている。ただ、仮に漏れ出てもそれは太平洋のなかで希釈されるので実際には害をもたらさないだろうと思う。私自身も福島沖などで獲れる海産物が危ないとは思っていないし、今後も避けるつもりはない。
 私の最初の答えは一般の日本国民としての感想であるのに対して、後からの説明は、この問題が日中間の外交問題になっていることを意識してのものである。中国政府は明らかにこの問題を日本に対して外交的圧力をかける手段として利用している。そのため、中国の人々に対してこの問題を語る時には、中国政府のお先棒を担ぐような真似はできないと思っている。
 日本のテレビではまるで政府広報のように政府・東京電力の言い分ばかりを伝え、批判的な声といえば福島県の漁業者の懸念が伝えられる程度である。中国のニュースでは逆に日本政府がどのように説明しているかには触れず、日本や他国での批判的な声ばかりを報じている。ただ、報道のなかで、福島から放出された汚染物質が太平洋でどのように広まっていくかに関するシミュレーション結果が示されたのには注目した。それを見ると、汚染物質はアリューシャン列島やハワイ、南太平洋に到達するが、日本海や東シナ海を経て中国沿岸に到達するのはかなり先のことであり、その時にはだいぶ薄まっている。それを見た中国のテレビ視聴者のなかは、ほら中国にも影響するじゃないか、日本はひどい、と怒った人もいただろうが、冷静な目で見れば、汚染物質の影響を受けるのはまず日本自身、および太平洋の国々であることに気づき、「なぜ中国ばかりが怒り狂っているのだろう?」と疑問に思う人もいただろう。
不合理な水産物輸入の
全面的一時停止
 今回会った中国の新旧の友人たちが日本産の海産物が危険だとか、日本に行ったら海産物は避けようと思っている節はなかった。中国政府は日本からの水産物の輸入を乾物などの加工品まで含めて全面的に一時停止したが、そうした対応は行きすぎだと思った中国人は少なくないのではないだろうか。
 中国政府が日本とは異なる安全基準をもとに日本産水産物の輸入を規制するのは主権の範囲に属することかもしれない。ただ、放出が始まる以前に水揚げされて加工されたことが明らかな冷凍品や乾物などの輸入まで停止するのは果たして合理的だといえるだろうか。また、日本海や東シナ海で漁獲された海産物や淡水面の魚まで規制するのは合理的なのか。中国の漁船が北太平洋の公海でサンマ漁を行っているが、放出が危ないというのであればそれらも規制すべきではないだろうか。
 日本から中国への水産物輸出は22年に871億円であり、そのうち467億円はホタテ貝だった。乾燥させたホタテ貝は中国の料理でもよく使われる食材だが、生鮮のホタテ貝は殻付きのまま中国へ輸出されて、中国の工場での加工を経て大半が欧米に再輸出されるのだという。もし「汚染」された水産物を食べることによる自国民の健康に対する悪影響を懸念して輸入を停止したというのであれば、自国民が食べないような加工・再輸出のための水産物の輸入まで停止するのは道理に合わない。いま日本の国会でも議論されているように、日本のホタテ養殖業者は日本国内での加工に切り替えるか、あるいは第三国での加工に切り替えるかするであろう。そして中国で加工することのリスクが顕在化してしまった以上、ほとぼりが冷めたら中国での加工を再開するというわけにもいかないだろう。そうすると、この騒動によって最大の損害を被るのは日本のホタテ養殖業者ではなく、仕事を失う中国のホタテ加工業者ということになる。
 中国のマスコミでは、アメリカが半導体などの対中輸出を規制した時に、その規制がアメリカ企業に損害を与えるため、「自分で自分の足に石を落とす行為」と揶揄するが、今回の中国政府の措置もそうした側面をもっている。
 以上のように、中国政府による水産物輸入全面停止は、日本からの水産物輸入の実態をふまえておらず、ただ日本に圧力をかけるためにやみくもに打ち出された措置だと思えてならない。中国政府が「輸入の暫時停止」と言っているように、これは一時的手段であり、日本政府から何らかの譲歩を引き出せれば打ち止めにするつもりなのかもしれない。
日中関係のさらなる悪化への懸念
 ただ、実際にこの問題で中国側が手じまいすることを可能とするような譲歩が日本側からなされる可能性は低い。中国が猛反発したことによって、日本では処理水放出に対する国民の支持がかえって高まったように思われる。9月11日に発表されたNHKの世論調査によれば回答者の66%が処理水放出は妥当だと答え、妥当ではないと答えた者は17%にとどまった。もし中国がこれほど反発していなかったとしたら、もっと意見が割れたのではないだろうか。
 マスコミでは、福島県のラーメン屋に中国からの迷惑電話が殺到しているといったように、理不尽な嫌がらせのことばかりが取り上げられ、日本の科学者たちの間にも放出に批判的な意見があることはほとんど報じられていない。その結果、放出反対に対する反感ばかりが煽られ、「日本産水産物を食べて中国に勝つんだ」といった訳のわからない声が上がったり、さらには「汚染水」という言葉を使うことや放出を批判することが敵を利する行為だといわんばかりの議論さえ出ている。こうしたなかでは、日本政府にとって処理水放出を止めるという選択肢は今や消えたに等しい。
