男女雇用機会均等法施行40年に制定時を振り返る

高市首相のジェンダーバックラッシュに負けられない

全労協女性委員会代表幹事、広範な国民連合・東京世話人 中原 純子

 男女雇用機会均等法(均等法)が1986年4月に施行されてから40年がたった。
 この間、85年に約1460万人だった女性の雇用者は、2024~25年平均で約3090万人となり、40年間で倍以上に増えた。賃金差別はもとより結婚退職制や男女で異なる定年制や昇給・昇格差別など理不尽な性差別の中で働く女性たちに、均等法は施行から三度に及ぶ法改正を重ねて貢献した。しかし、今も大きな賃金格差をはじめ労働における男女間の格差は深刻化している。
 1980年代は、女性の70%が正社員で、30%がパートなど非正規雇用で働いていた。ところが、40年後の現在ではこれが逆転し、正社員が40%、パートや派遣などの非正規雇用の働き方が60%に増えている。つまり、働く女性たちは激増したが、その多くは低賃金で不安定な非正規雇用の増加だ。雇用における男女差別の解消をめざしたはずの法律・均等法ができたのに、どうして格差拡大につながったのだろう。初の女性首相が誕生した日本で働く女性たちの生涯は厳しい状況に放置されたままだ。
 今年の3月22日、東京・府中市で第12回目となる「女性による女性のための相談会」が開催された。多摩地域で初の相談会には80人の相談者が訪れ、深刻な相談が寄せられた。とくに、非正規雇用で働く女性たちの低賃金は、そのまま低年金となって高齢女性の貧困につながる。全国の非正規雇用労働者2100万人の約70%が女性労働者である。均等法が果たした役割は大きいが、女性たちの働く現場・環境を見ると、積み残した性別役割分業や無償労働(ケア労働)の克服が求められている。
 施行当初から努力義務規定が多く実効性に乏しいと批判された均等法だが、改めて均等法成立の経過を振り返り、真の雇用平等法への展望を考えたい。

均等法が制定された背景

 国連が1979年に採択した「女性差別撤廃条約」は、あらゆる分野において、性に基づく差別を受けない権利と平等の権利が保障され、法律や規則のなかの差別はもちろん、社会慣習・慣行のなかでの性差別をなくすことを目指したものだ。
 日本は同条約を翌80年に署名し5年以内の批准をめざした。そのために、「父系優先血統主義」から父母のいずれかが日本国民であれば子どもが日本国籍を取得できる「父母両系血統主義」を採用した「国籍法改正」や、男子は技術科・女子は家庭科という性別による役割分担を教育現場から撤廃した「家庭科の男女共修」、そして、雇用における男女平等を確保する法律「均等法」制定などの国内法整備を行う必要に迫られた。
 そもそも均等法は、「女性差別撤廃条約」批准に向けた法整備をめざした婦人少年問題審議会において、雇用における男女平等を確保する「男女雇用平等法」として審議が始められた。しかし、労使の意見対立により審議は大いに紛糾した。
 女性労働運動の現場では「男女雇用平等法」制定運動として大きく盛り上がった。1970年代後半から80年代にかけて、連合結成前で労働四団体(総評・同盟・中立労連・新産別)に分かれていたが、労働組合の女性たちは、その枠を超えて連携し、男女平等を求める運動の大きな推進力となって全国で奮闘した。

均等法の成立過程「保護か平等か」

 資本側は一貫して利潤追求の視点で保護不用を主張した。日経連は生理休暇廃止を政府に要請、1970年に東京商工会議所は労基法を「過保護に過ぎる」と批判した。66年に女性の結婚退職制が争われ違法とされた住友セメント事件以降は、「平等を主張するなら保護を返上せよ」という主張が噴出した。
 「男は仕事、女は家事・育児で家庭を守る」という性別役割分担のジェンダーギャップにより、女性労働者を補助的労働力とみなす考えが根強く、資本側が雇用の場に男女平等を受け入れるには抵抗があった。
 対する労働側は、平等をめざしながらも男女の同一基盤という均等待遇を意味する「機会の平等」を主張して母性保護を過保護・逆差別と位置付ける保護不要派と、保護必要派に分かれた。保護必要派は、「母性保護の存続か男女平等のための母性保護廃止か」の二者択一ではなく、「保護も平等も」を実践的に対置し、「保護は実質的な男女平等を実現するための当然な前提条件」であると「結果の平等」を主張した。

婦人少年問題審議会が「建議」

 婦人少年問題審議会は異例にも1984年3月、公益側、労働側、使用者側の意見対立を残した三論併記の「建議」を提出した。労働省が作成する法案に注目が集まった。
 なんと、誰も予想しない「勤労婦人福祉法の改正」の形式を採るものであった。労働省は、激しい階級的労使対立を背景にした法案採択のために国会対策上「勤労婦人福祉法の改正」の形式を採らざるを得ず、「男女雇用機会均等法」という名称の法案が諮問された。均等法は当初から大きな限界を内包していた。
 女性労働者たちが求めた男女の異なる取り扱いを禁止する「男女雇用平等法」とは程遠い法案内容に、女性たちは当然にも反対の声を上げた。
 東京では均等法に反対する女性労働者たちが労働省前で座り込み、日比谷公園でハンストを決行しデモを行った。また、大阪では、大阪総評婦人協を中心に均等法案を「機会の平等の落とし穴」と批判し、「男女共に人間らしい労働と生活を」という男性の長時間労働是正も視野に入れたスローガンを掲げ、未組織労働者との連携を追求する独自の運動を通して、均等法が取りこぼした「平等」を問い直した。
 83年に労働省婦人局長に就任した赤松良子さんは均等法の立案作りを担当し、企業側と労働者側の根回しや調整などに奔走、85年の均等法成立に中心的な役割を果たした。赤松さんは84年に均等法案の内容を当時の中曽根首相に伝えた際に、「資本家の走狗と言われるのを覚悟してやりなさい」と言われショックを受けたと、後に著書『均等法をつくる』で語っている。

それは「労働の規制緩和」の始まりでもあった

 しかし、労働側から検証すれば、正に86年4月、均等法制定と同時に資本側からの反撃として「労働者派遣法」と「配偶者控除・第三号被保険者制度」が、性差別・性別役割を維持する装置として施行された。また87年に労基法が改正され、法定労働時間が週40時間制に変更されたが同時に労働時間規制が緩和され、事業場外労働と裁量労働制が導入された。
 これらの「労働の規制緩和」は、過労死が起こる長時間労働や非正規雇用労働者の激増など、現在に至る搾取拡大強化の始まりであった。このように均等法が施行された86年は、労働組合運動が大きく問われた場面であったが、折しも労働戦線再編前夜でもあり男性主体の労働運動では対応できなかったと指摘せざるを得ない。このような歴史的経緯を背景に現在も労働現場における男女差別が現存することを忘れてはならない。
 これを書いている今日4月19日は国会正門前大行動が行われている。戦争に反対し高市政権の憲法改悪と労働法改悪に反対する声は全国に広がりつつある。とくに若い女性労働者の声は均等法反対当時を彷彿させる。高市首相のジェンダーバックラッシュに負けられない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする