日本が福島原発の廃水海洋放出を止めるべき理由

鈴木 達治郎

すずき・たつじろう
長崎大学核兵器廃絶研究センター副センター長・教授。元日本原子力委員会副委員長。2017年6月より国会原子力特別委員会審議委員。東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻博士課程修了(1988年)。本論執筆は23年9月22日。

 2023年8月24日、日本の電気事業持株会社である東京電力株式会社(TEPCO)は、損傷した福島第一原子力発電所からいわゆる「処理水」と「希釈水」を太平洋へ放出し始めたと発表した。だが、処理水の放出をめぐる論争は終結したとは言えない。むしろ、政治が科学と衝突し、国内外の信頼を失う、長期にわたる闘争の始まりなのかもしれない。
 東京電力の決断、そしてそれが論争を引き起こした理由を理解するためには、まず放出されている「処理水」の正体、その放出作業をめぐる科学的論争、そして社会的・政治的文脈を理解する必要がある。

「処理水」か「汚染水」か?

 原子炉内で溶融した燃料デブリを冷却するために、雨を含む地下水を損傷した福島第一原発の敷地内を通過させるが、その水は、油やセシウム、ストロンチウムなど多くの有害な放射性核種によって汚染される。サブドレンによる汲み上げや、不透水性の陸側凍土壁の建設など、さまざまな対策によって「汚染水」の発生は徐々に減少している(図1参照)。東京電力によると、2014年には1日あたり540立方メートル(㎥)であった汚染水の発生量は、22年には1日あたり90㎥まで減少している。
 水を汚染する放射性物質の一部は現在、「多核種除去装置」(ALPS)と呼ばれる高度な装置によって除去されている。ヨーロッパのアルプス山脈が世界で最もきれいな淡水の本拠地であることを考えると、ALPSという略称は皮肉なものである。(ALPSで除去することのできないトリチウム以外の)放射性物質が除去されると、処理水はタンクに貯蔵される(図2参照)。ALPSの処理によって、トリチウムを除く放射性核種の濃度は規制基準を下回るレベルまで低下するとされている。しかし、東京電力のデータによると、23年3月31日時点で、合計約130万㎥の処理水のうち、規制基準を満たすのは約3分の1に過ぎず、残りの3分の2は再浄化が必要だという。

図1. 処理前の福島第一原子力発電所を流れる地下水の流れ(出典:IAEA)

図1. 処理前の福島第一原子力発電所を流れる地下水の流れ(出典:IAEA)

図2. 福島第一原子力発電所の汚染水を処理する、いわゆるALPSプロセスの描写(出典:IAEA)

図2. 福島第一原子力発電所の汚染水を処理する、いわゆるALPSプロセスの描写(出典:IAEA)

 わずかな割合とはいえ他の放射性核種が含まれている可能性があるため、「処理水」は「トリチウム水」ほど純粋だとは言えない。他の原子力発電所の通常運転中に放出される「トリチウム水」は他の放射性核種によって汚染されていないため、それと福島の「処理水」とを比較することは、誤解を招く可能性がある。
 東京電力は、「処理水」を再浄化し、目標の濃度限度(1リットルあたり1500ベクレル)を満たしてから海に放出すると主張している。そのために、大量の海水で「処理水」を希釈し、トリチウム濃度を1リットルあたり190ベクレル(Bq)まで抑えるのだ(これは目標放出限度である1500Bqよりもはるかに低い値である)。
 最初の放出は17日間にわたって行われ、合計7800トンの処理水が海に放出された。東京電力は23年にあと3回処理水を放出する予定で、24年3月末までのトリチウム放出総量は約5兆Bqに達する見込みだ。これは、福島事故前に設定された年間排出目標である22兆Bqを大幅に下回る。
 東京電力はトリチウム以外の放射性核種についても、濃度が規制基準を下回っていることを報告する義務がある。東京電力は、簡易的な指標を用いてこれを実現している。各放射性核種(トリチウムを除く)の濃度と規制基準を比較した比率の合計を割り出し、この比率が1以下であれば、他の放射性核種の濃度が規制基準を下回っていると定義づけている。東京電力によると、最初に放出された処理水の指数は0.28であり、規制基準を満たしている。また、東京電力は、すべての「処理水」を放出するために、少なくとも30年間はかかるだろうと述べている。

