県民が主体的に平和な暮らしを渇望して選択したのだが
新しい風・にぬふぁぶし 幹事長/沖縄県議会議員 翁長 雄治
「復帰」と言うと、沖縄県内にも若い世代にはピンとこない人も多くいる。私も1987年、復帰から15年たった年に生まれていて、当たり前に日本国民として生活をしてきた。日本の憲法のもと教育を受け、医療・福祉などの社会保障制度を享受してきた。さらには、日本の安全保障における重要な役割をもつ日米安保の維持のための在日米軍施設についても、「日本国民」として当たり前の負担として、深く考えずその問題に接してきていたと思う。
沖縄は元々独立国だった
私自身、復帰を考える上で改めて時代を遡り振り返ってみたい。
沖縄は元々独立した国であった。約3万2000年前からこの地域で人々が暮らし、独自の文化を育んできた。そして各地の按司(豪族)が勢力争いを繰り広げ1429年に尚巴志が歴史上初めて権力統一し「琉球王国」が誕生した。1872年に「琉球処分」が行われるまで約450年の間、日本や中国など他国の政治的影響・圧力も受けながら独立国として歴史を紡いできた。
薩摩の琉球侵攻もあり、日本と中国の間で揺れる時代を過ごし、1879年に廃藩置県の流れで琉球藩から「沖縄県」となった。いわゆる琉球処分である。
約450年もの間続いた一つの独立国が侵攻され、併合され、「同一民族」として取り扱われている現代の中で、さまざまな侵略戦争を見るにつけ琉球民族または沖縄県も、その渦中にあった歴史があり人ごとではなかったと感じざるを得ない。
本土決戦の「捨て石」に
そして先の大戦では、本土決戦を遅らせる目的でまさに「捨て石」として使われた。苛烈な地上戦では1畳あたり4発の艦砲射撃を受け県土は焦土と化した。軍からは最後の一人まで戦うことを強要され、学生までが男子は体に爆弾をくくりつけて敵国戦車へ突っ込み、女子は負傷した兵士の看護要員として招集された。県民が逃げ込んだ防空壕では子どもの泣き声がうるさいと母親が乳児に手をかける、敵に捕まるくらいならと手りゅう弾を持たされ家族で集団自決を強要された。結果として当時の県民の4人に一人が戦死するという惨状となった。家族に一人も犠牲者のいない家庭がないほどであった。
翁長家も当時私の祖父と曽祖父が戦場を走っており、二人は隣り合わせでいたところ近くに艦砲射撃を受けた。祖父は曽祖父に対して「お父さん、今の近かったね」と声をかけたがすでに息が絶えていたそうだ。二人が逆に座っていたら父・雄志も私もこの世に生を受けることはなかっただろう。
あの沖縄戦で生き残った県民は本当に奇跡であったと言えるくらいの戦場だった。
日本本土とは違う戦後
戦争も終わり、沖縄県は米軍施政権下になり日本本土とは違う戦後を歩むこととなる。戦時中日本軍に接収されていた基地施設は米軍が使用した。
1952年4月28日サンフランシスコ講和条約によって沖縄は本土から切り離された。日本政府が「主権回復の日」として位置付けるこの日は、沖縄にとって「屈辱の日」として今もなお、県民の間では戦後を考える日として大きな意味をもつ。
沖縄は27年もの間、日本本土から切り離され、基本的人権も地方自治も蔑ろにされてきた。米国統治時代、米軍由来の事件や事故は今の比ではない。当たり前のように自宅に侵入され物を奪われ、乱暴される人も多かったと聞く。当時子どもだった方の話を聞くと、このようなこともあった。夜になると米軍人が街を歩く。そうするとお母さんは子どもたちを押し入れに避難させ自身は玄関口で通り過ぎるのを待つ。万が一乱暴目的に住居侵入されても、自分が犠牲になって子どもたちを守るという気持ちだったそうだ。
米軍基地から沖縄の土地を取り戻す、基本的人権等を求め本土復帰を目指す「島ぐるみ闘争」もこの頃大きくなっていった。契機となったのは「ゆみこちゃん事件」と呼ばれる少女暴行殺人事件だ。事件の残虐性はもちろんのこと、当初死刑判決だった加害者はその後減刑され、さらには仮釈放までされている。沖縄で起こした米軍人の事件・事故は大罪であっても、本来処罰されるべき刑罰すら与えられないというのが現実だった。
本土にあった米軍基地が、住民の反対運動で沖縄県にどんどん押し付けられてきた。日本は高度経済成長期を迎える中、沖縄県では子どもたちが食べる物もなく裸足で街を駆け回るという格差がありながらも、日本の安全保障は沖縄県が負担するという構図が続いていた。
今も違和感なき50年前の「建議書」
当時の沖縄県民はどんな心境で本土復帰を目指したのだろうか。さまざまな人権侵害を受けてきた人々は日本国憲法の下で安全安心な暮らしをしたかったのではないか。復帰前年、屋良朝苗琉球政府公選主席は「建議書」を政府に提出している。復帰50年を迎える中、県内ではあらためてこの内容が注目をされている。この建議書では、基本的人権・地方自治権の確立、沖縄県民本位の経済開発と、当たり前の日常を求めている。政府は「核なし本土並み」を約束したがそれが果たされているのか、はなはだ疑問である。前文を読むだけでも、当時の県内の生活の暮らしを感じることができる。
あれから50年が経過してどの程度達成されたのか。私からすると、現在の沖縄県の建議書として読み上げても何の違和感もない。これまでの5次にわたる沖縄振興・開発において、一定の社会基盤の構築は行われてきた。しかし、屋良建議書にある県民本位の経済開発がなされたとは思えない。沖縄振興・開発をする際には、実際は、毎回基地負担とのリンク論を振りかざされながら交渉がされてきた。当たり前のインフラや社会基盤は整備されてきたが、果たしてその結果は県民本位であったのか。いまだに本土との所得格差は大い。鉄軌道などの基幹公共交通がなく、民営化される前の国鉄時代に整備された本土との格差は大きい。自動車社会が定着し、車両の購入・維持費だけでも大きな負担となっている。
本土とは違う税制や施策が展開されることは、沖縄県を特別視してのことではなく、あくまでも日本国憲法にある「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の下にあるからだと考える。ところが沖縄県はそういう最低限のことすらも基地とリンクさせられる中で、選択を迫られているということを本土の皆さんにはご理解いただきたい。
ここまで沖縄県の歴史を振り返りながら復帰というものを考えてみた。50年前に実現した復帰は、薩摩侵攻からの併合とは違い、県民が主体となり平和な暮らしを渇望してのものであり、本来50周年というものについては心の底から祝いたい気持ちになるはずだ。
しかし、求めていた復帰とはかけ離れており、この状況を50年先の県民にまで引き継いでしまうのかという懸念もある。5月15日には玉城デニー知事が建議書を公表し、未来の沖縄を切り開く県民の意思を示す予定だ。沖縄県民がどのような思いでこの節目を迎えるのか、本土の皆さまにも一緒になって考えてもらいたい。