IAEA報告は海洋放出を承認していない
中国を「非科学的」と断じる日本の傲慢
ジャーナリスト(元共同通信客員論説委員) 岡田 充
福島第1原子力発電所の溶け落ちた核燃料を冷却する汚染水の海洋放出が近づいている。
日本政府やメディアは、国際原子力機関(IAEA)の「国際的安全基準に合致」とした調査報告書(7月4日)によって、海洋放出の安全性と正当性が保証されたかのように主張する。
だが報告書が「排出の安全性を判断する内容ではない」ことを、どれほどの人が知っているだろう。報告書で「お墨付きを得た」とし、地元・福島の漁民や市民団体、中国や太平洋の島嶼国など海外の反対を「非科学的」「外交カードにしている」などと決めつけるのは、あまりに傲慢な態度ではないか。
報告書までの経緯
まず「処理水問題」を振り返ろう。2011年の福島原発事故で「メルトダウン」(炉心溶融)を起こした1、2、3号機では、溶けた核燃料を冷やすために毎日、大量の水が原子炉に注入されている。燃料デブリに触れて高濃度の放射性物質を含んだ「汚染水」は、原子炉建屋に流れ込む地下水や雨水と混ざり合うことで、新たな汚染水を発生させている。
汚染水に含まれる放射性物質は、多核種除去設備(ALPS)という専用設備で浄化しているが、トリチウム以外の放射性物質を海洋放出の規制基準以下にした水を、いわゆる「処理水」と呼ぶ。処理水は現在約1000基(約137万トン分)のタンクで保管されている。東京電力は24年には満杯になるとして、処理水のトリチウム濃度を国の規制基準の40分の1を下回るように海水で薄め、海底トンネルを通じて沖合約1キロ先の放水口から海に流す計画を立てた。
これに基づき日本政府は21年4月、東京電力が作成した「処理水の海洋放出に係る放射線影響評価報告書」と、原子力規制委員会による海洋放出計画の審査プロセスが、IAEAの安全基準に整合しているかの確認を求めた。IAEAは7月4日、海洋放出計画が「国際的な安全基準に合致している」とする内容の調査結果を公表し、同機関のグロッシ事務局長が岸田首相に報告書を提出した。
中国などの反対で
外交問題化
海洋放出に対しては全国漁業協同組合連合会(JF全漁連)や地元福島漁協、反核市民団体などが強く反対してきた。IAEA報告を受け、中国や太平洋島嶼国からも反対の声が上がり外交問題に発展した。まず中国の主張に耳を傾けよう。
呉江浩・中国駐日大使と大使館報道官は7月4日の記者会見で、海洋放出に反対する理由を次のように列挙した。
①日本側は周辺近隣国など利益関係者と協議をせず一方的に決定
②原発事故で生じた汚染水の排出は前例がない
③中国も原発から排出しているというが、排出しているのは冷却水であり、溶けた炉心に接触した汚染水ではない
④溶け落ちた炉心に直接接触した汚染水には60余種の放射性核種が含まれており、多くは有効な処理技術がない――
呉大使は「日本は直ちに海洋放出計画を中止して国際社会と真剣に協議し、科学的、安全、透明で、各国に認められる処理方式を共同で検討すべき」と主張するのである。
IAEAが定める安全基準には、放射線リスクから人の健康を守るため、「排出などを正当化する条件」として、すべてのステークホルダー(利益関係者)との協議が必要、という項目がある。利益関係者には中国、韓国、台湾、太平洋諸国も含まれると解釈すべきであり、彼らの懸念と抗議は正当な権利だ。
呉大使らが列挙した①は、まさにその点を指摘しているのである。日本政府やメディアは中国の批判を「外交カードにする」と反論するのだが、その主張こそ排出問題を「外交カード化」しているのではないか。
太平洋島嶼国も反対
中国政府の反対を受け、香港食品衛生管理当局は7月12日、排出が実際に行われれば、福島や東京を含む10都県からの日本の水産物の輸入を禁止すると発表。さらに、中国税関当局が日本の水産物に対する放射性物質の検査を7月から厳格化、鮮魚などの輸出が停止していることが分かり日中間の外交問題へと発展した。
排出前から「対抗措置」に出たとも映る中国の対応について日本メディアは、「中国政府は処理水問題を利用しているのではないか、との疑念を禁じ得ない」という社説[ i ] や、「処理水問題が科学的議論を離れ外交カードと化している」とする政府関係者の見方[ii] を紹介するなど、「日本政府応援団」と化して、対中非難を煽っている。
だが反対しているのは中国だけではない。オーストラリア、ニュージーランドとパプアニューギニアなど太平洋島嶼国でつくる「太平洋諸島フォーラム(PIF)」は、6月26日、プナ事務局長(マーシャル諸島)が声明を発表した。
声明は「放射性廃棄物その他の放射性物質」の海洋投棄は「太平洋島嶼国にとって、大きな影響と長期的な憂慮をもたらす」ため、「代替案を含む新たなアプローチが必要であり、責任ある前進の道である」と、プナ事務局長は海洋放出に反対する態度を表明した。
