能登地震と羽田航空機事故から考える「有事」

能登地震と羽田航空機事故から考える「有事」

国際地政学研究所理事長(元内閣官房副長官補) 柳澤 協二

 2024年は、大きな災害と事故で幕を開けた。自然災害や事故は避けられない。なぜなら、そこに人間の意思が働いていないからだ。できることは、被害をできるだけ少なくすることだ。そのためには、被害情報と現場の実情に合わせた救助や支援が必要になる。そこでの対応の誤りが救えるはずの命を失うことになる。


 敵基地攻撃を盛り込んだ新国家安全保障戦略策定から1年となるが、この間、初めて沖縄県による離島住民避難の図上演習も行われた。有事の住民避難は、自然災害と同様、地方自治体の役割とされている。
 また、自民党の麻生太郎副総裁は、昨年8月、日米と台湾に対して「中国と戦う覚悟」を求め、年明け1月10日には「台湾にいる邦人を海上自衛隊などが救出しなければならない」などと発言している。
 戦争は人間の意思の作用であるから、避けることができる。災害・事故との本質的な違いである。それはさておいても、能登地震の被害全容の把握には多くの困難があった。羽田の事故は、ハイテクを駆使した飛行場管制システムの盲点をあぶり出した。これを踏まえて、「有事における住民避難」が現実的なものなのか、検証しておきたい。

悪い情報ほど後から来る

 私は、2004年から09年まで、官邸で危機管理を担当していた。地震などの災害の際には、官邸地下の危機管理センターに参集した。元日の能登地震があったとき、04年10月の中越地震を連想した。危機管理センターには、自衛隊・警察・消防のヘリから映像が届いたが、最も鮮明だったのは上越市内の火災現場の映像だった。2階の窓から救助を求める人の映像もあった。私たちは、その映像に集中し、消火と救助の報告を現場に求めていた。だが、最大の被害は山古志村で発生していた。そこでは震度7を観測していたが、当日夜にその情報は来なかった。震度計の数値を伝える通信が途絶えていたからだ。
 災害への初動対応は、いきおい、「存在する情報」をもとに考える。だが、「情報がない」ことをどう評価するのか。情報を出すべき人やツールが被災しているのだから、情報がないということは、被害がないことと同じではない。悪い情報ほど後から来る。そこで、「兵力の小出し」という対処の錯誤が生まれる。
 今回の能登の地震でも、テレビでは、津波からの避難を叫ぶ声が繰り返し流れてきた。だが、われわれが映像として見ていたのは比較的平穏な町の風景だった。観測された津波も、1・5mという数値が流れていた。私自身、「大したことがなくてよかった」と思っていた。見たもの、聞いたものにこだわる情報評価のバイアスである。
 悪い情報ほど後から来る。これは、危機管理の最大の教訓である。

避けられない錯誤

 岸田首相は、輪島市長などと連絡が取れない状況のなかで1000人の自衛隊派遣を命じる。金沢市に所在する陸自普通科連隊の数百人を中核とする規模である。正月休暇期間でもあり、それ以上の数は見込めないと思われた。斉藤鉄夫国交大臣も「そこまで大きな災害になるとは思わなかった」と回顧している(2月2日「朝日新聞」)。一方、災害派遣の自衛隊車列は渋滞と道路の寸断に阻まれ、現地への到着に難渋した。阪神・淡路のときと同じだ。何かをしなければならないが、何をすべきかを的確に教える情報がない。これこそ、危機の危機たるゆえんである。
 翌日には、道路の崩落や多数の集落孤立が明らかとなり、死者・不明者約250人規模という大災害であるとの認識が共有された。自衛隊は、1万人の統合部隊編成の方針を打ち出したが、兵力をどこに差し向けて何をするかの判断はつかなかった。陸路が遮断され、海からの上陸適地もない。最終的に自衛隊は、ヘリによる孤立集落からの住民輸送や、徒歩で避難所への物資搬入などの生活支援に当たることになった。アクセスルートがないというのは、他の大規模地震災害と比べたとき、今回の災害の大きな特徴である。そこでは、1万人の部隊を用意しても、一つの集落で動ける人員は数十人にとどまる。
 方針は、絶えず見直されなければならないが、それはときに現場を混乱させ、次の錯誤を生み出す。広域にわたる災害とは、そういうものだ。

