79年目の熱く歴史的な被爆地ナガサキ 中村 住代

「原爆をつくる人」と「平和をつくる人」

広範な国民連合・長崎代表世話人 中村 住代

 被爆79年目のナガサキは、例年にも増して熱く歴史的にも記憶される節目の年となったと感じた。
 8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、鈴木史朗市長が読み上げた「平和宣言」(以下、宣言)に被爆詩人福田須磨子(以下、須磨子)の詩の一部が引用された。
 宣言の冒頭に、「原爆を作る人々よ! しばし手を休め 眼をとじ給え あなた方が作った 原爆で 幾万の尊い生命が奪われ 家 財産が一瞬にして無に帰し 平和な家庭が破壊しつくされたのだ」との、原爆を作り投下した米国への強い怒りが盛り込まれた。
 「宣言」の作成プロセスでは、長崎市は原案を作成しない。被爆者団体、核問題の専門家、平和活動実践者、青年等で構成される長崎市平和宣言文起草委員会(委員長は市長)によって作成される。委員が事前に「宣言」に盛り込みたい意見書を提出し、第1回目会合で各委員が意見の内容を説明。その意見の中に、須磨子の詩の引用を求める意見があった。第2回では、意見をもとに長崎市から素案が提示され、須磨子の詩は盛り込まれた。案文が練られ、第3回で修正案が提示、計3回の委員会を経て、長崎市が最終案を作成、委員会はすべて公開となっている。
 「宣言」は被爆者のみならず、長崎市民の総意であることを理解いただけるものと思う。委員の要求を受け入れ、「原爆を作る人々よ!」に対置して、「平和をつくる人々よ!」と世界にナガサキの声を発信し締めくくった長崎市の「宣言」文作成への真摯な態度に私は感銘を受けた。

被爆体験者は
被爆者じゃないのか?

 二つ目は、「宣言」にも盛り込まれた「被爆体験者」の救済問題。
 「被爆体験者」とは、爆心地から半径12キロ圏内で被爆しているにもかかわらず、国が定めた被爆地域から外れるために認められず、差別されてきた「被爆者」のことである。「被爆体験者」は、2007年から何度も集団訴訟を起こしてきたが19年までに敗訴が確定した後、一部原告が長崎地裁に再提訴。来月9月9日に判決が出る。
 今年も式典終了後の岸田総理との面会が開催された。今回は当事者の被爆体験者団体も被爆4団体などとともに面会に出席し要望書を提出することができるようになった。しかし、高齢化し後がない被爆体験者団体は具体的な解決策を痛切に求めて臨んだ。受け入れぬ岸田総理に対して、最後の場面で自らも被爆二世の平野伸人氏が立ち上がり、「被爆体験者は被爆者じゃないのですか?」と会場いっぱいに響き渡る怒号を発し直訴。長年「被爆体験者」の支援を継続し苦楽を共にしてきた平野伸人氏だからこその渾身の訴えに、ユーチューブで視聴していた私は、その迫力に圧倒された。「被爆体験者」の救済は待ったなしだ。

イスラエル不招待は当然

 三つ目。市長は式典にイスラエル大使を招待しなかった。私は市長の判断を支持する。被爆者団体も長崎市民も好意的である。
 市長は、招待しなかったことについて「平穏かつ厳粛な雰囲気の下で式典を実施したい」と記者会見などで述べた。熟慮の上の判断だった。
 7月に核保有国の米、英、仏やEUが連名で、イスラエルを招待しないのはウクライナに侵攻しているロシアなどと同じように扱うもので、その場合には大使は欠席と長崎市に圧力をかけていた。そもそも、原子爆弾投下の加害者米国に、長崎市が営々と築き上げてきた式典運営に関して、リスペクトこそすれ、圧力をかけ介入する資格があるのだろうか? 今まで米国は一度も謝罪をしていないのだ。
 長崎市には全く瑕疵はない。米国を中心としたG7の主張には正当性はなく、世界に通用しない、まかり通らないことが、今回のことで図らずも露呈したと言える。
 以上、この夏ナガサキで感じたことを思いつくまま書いてみた。来年2025年は、被爆・戦後80年。「ナガサキを最後の被爆地に、二度と再びアジアと戦火を交えない、二度と再び沖縄を戦場にしない」。そのための1年として心して過ごしていきたい。