PIFと日本は、菅義偉首相時代の21年7月2日、「第9回太平洋・島サミット」(PALM9)をオンラインで開いた。菅氏はその際、「権威主義との競争など新たな挑戦に直面」しているとして、中国の脅威に対抗する結束を呼びかけた。しかし、太平洋島嶼国側の同意を得られず、議論は海水面の上昇や海洋ゴミ、核廃棄物など汚染物質対策に集中した。
サミット後の首脳宣言には、PIFの加盟国・地域側が「海洋放出に係る日本の発表に関して、国際的な協議、国際法及び独立し検証可能な科学的評価を確保する」のが優先事項であるとの文言が盛り込まれた[iii]。
日本政府・外務省もこの失敗を忘れていないはずだ。
排出を推奨も承認も
していない
海洋放出の是非を判断するには、IAEA報告書を排出の安全性と正当性の保証とみなせるかどうかにある。ここで最も注意しなければならないのは、報告が「処理水の排出は日本政府が決定することであり、その方針を推奨するものでも承認するものでもない」と明記している点にある。
つまり排出という政治的決定については、報告書は一切判断していないのだ。報告書が出て以来、政府説明やメディア報道に接した多くの人はこの点を誤解してはいないだろうか。
実を言えばかくいう私も、報告書は海洋放出を安全とみなしたと思い込んでいた。
中国の反対を受け、報告書が出るまでの経緯を調べ直した結果、政府と東電がIAEAに審理を求めたものは、「海洋放出の安全性や正当化を求めておらず、排出設備の性能やタンク内処理水中の放射性物質の環境影響などを評価しただけ」という事実が分かった。
政府とメディアは「国際的安全基準に合致する」という内容を「お墨付き」に、「海洋放出の安全性と正統性」を強調し、報告書があたかも海洋放出の「ゴーサイン」かのように報じてきた。これは政府とメディアが一体となって、「自分にとって好都合になるよう、情報の出し方や内容を操作する」のを意味する、典型的な「印象操作」ではないか。
「認知戦」の一種とすら言える。
IAEAのグロッシ事務局長はNHKとのインタビュー(7月7日)で、次のように語っている。
「日本政府は処理水をどう扱ったらよいか聞いてきたわけではなく、基本方針を評価してほしいという要請だった。政治的にいいか悪いかを決めたわけではなく、放出に対する日本の取り組みそのものを調査した」
筆者が7月28日、「IAEA報告書は『処理水の海洋放出』を承認していない。中国を『非科学的』と切り捨てる日本の傲慢」というタイトルの記事を発表すると、予想以上の反響があった。それから判断すると、「印象操作」は成功し多くの人が、「海洋放出を正当化した」と誤読していた可能性が高いことが分かる。
その一方、共同通信が7月16日に報じた世論調査結果[iv]では、海洋放出に関する政府の説明について「不十分だ」との回答が80・3%に達した。風評被害が起きると思うかについても「大きな被害が起きる」が15・8%、「ある程度起きる」は71・6%で、懸念の声が計87・4%を占めた。印象操作が世論に必ずしも浸透していないことが分かる。
社会的合意ない放出
原子力に依存しない社会の実現を目指す認定NPO「原子力資料情報室」は7月6日の声明[v]で、以下のように指摘している。
①IAEAの安全審査の範囲には、日本政府がたどった正当化プロセスの詳細に関する評価は含まれていない。
②海洋放出は廃炉作業のみに適用される利益であり、漁業や観光業、住民の生活、海外への影響も含めた社会全体としての利益をもたらすものではない。
③社会的合意がないことは全漁連、福島県漁連の放出反対の決議や、太平洋沿岸諸国から懸念が上がっていることからも明らか。国際基準の基本原則にのっとれば海洋放出は正当化されない。
報道の欠陥の反映
自民党の茂木敏充幹事長は7月25日の記者会見で、海洋放出を批判する中国について、「科学的根拠に基づいた議論を行うよう強く求めたい。中国で排出されている処理水の濃度はさらに高い」と反論した。
茂木氏の主張には、溶け落ちた原発の炉心に直接接触した汚染水を処理した水を史上初めて海洋に排出する事実を無視し、放射性物質の含まれる濃度の問題にすり替えているようにみえる。
市民団体[vi]からは「タンク貯蔵水の7割近くにはトリチウム以外の放射性核種が全体としての排出濃度基準を上回って残存している」という指摘もある。これまで見てきたように、中国の主張を「非科学的」と決めつけること自体が、非科学的なのだ。
政府・与党が、中国の批判を「目の敵」のようにあげつらうのは、対中感情が悪化する日本世論の現状を利用して、中国の反対を世論の力で押し切れると判断しているからではないか。だが中国批判なら、根拠が薄くあるいはウソで固めても、「書き得」(書いたメディアの勝ち)というメディアに横行する悪習を絶たないとメディアは信頼性を失う一方だ。中国の海洋放出批判に感情的に反発するメディア姿勢は、メディアが陥っている中国報道の欠陥の反映だ。
排出は100年にも、
世界の非難浴びる
IAEA報告書は、海洋放出以外の選択肢については一切触れていない。それは、それ以外の選択肢についてIAEAに判断を求めていないからだ。