デジタル信仰が招いた
羽田の事故

 1月2日の羽田における航空機の衝突事故は、錯誤の連鎖から生じた。海保機は滑走路前の待機を滑走路進入許可と誤認し、着陸姿勢の日航機は滑走路上の障害物に気づかず、管制塔は指示が双方に伝わっているものと誤認していた。このうち誰かが気付いていれば、事故は防げた。
 事故直後にはさまざまなアイデアがメディアを通じて出された。伝達の言葉を変えるとか、見やすい信号機(灯)や警報をつけるといったものだ。だが、どんな用語を使っても間違いは起き得るし、信号や警報があったとしても見落としはあり得る。問題の本質は、「機械の表示とマニュアルに従えばいい」という思考のバイアスにあるからだ。
 私は、事故の責任の所在ということではなく、再発防止の優先課題は管制塔にあると思っている。すべての航空機は管制塔と交信し、その指示に従うからだ。そこで真っ先に思い当たるのは、管制官の過重な業務負担である。管制官組合が増員を要求していることには賛同できる。エラーをチェックするのは、最終的には人間であるからだ。
 人間は、機械の力を借りてより複雑な仕事をより早くこなしている。マニュアルの力を借りて少人数で大きな組織を動かしている。だが、機械やマニュアルは、本来デジタルの領域である。スイッチを入れれば動き、切れば止まる。それを疑ってかかるのがアナログの世界である。一人の人間の言動を別の人間がチェックするのは、独立した別のシステムによるチェックの意味があり、間違いを正すために最も信頼できるやり方だ。この事故を機に、デジタルに頼り過ぎることの落とし穴と、人間の「経験や勘」という複雑なアナログ系への信頼を再確認してほしいと思う。

戦争と災害の違い

 クラウゼヴィッツは、戦争における敵との相互作用や、大規模な軍隊組織内の意思疎通の困難さから生じる錯誤を「戦場の霧」と名付けている。地震や事故は、発生時に被害が確定している。それでも、上述の通り部隊の行動が阻まれ、あるいは資材が不足するなどの錯誤が起こる。だが、敵の行動によって被害や錯誤が拡大することはない。他方、戦争ではそれが当たり前のことになる。
 例えば、災害ならヘリやドローンを縦横に飛ばして情報収集ができるが、戦争では、敵がそれを妨害し、あるいは偽情報を流す。災害なら、自衛隊は全力を挙げて被災地の救援に当たるが、戦争では、自衛隊は何よりも敵との交戦を優先し、住民の避難を助ける余裕はない。
 政府の方針では、離島の住民避難は有事が始まる前に十分な時間的余裕をもって行い、その際、自衛隊を離島に増派するための民間フェリーが部隊を降ろした後の帰路に住民を乗せることが想定されている。だが、自衛隊の動きは機密事項である。いつ、どこに住民を待機させるかといった情報をどのように伝えるか課題が残る。
 避難についても、避難先の受け入れ態勢、避難の期間、その間の生活保障と帰島後の生活再建は不明のままだ。災害であれば、インフラの復旧、住宅の再建、事業の再開など、長期であってもめどが立てられるが、そもそも「有事」がどのくらい続くのかは、戦争してみなければわからない。住民にとって、「政府が避難させてくれる、シェルターに身を隠すことができるから安心だ」ということにはならないのだ。
 さらに、戦争が相互作用であることから生じる最大の問題は、こちらが自衛隊の増派と住民避難を始めれば、敵はそれを戦争準備と認識し、先制攻撃の誘因となるなど、事態をより悪化させる可能性があることだ。戦争の常識から言えば、「増派」「避難」は日本による軍事的挑発なのである。
 「前線からの被害報告がない」という「情報」は、部隊の全滅を意味している。数万の統合部隊を編成して予め計画した配置に就けたとしても、敵はその裏をかくに違いない。部隊がROE(部隊行動基準マニュアル)に従って発砲すれば、戦争の拡大につながる。断片的な情報とマニュアルに依拠して兵力の投入を決めるのは、戦争においては重大な誤りとなる。
 麻生氏が「台湾有事は『存立危機事態』になる。そこで、日本は集団的自衛権を行使して米軍と共に戦う」というのは、安全保障法制というマニュアルの論理である。安全保障法制に従って政治がデジタルな判断をすれば、戦争は避けられない。政治家の役割は、戦争を避けることにこそあるはずだ。災害は起きてからの闘いだが、戦争は起きたら政治の敗北なのだ。

敵基地攻撃と自治体

 政府は、地対艦ミサイル部隊を石垣、奄美という離島だけでなく、沖縄本島の勝連や大分県の由布院にも配備する計画である。これらは、やがて敵基地攻撃能力を持ったミサイルに換装される。離島の住民を避難させるのは、有事にそこが攻撃目標となるからだ。したがって、避難は、離島だけでなく沖縄本島や日本本土でも考慮されなければならないはずだ。
 従来、多くの地方自治体は、「安全保障は国の専管事項」として議論を避ける傾向があった。だが、有事の避難・攻撃目標化は、住民の生命や暮らしに直結する。これは、国の専管事項ではない。こうした観点から、関係自治体の新たな連携や取り組みが求められている。
 最後に余談となるが、1600億円の費用がかかる大阪・関西万博の経済効果が2兆円強と言われている。能登地震の被害推定額も2兆円強である。犠牲者の多くは家屋の倒壊が原因だが、1600億円という費用が能登の家屋の耐震化に使われていれば、大半の被害は防げたのではないか。そういう金の使い方も、大いに議論されるべきではないだろうか。