 中国政府はもしかしたら日本政府が7月に実施した半導体製造装置に対する輸出規制強化の緩和を期待しているのかもしれない。ただ、この規制に関して目に見える形で譲歩を示すことは困難であろう。なぜなら日本政府が行ったのはあくまで規制強化であって輸出禁止ではないので、どの程度の匙加減によって輸出を認めたり認めなかったりするかはケース・バイ・ケースとならざるを得ないからである。日本政府はこの規制は中国だけに対するものではなく、軍需品に関わる輸出を規制するワッセナー・アレンジメントに基づくものだと説明しており、その説明通りであるとすれば、民生用ICを作る目的であることを証明できれば製造装置の輸出は許可されるはずである。ただ、中国の外交当局が個別の許可をもって「譲歩」だと認めるであろうか。
 日本国内には中国の水産物輸入停止措置の撤廃を求めてWTOに提訴すべきだとの声がある。たしかに今回の輸入停止は、国民の健康に対するリスクを減らすための措置というにはあまりに不合理な点が多く、かつ中国と香港以外に輸入停止措置を採った国・地域がないことも考えると、WTOで日本の訴えが認められる可能性は高いように思える。WTO提訴は一方的な報復措置とは異なり、国際法に沿った対応であるし、今後も長期間にわたって続くであろう処理水の海洋放出に関して国際的な場で議論して問題点を洗い出していくことは無益ではない。
 ただ、提訴によって中国政府が引っ込みがつかなくなり、「一時停止」と言っていたものがかえって恒久化する恐れがある。1年ぐらいは様子を見て、それから提訴に踏み切るのが妥当だと思う。
日中の民間交流の拡大を
 処理水放出によって日中の外交関係は難しい局面に入ってしまった。9月にインドで開催されたG20サミットの場でも日本の岸田首相と中国の李強首相との会談は「立ち話」にとどまった。日本の首脳が23年に首相に就任した李強氏の人となりを理解することは重要だと思うが、岸田首相と李強首相との腰を据えての会談は実現していない。
 ただ、外交関係が動揺する中でも、日中の民間交流はコロナによる長い中断がようやく終わっていま回復基調にある。中国にある日本大使館が在留邦人に対して日本語を外で話すなと注意喚起したらしいが、正直なところ深圳や広州ではそんなピリピリした空気はみじんも感じなかった。
 中国から日本へ来る人の数も急増している。私自身の交流を振り返っても、3月から学者の来訪が始まり、8月には大学生たちの研修旅行が何組も来たし、9月には企業家たちの研修旅行が何グループも来る。私が8月に広州で訪ねた友人はこうした企業家の研修旅行を送り出すビジネスをしているのだが、彼の会社のホワイトボードに書かれた送り出し計画を見ると、イスラエルへの1団を除くとあとはすべて日本行きであった。彼の会社は別に日本専門というわけではなく、コロナ禍が始まる以前にはヨーロッパ、アメリカ、韓国などにも視察旅行を送り出していた。だが、今では中国人がヨーロッパに行こうとしてもビザの取得がなかなか困難だということで、日本は相対的に行きやすい国になっている。
 9月初旬に受け入れた企業経営者たちの訪日研修団のなかには、処理水騒動の影響で急遽訪日を取りやめた人もいたと聞いた。ただ、他の人たちは普通に日本旅行を楽しんで帰ったようである。
 一方、日本から中国への渡航はまだ厳しい状況が続いている。私は23年3月と8月に訪中したが、いずれも訪中の1カ月半ぐらい前にオンラインで長大なビザの申請書を書き、何週間も先のビザセンターの予約を取り、ビザセンターでも予約した時間から最終的に申請書を提出するまで半日かかった。毎回招聘書類の不備を指摘され、慌てて招聘元に連絡して代わりの招聘状をメールで送ってもらうなど冷や汗のかきどおしであった。3月の申請の際にはビザセンターでの発行手続きに2週間かかったのが8月には4日で済んだとか、オンラインの長大な書類も、一度書けばそれを記憶させておいて次も使えたりするなど、だんだんスピードアップしているとはいえ、コロナ前にはビザなしで渡航できたことを思うと、なんとも面倒ではある。かつて訪中の際にビザが必要だった時代でも、申請書には今ほど細かい内容を記載しなくてもよかったし、およそ1週間あれば申請から取得までが完了した。
 コロナ禍を経て民間交流に対する心理的な障害ができたことも否めない。中国で反スパイ法が改正されて犯罪行為の範囲が大きく広げられたことにより、一般の学術活動の範囲内の活動でもスパイの嫌疑をかけられてしまうのではないかという猜疑心が研究者の間で広まっている。研究者の調査に限らず、一般の海外旅行であっても、その目的は煎じ詰めれば行き先の「情報」を吸収してくることであろう。写真を撮るといった旅行者としてごく当たり前の行為でさえスパイ容疑をかける理由になりかねないと思われている。
 私は今年の2回の訪中で「無事」だったが、だからといって、もう訪中しても心配するには及ばない、コロナ前と一緒で、最低限の注意とマナーを守っていればいいのだ、などと断言することはできない。ただ、私のように、訪中の動機とチャンスがある日本人が訪中を繰り返すことによって、軟化してしまった日中の平和と友好の地盤を再び踏み固めていくしかないのではないかと今は考えている。