専門家からは「大型堅牢タンクでの保管」や「モルタル固化」などの選択肢が以前から提示されている。
政府と東電が海洋放出にこだわるのは「安く、手っ取り早いから」とされる(科学ジャーナリスト・田中三彦氏)[vii]。この記事によると、経産省が16年段階で試算した海洋放出のコストは、期間91カ月で約34億円。蒸発方式340億円(115カ月)、地下埋設処分の2431億円と比べ、確かにコストパフォーマンス[viii]がいいのがわかる。
東電が22年11月に発表したプレスリリースによると、海洋放出コストはその後アップし、21~24年の3年だけで417億円、これに政府が出している風評被害対策の300億円を合わせると717億円にアップしている。
今後の大課題は、海洋放出には開始してからも増え続ける汚染水と放射性物質の総量がどこまで膨れ上がるのか、環境への負荷が未知数という問題。肝心の燃料デブリの取り出しには全くめどが立っていない。1~3号機のデブリの総量は880トンにも上るとされるが、試験採取ですら2度も失敗。デブリを取り出させず、地下水流入も止まらなければ、汚染水は永遠に増え続ける。そこから類推すると、海洋放出は100年の単位で続くと予想する専門家もいる。
日本は世界初の海洋放出を強行した国として世界の非難を浴びるだろう。自国の原発から出た放射性物質は自国内で処分するのが原則だ。政府と東電は、海洋放出に固執せず、国内での長期貯蔵にかじを切るべきだ。
日本政府はバイデン政権登場以来、台湾問題で中国を軍事抑止する安保政策を最優先し、対中関係は悪化の一途をたどってきた。海洋放出で日中対立が激化する中、日本側は先端半導体の製造装置の対中輸出規制を強化し、軍事抑止に続いて経済安保でも中国排除に動き、日中関係は「負のスパイラル」に陥りつつある。
米国と中国は対立が衝突に発展しないようブリンケン国務長官をはじめ高官が相次いで訪中、首脳交流再開に向けた対話パイプを維持している。一方の岸田政権には対中外交の展望とパイプの欠如は否めない。中国経済はいま落ち込みからの回復力が弱く、日中経済関係を強化するモチベーションは日中双方にある。「負のスパイラル」入りする前の手当てが必要だ。
(岡田充「海峡両岸論第153号」〈2023・8・7発行〉を筆者の了解の下に転載)
[i] (社説)処理水と中国 政治利用でなく対話を:朝日新聞デジタル(asahi.com)
[ii] 日中関係、遠い成熟 課題山積、埋まらぬ溝/外交トップ会談 – デーリー東北デジタル(daily-tohoku.news)
[iii] 太平洋諸島フォーラム、福島原発廃水処理水(the Fukushima treated nuclear wastewater)に関する強い懸念に対処することを表明(スバ、2023年6月26日、PIFS/PACNEWS) | 太平洋島嶼国事業-ブレーキングニュース | 笹川平和財団 – THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION(spf.org)
[iv] 内閣支持率34%、最低水準 共同通信世論調査 – 日本経済新聞(nikkei.com)
[v] (https://cnic.jp/47363)
[vi] Microsoft Word – 20230718_CCNE_kenkai_final(ccnejapan.com)
[vii] Japanese media becomes a ‘cheerleader’ for the government to promote the dump of nuclear-contaminated water into the sea: Japanese reporter – Global Times
[viii] 「原発処理水の『海洋放出』は日本にとって得か損か?」(週プレニュース 23・8・3)原発処理水の「海洋放出」は日本にとって得か損か? – 政治・国際 – ニュース|週プレNEWS(shueisha.co.jp)
7月5日、日本経団連や中国企業連合会、中国国際貿易促進委員会、インド工業連盟、インドネシア商工会議所、全経連(韓国)などアジアの13の経済団体のリーダーが韓国のソウルで第12回アジア・ビジネス・サミットを開催した。その共同声明は、「我々アジアの経済界はこれまで長年にわたり培ってきた強固な信頼を基盤として」「持続可能な経済成長を達成すべく」「地域で重要な資源を共有するサプライチェーンシステムを構築していく。資源に乏しい国と豊かな国との間の協力を促進し、アジア全体の成長に大きく貢献する」「今後、アジアの経済界は、より豊かで活気に満ちたアジア、グローバル経済をリードするアジア、人類の幸福に貢献するアジアの実現に向けて、各国・地域の経済界同士の連携、協力を更に強化する」と提起している。そして、「政府に対して、協調した取組みを求めていく」と求めている。