「日米同盟基軸」路線の継承では安倍政権が理屈上すっきり
柳澤 協二
元号が変わったからといって、何かがリセットされるわけではない。世界は日本の都合で動いているわけではない。意味があるとすれば、天皇の代替わりに象徴される世代交代によって、経験に裏打ちされた国民意識が変化することだ。それは、安全保障の方向性を決めるマインド・セット(時代精神)に関わっている。
やなぎさわ きょうじ
国際地政学研究所理事長、自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会代表。1970年、防衛庁入庁、2004年~09年、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)
昭和は戦争と戦後復興を通じて、戦争はごめんだ、みんなで働いて豊かになるという国民意識を育んだ。平成は、戦争世代の退場と、働いても豊かになれない世代を生み出した。社会が分断される一方、戦争への拒絶観が薄れる時代となった。
戦争の要因は、富と名誉と恐怖と言われている。富の不公正、人間の尊厳という名誉の喪失が、他者を排除し争いを生み出す素になっている。トランプ大統領が掲げるアメリカ第一主義のように、富も名誉も自国で独占し、武力で恐怖を与えて強制する戦争要因のデパートのような政治がまかり通る時代である。
中国の台頭で揺らぐアメリカ優位
日本の周囲を見れば、中国の台頭によってアメリカの優位が揺らいでいる。日中で見れば、中国は、政治・経済・軍事で今や完全に日本を凌駕している。その力と欲望は、とどまるところを知らずに拡大し続けているように見える。日本人の中に、中国への警戒感や嫌悪感が生まれるのは当然だ。それは、100年前に中国人が日本について感じたことでもある。
だが、安全保障の観点から見て、日本のパワーは問題にならない。1000発を超えるミサイルと400隻に及ぶ海軍を擁する中国と、核を持たず50隻の海上戦力しか持たない日本を比較しても意味はない。
事の本質は、米中覇権の行方だ。昭和の時代には、最強のアメリカについていればよかった。日本の課題は、アメリカと折り合いをつけることだった。ソ連は、アメリカが何とかしてくれる、日本が見捨てられることはないと思われた。だから日本は、アメリカに基地は貸しても、米ソの対立に直接巻き込まれないよう、慎重な防衛政策をとることができた。
平成の時代には、米中の競争関係が明らかとなったが、その決着の行方が分からなかった。令和となった今、中国がアメリカに比肩する日はそう遠くない。一方、その競争関係は、ソ連との対立と異なり、経済的相互依存の上に生じている。
その中国に日本が単独で対抗する余地はなく、アメリカに頼らざるを得ない。だが、アメリカは、日本を無視して折り合いをつけてしまうかもしれない。そこで、日本は、「見捨てられる恐怖」と「巻き込まれる恐怖」という同盟のジレンマに晒される中で、アメリカ製の武器を買い、安保法によってアメリカとの軍事的一体化に舵を切っている。「見捨てられる」恐怖から逃れるために「巻き込まれる」ことを選択したわけだ。
自分より強い相手に対して力で対抗する安全保障では、際限のない軍拡競争と、アメリカ追随以外の選択肢はない。アメリカとの折り合いをつける発想は失われ、まして中国との折り合いをつける余地は生まれようがない。
平成の時代には、勝利の展望がない対テロ戦争への協力のため、インド洋やイラクへの自衛隊派遣が延々続く中で、「同盟疲れ」と言われるアパシーが出てきた。令和の時代にも、やがて「抑止力疲れ」という状況が生まれてくるだろう。それはひとえに、問題解決の展望が描けない中でがむしゃらに軍拡と対米一体化を進めることから生まれる現象だ。人間にとって、そしておそらく国家にとっても、最も耐えがたいことは展望が描けないことだ。
安全保障とは、国民共有の国家像を実現するための展望を描くものだ。変わりゆく世界の中で日本は、「アメリカにつくか、中国の風下に甘んじるか、自前の核を持った大国として自立するか」という、乏しい三択を自ら設定した。そういう設問であれば、答えはアメリカしかなかった、というのが平成の時代だった。力が唯一の尺度であるとのマインド・セットから抜け出せなかったからだ。
核を持たず、アメリカとも中国とも折り合いをつける生き方
この三択をリセットし、核を持たず、アメリカとも中国とも折り合いをつける生き方を考え出したときに、令和は新たな日本の起点となるだろう。
そのヒントは、力の視点とともに、動機の視点を加えることにある。北朝鮮や中国が核とミサイルを持つのに対して、力で応じようとすれば核とミサイルを持たなければならない。自分で持てないなら、アメリカの核やミサイルに頼らざるを得ない。しかし、相手が何を持とうが、撃ってこなければ恐れる必要はない。
撃たせないために、撃ったらやり返す力が抑止力だ。相手も同じことを考える。そこで、無限の軍拡競争になる。一方、兵器を持っていても使う動機をなくせば、より確実に安全が保障される。脅威とは、攻撃能力と攻撃意志の掛け算だから、意志がゼロなら脅威はゼロだ。
つまり、富と名誉と恐怖という戦争要因をコントロールできれば、攻撃の動機をなくすことができる。日本に当てはめれば、固有の問題である領土や歴史認識に関わる係争を管理し、米中の覇権競争に関わらなければ、理屈の上では、戦争に巻き込まれる心配はない。
令和初の国政選挙となる参議院議員選挙が近づいている。「安倍一強政治を変える」という掛け声はあるが、安倍一強の後に何が来るのか。「日米同盟基軸」路線を継承するのであれば、安倍政権のように日米一体化に突き進むことが、理屈の上ではすっきりしている。
問題はそこではなく、日本が今後10年、20年にわたって際限ない軍拡と対米追随の道を歩むのかどうか、それが日本を安泰な平和に導く道なのか、ということだ。何党であろうと、そうした国のあり方の根本に関わる対抗軸をもった政治勢力が出てこなければ、「安倍以外の政治」への展望は見えない。
政治が国民以上に賢くなることはできないが、国民の知恵に訴えることはできる。力によらない政策を訴えれば、目先の選挙には勝てないだろう。だが、それが「安倍に替わるもの」を求める国民の知恵の琴線に触れたとき、はじめて世の中が変わる。
ムードに乗った小手先の批判でない、安全保障の前提となる国家像の構築から始めなければならない。政治を変えるのは社会を変えることであり、近道はないのだ。(見出しは編集部)