科学的論争

 日本政府と東京電力は、これらの作業が日本の規制基準と国際的な安全基準の両方を満たしていると主張している。また、日本政府は国際原子力機関(IAEA)に対し、ALPSによる処理水放出の安全性について独立調査を行うよう正式に要請した。2023年7月4日、IAEAは「包括的報告書」を発表し、ALPSプロセスは「関連する国際安全基準を満たしている」と結論づけ、「東電が現在計画している処理水の(海への)放出が人間や環境に与える放射線学的影響は、無視できるほど小さい」とした。
 しかし、東電の放出計画に対する科学的反論も挙がっている。
 太平洋諸島フォーラムは23年1月の声明で、現在の国際基準がそもそも「トリチウム水放出」という前例のないケースに対処するのに適切かどうかについて、懸念を表明した。また、同フォーラムが設置した独立専門家委員会の報告書によると、東京電力の計画はIAEAの「一般的安全指針第8号(GSG-8)」にある「国境を超えた影響」(あるプロセスの利益が、個人や社会にとっての害を上回るかどうか)の検証が十分に含まれていない。
 フォーラムの専門家はまた、処理水を海に放出する代替案として、建設産業用のコンクリート製造に使用するという方法を推奨した。放射性核種を材料に固定化することで、人体との接触の可能性を低くし、国境を越えた影響も回避することができる。
 ナショナル・ジオグラフィックの記事での引用によると、委員会のメンバーであるハワイ大学ケワロ海洋研究所のロバート・リッチモンド所長は次のように述べている。
 「それは国境を越え、世代を越える出来事である」、そして「放出によって太平洋が回復不能なまでに破壊されるとは思わないが、だからといって懸念しないわけにはいかない」と。この発言はまさに東京電力の放水計画が海洋環境に与える影響の不確実性について的確に要約している。

社会的信頼の欠如

 科学的な議論に加え、東京電力のALPS処理水問題は社会的・政治的な論争をも引き起こしている。発端となったのは、2013年9月7日の国際オリンピック委員会での安倍晋三首相(当時)のスピーチである。「福島のことを心配する人もいるかもしれません。ですが、状況は制御下にあります。(20年夏季オリンピックが開催される)東京に、被害が及ぶことはこれまでもありませんでしたし、今後もありません」。安倍首相の演説の後、汚染水の管理責任は政府が引き継いだが、福島第一原子力発電所の廃炉作業の責任は依然として東京電力が負っている。これ以来、処理水に関するすべての政策判断は日本政府が行い、東京電力はそれに従うという構図になっており、意思決定プロセスを複雑化させている。
 15年8月、日本政府と東京電力は地元の漁業者に対し、「利害関係者の理解を得ることなく、処分を実施することはない」と約束した。政府は地元大学の専門家を集めて委員会まで設置し、技術的な選択肢を議論させたり、地元住民との信頼関係を築くために数年間にわたり会合を開いたりした。だからこそ、21年8月に菅義偉元首相が「処理水」の海洋放出を決定したことは、地元の漁業者をはじめとする多くの利害関係者にとって裏切り行為のように感じられた。全国漁業協同組合連合会の坂本雅信会長は、処理水の放流計画に反対する23年6月の声明でこう述べた。「海洋放出が唯一の解決策であるという政府の姿勢を支持することはできない。海に放流するかどうかを判断する政府には、その判断の全責任を負うことを求める」
 この論争が続く大きな理由のひとつは、東京電力や経済産業省に対する国民の不信感である。18年8月、処理後の「トリチウム水」に他の放射性核種が残っており、その量が規制基準を超えていることが報道調査によって明らかになった。この結果は、東電の説明と矛盾している。この時の東電、および経済産業省の説明は説得力に欠けるものであった。両者は汚染水放出の必要性と時期について、溶融した燃料デブリを原子炉から取り出す際に保管スペースが必要であり、今すぐ処理水を放水しなければ保管場所がいっぱいになってしまうと主張したのだ。しかし、燃料デブリの取り出しの時期や実現可能性についてはまだ全くわかっていないのが現状であるし、近隣の福島第二原子力発電所に保管するためのスペースは十分にある。
 日本政府が正当化を続けるなか、近隣諸国にも懸念が広がっている。韓国政府は、原子力安全・保安委員会の高官など、何人かの専門家を派遣した。同委員会のユ・グクヒ委員長は訪問後、納得したかのようにこう述べた。「放水が計画通りに実施されれば、(放射能の)放出基準や目標レベルは国際基準を満たすだろう」。それでも、韓国の漁師や消費者は福島原発からの放水の影響を心配しており、韓国の有数な水産市場は、こうした懸念を和らげるために魚の放射能モニタリングを開始した。
 韓国の専門家の訪問を踏まえ、日本政府は中国政府が福島原発の処理水を「汚染水」と表現し続けていることに苦言を呈し、科学的根拠に基づいた対話を求めた。しかし、日本政府の努力は実を結ばず、中国外務省の報道官は、放水が安全で無害であることを日本はまだ証明しきれていないと述べた。日本が処理水の排出を開始した直後、中国は日本からのすべての水産物の輸入を禁止した。この問題をめぐる日中間の緊張が緩和される見通しは立っていない。

状況を改善するには?

 福島原発の処理水計画について国民の信頼を回復するのにはいくつかの選択肢が残されている。
 第一に、日本政府と東京電力は、放射性廃水の管理が純粋に科学的・技術的な問題ではないことを認識すべきである。この種の公的論争は、「科学に基づく」対話だけでは解決できない。確かに科学的な対話は不可欠だが、それだけでは十分ではない。むしろ、福島の処理水の問題は、アルビン・ワインバーグが言うところの「トランス・サイエンス」の典型的なケースだと言える。つまり「科学に問うことができるが、科学では答えることができない問題」なのである(太字はワインバーグが強調した部分)。東京電力と日本政府は、放出計画に科学的主張以外のアプローチも含め、意思決定プロセスの改善や利害関係者との誠実な対話(説得ではなく対話)を行うべきである。
 第二に、国民の信頼と信用を回復するために、政府は放出を中止し、利害関係者が信頼する独立監督機関を設置すべきである。東京電力の計画に対するIAEAの審査は、役には立ったかもしれないが、十分ではなかった。というのも、同審査は最初の放出のサンプルのみを検証したのであって、今後30年間続く計画全体を審査するものではなかった。事実、IAEAのラファエル・マリアーノ・グロッシ事務局長は、IAEAの「包括的な報告書」の序文で、その報告が「(政府の)政策を推奨するものでも支持するものでもない」と明言している。国民の信頼を向上させるためには、意思決定プロセス全体の完全な透明性と、裏付けとなるデータや情報の開示が不可欠である。
 第三に、東京電力と日本政府は、現在の放出作業をあくまでも「実証(デモンストレーション)」プログラムと位置づけ、放出が海洋環境や魚類に影響を及ぼさないことを確認してから放出計画についての最終決定を下す、と宣言すべきである。つまり、処理水の放出をいったん中止し、科学コミュニティーに研究を行うよう求めるのだ。同時に政府は、国内外の利害関係者が納得できる技術的代替案も、模索し続けるべきである。そうすることで、日本政府と東京電力は放出を「一時的に」停止することを正当化して面目を保ち、同時に、利害関係者の懸念に真摯に耳を傾けていることをアピールすることができるだろう。
 「科学的理論」を超える努力をすれば、日本政府と東京電力は福島原発の処理水の扱いに対する国民の信頼を向上させることができるだろう。

 本稿は、長崎大学核兵器廃絶研究センターの鈴木達治郎教授が、「Bulletin of the Atomic Scientists」(原子力科学者会報)に寄稿した「Why Japan should stop its Fukushima nuclear wastewater ocean release」(なぜ日本は福島原発廃水の海洋放出を止めるべきなのか)を訳したもの(中原萌訳)。鈴木達治郞教授の了解の下、掲載します。文責編集部。