特集 沖縄「日本復帰」50年  松元 剛

「返るべき祖国だったのか」

琉球新報社取締役編集局長 松元 剛

 「沖縄がこれまで歩んできた歴史の一こま一こまをひもとき、終戦以来ひたすらに復帰を願い、必ず実現することを信じ、長く苦しく、そして厳しかったこれまでの日々を思い起こすとき、県民とともに言い知れない感激とひとしおの感慨を覚えるものであります。鉄石のような厚い壁を乗り越え、険しい山をよじ登り、イバラの障害を踏み分けてついに悲願を達成し、復帰にたどりついてここに至りました。

(…中略)
 沖縄がこれまでの歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除して、県民福祉の向上発展を至上の目的とし、平和でいまより豊かでより安定した希望のもてる新しい県づくりに全力を挙げなければならないと思います(…以下略)」
 沖縄の施政権が日本に返還された1972年5月15日、那覇市民会館で開かれた「新沖縄県発足式典」で、「祖国復帰運動」を引っ張り、琉球政府主席から初代県知事に就いた屋良朝苗さんが式辞に臨んだ。沖縄返還・日本復帰の悲願が成就した喜びは控えめに表現し、屋良さんは沖縄が本土防衛や経済繁栄の踏み石にされる構図を変える決意を自らに言い聞かせるように語った。
 屋良さんの「歴史上常に手段として利用されてきた」という言葉に、沖縄の近現代史を貫く陰影が刻まれていよう。
 1972年に27年間続いた米軍統治が終わりを告げ、県民は「基地のない平和で豊かな島」の実現を願ってきた。道路や港など、社会資本の整備は進み、暮らしの面では豊かさが増した面があるが、全国的にも低い県民所得、それに付随する子どもの貧困問題など、抱える課題は山積している。
 過重な米軍基地の負担は相変わらずのしかかっている。辺野古新基地建設、普天間飛行場へのオスプレイの配備に加え、ここ数年は有機フッ素化合物(PFAS、PFOS)の流出による環境汚染が顕在化している。ことし2月には、沖縄の玄関口の那覇空港に近い那覇軍港で、銃を携えたものものしい民間人避難訓練が強行されるなど、民意を軽んじた在沖米軍の軍事最優先の強硬姿勢が際立つ。沖縄の試練に終わりは見えない。

復帰当日の「沖縄の涙雨」

 ほぼ終日、大粒の雨が降っていた1972年の沖縄返還の日、私は那覇市中心部に近い小学校の1年生だった。朝の会で、担任の女性の先生が「きょうは沖縄にとって特別なお祝いの日です。沖縄はアメリカから日本に戻ることができました」と話し、「祖国復帰」という文字を黒板に大きく書いた。全県で、児童生徒にお祝いの紅白まんじゅうや文具セットが配られた。子ども心に「とても良い日なのだ」と思った。
 この日を機に、琉球政府職員から県職員に身分が変わった父は、那覇市民会館であった県発足式典の運営スタッフの業務に携わった後、隣にある与儀公園で催された基地付き返還への抗議集会に県職員労働組合員として参加した。母は連れて行くなと言ったらしいが、夕方前、歩いて10分ほどの家に戻ってきた父に連れ出され、私も抗議集会に連れて行かれた。会場の与儀公園に着くと、雨は土砂降りになっていた。
 父に肩車されて集会のもようを眺めた。何だか分からないが、大勢の大人がみな怒っていて、集会が終わると隊列を組んで歩いたという記憶がある。降り続けた大粒の雨に打たれ、私も全身、ずぶ濡れになった。体が冷え切ってしまい、家に帰った後、持病だった小児ぜんそくのひどい発作が起きた。日本に復帰した記念すべき日の夜はほとんど眠れず、起き出しては、窓の鉄枠をつかんでは何度も大きく息をついた。「特別なお祝いの日」の夜の思い出は、ひどい息苦しさと喘鳴に覆われている。
 「沖縄の施政権返還」「復帰」を迎えた県民それぞれが、当日の光景や、その日を境に変わったことを記憶にとどめているだろう。翌日の琉球新報には、復帰当日の大雨を「沖縄の涙雨」と表現する県民の声が載っている。

何故、「本土復帰」ではなく、「施政権返還」か

 昨年12月、共同通信で開かれた加盟社編集局長会議の休憩中、旧知の共同通信編集局の幹部が訪ねてきて、こう問うた。「琉球新報は、『本土復帰』ではなく、『日本復帰』と記事中で表記していますね。理由を教えてくれますか」
 コーヒーを飲みながら、近くにいた何社かの編集局長も興味深そうにこの問答に耳を傾けてくれた。大意、こう答えた。
 日本から里子のように27年間も米国統治に差し出された沖縄が日本に戻ったということが核心だと思う。本来なら、「沖縄の施政権返還50年」が最も適した表現だ。だが、祖国復帰運動が長く戦後史に刻まれ、沖縄でも「本土復帰」が一般的な表現になっていて、続いて「日本復帰」の表現もある。社外のメディアに書く際、私は「沖縄の施政権返還(日本復帰)50年」と表記している。
 沖縄の民意を受け止めず、日本の安全保障を担う負担を、ほぼ沖縄に押し付けている現状が改められないまま、50年が過ぎようとしている。日本と超大国・米国の狭間で沖縄は翻弄されてきた。基地負担をめぐる日米沖の三者のいびつな相関関係の下、「本土復帰」という表現は、沖縄が日本国内に帰属することを当然視するかのような印象がある。米軍基地の負担軽減を望む沖縄の民意が反映されず、沖縄から見ると、民主主義がほんとうに確立されているか疑念が湧く。歴史的にも、沖縄は日本領土の一部ではなく、琉球王国だった。「沖縄からは日本がよく見える」という表現があるが、沖縄の現状を放置しているに等しい日本政府との関係性を俯瞰的に見つめる上でも、「本土復帰」ではなく、「日本復帰」が適していると考える。カギ括弧の中で「本土復帰」と話す人がいる場合は言い換えないが、琉球新報は「日本復帰」を記事中で用いることにしている。
 こう説明した後、私は「ここは個人的な話で先ほどの話とは切り離してほしいが、私は、日本という国は『返るべき祖国だったのか』という疑念が払拭できずにいる。なかなか感覚的にすぱっと表現しづらいが、ご容赦願いたい」と話した。
 質問してくれた共同通信の編集局幹部は「なるほど、そうでしたか。琉球新報が『日本復帰』と記す理由がよく分かりました」と話していた。

「式典」は繰り返されるが

 2012年5月15日、普天間飛行場を抱える宜野湾市で、国、県共催の「沖縄本土復帰40周年記念式典」が催された。会場の沖縄コンベンションセンターは、1995年に起きた3米兵による少女乱暴事件の後、反基地のうねりが高まり、8万5千人が抗議の意思を示す県民大会があった海浜広場に隣接する。
 直前まで、退陣した後、初来県した鳩山由紀夫元首相に近くのホテルで単独インタビューをしていたため、開会時刻の午後4時ちょうどに会場外の報道機関の受け付けテントに着いて、手続きをしていた。不思議なことだが、スピーカーで屋外にも流されていた野田佳彦首相のあいさつが始まって2分後、厚い雲が覆っていた梅雨空に稲光が走り、数秒後、空を切り裂く大きな雷鳴が響いた。瞬く間に、NHKや民放の式典生中継が乱れるほどの大雨に変わった。
 ことしの5月15日にも、沖縄と東京で「復帰50年」の式典が開かれる。沖縄に横たわる課題は、基地問題以外にも山積している。沖縄返還・復帰50年の節目は確かに重要な節目だが、沖縄が「平和で豊かな島」にたどり着けないままであるならば、もちろん、それは通過点にすぎない。

自分事としてとらえる

 節目の年や日に合わせ、多くの記者を投入して集中的な報道を展開するものの、節目が終われば、蜘蛛の子を散らすように記者たちは去っていき、問題の本質は変わらないのに、検証が影を潜めてしまう。そのことを「カレンダージャーナリズム」と呼ぶことがある。
 西日本新聞で沖縄を深くウオッチしてきた永田健さん(特別論説委員)から新年明けに「日本復帰50年報道」を巡り、意見を聞かれた。永田さんは復帰50年の取材、紙面作りが「カレンダージャーナリズム」になってはいけないことを認識し取材しているが、どうしても後ろめたさが消えないと話していた。沖縄県民からかなり幅広く意見を聞き、西日本新聞の1月28日付のコラム「風向計」で、永田さんは「『節目』報じる気まずさ」のテーマで書いている。核心を突いた永田さんのコラムを引用したい。

 東京を拠点とする新聞やテレビ、そして福岡に本社を置く西日本新聞も年頭から「復帰50年」をテーマに、沖縄の戦中と戦後、そして現在をテーマに据えた報道を始めている。/ただ私は(自分も参加していながら)こうした「節目」報道に、ある種の気まずさというか、若干の後ろめたさのようなものを感じている。/(中略)そこで私は、復帰50年の取材をする際、相手に恐る恐る「こういった節目で取材されるのってどう思いますか?」と聞いている。/ある人はこう言った。「もう慣れました。だって沖縄は節目だらけですから。しかも節目が増え続けている。(中略)そしてその節目のたびに、「あれから何十年」たってもその根底にある状況は全く変わっていない、という現実が浮かび上がる。それはまさしく米軍基地の過度な集中と、基地集中が沖縄社会にもたらすひずみ、あつれきだ。/報道機関は「動き」を追う習性がある。事件が起きた、新たな政策が出た―それはそれで大事だが「動いていないことこそ大問題」という逆説に気付く必要がある。何が変わり、何が残されているか。それを確認するのが「節目報道」の意味ではないか―と、私は自分の中でとりあえずの折り合いを付けている。

 沖縄県紙である琉球新報が「カレンダージャーナリズム」に陥ることはない。沖縄に横たわる不条理が克服されるには、沖縄で起きていることに見て見ぬふりを決め込む大多数の沖縄以外の国民に意識を高めてもらうことが不可欠だ。在京大手メディア、ほかの都道府県のメディアが「復帰50年」の節目の後、「カレンダージャーナリズム」に陥ってしまわないためにも、沖縄に根差すわれわれは、趣向を凝らした沖縄からの発信を続けねばならない。

歴史に刻まれる紙面作りに取り組む

 10年前の「復帰記念式典」で異彩を放ったあいさつに立ったのは、1968年の国政参加選挙で初当選を果たした上原康助さんだった。上原さんは日本復帰について、「欺瞞に満ち、県民の熱い思いとは大きく懸け離れたものでしかありませんでした」と言い切り、県民と日米両政府の埋め難い溝を突き、ひときわ大きな拍手を浴びた。翌日、自宅に30本もの電話がかかり、「よく言ってくれた」という反響が寄せられたという。
 数日後、上原さんに会いに行った。「40年前の5月15日も大雨でしたが、今年の5・15も土砂降りでしたね」と水を向けると、上原さんは「今も変わらぬ沖縄の悔し涙だよ」と表現した。
 ことしの5月15日はどんな雲行きになるだろうか。最大限の力を結集して、歴史に刻まれる紙面作りに取り組みたい。

(見出しはすべて編集部)

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