日本敗戦・朝鮮解放から80年

関東大震災朝鮮人虐殺の民衆責任と国・東京都の責任を明確に

東京朝鮮人強制連行真相調査団代表 西澤 清

 1923年9月1日の関東大震災時の「在日朝鮮人大虐殺」は、日本人民衆が同じ町や村に住む在日朝鮮人を6000人も虐殺した国際犯罪であり歴史上特筆される事件である。
 そして、敗戦・植民地解放から80年過ぎた今でも、国は責任を認めず、虐殺を行った民衆責任も十分に糾弾されていない。日本の街ではヘイトスピーチをまき散らしながらデモをする集団があり、「日本人ファースト」をスローガンにした政党が国政選挙で多数の票を獲得する体たらくである。

横浜から
「それ」は始まった

 朝鮮人虐殺・デマの出発点は、横浜における「日本人民衆による糧米の略奪」「山口正憲一派による集団的略奪」「刑務所の開放」である。
 これらは、1日夜には東京にデマとなって伝播した。「朝鮮人が集団で横浜から井戸に毒を入れながら攻めてくる」である。

「虐殺のトラウマを抱えた政治家トリオ」の暴走を認めた国、自らの罪を問わなかった国民・民衆

 関東大震災当日の9月1日に政府の山本権兵衛内閣は組閣中であり、発足したのは2日夜であった。しかし、政府は、1日夜半に臨時首相(内田康成)の閣議で非正式に「緊急勅令」(非常徴発令、臨時震災救護事務局官制、戒厳に関する勅令)を決定した。
 3日、発足した山本内閣の手によって出された最初の勅令は、「2日施行の勅令を有効に機能させること」を目的とした関東戒厳司令部条例(通常の勅令)であった。そして、戒厳令適用地区を拡大し、神奈川県以外の区域に天皇直属の関東戒厳司令部(統帥に関わる機関)がおかれ、福田雅太郎陸軍大将が任命された。
 3日には、正式の戒厳令が決定できるのに、略式で戒厳令を決定したのは、朝鮮半島での虐殺を積極的に行った「虐殺トラウマトリオ・水野錬太郎内務大臣(2日退任)、赤池濃警視総監(5日解任)、後藤文夫内務省警保局長(10月12日解任)」であった。彼らはエリートパニックに陥り暴走したのだ。
 神奈川・東京のデマ、朝鮮人虐殺のピークは1日から2日にかけてであり、東京の火災は3日午前10時には完全鎮火した。
 2日の夕方には、「朝鮮人の暴動」は虚報であるという話が伝わりだしていた。9月3日に警視庁が、また、横浜市役所・鎮守府・衛戍司令部も「朝鮮人ニ関スル噂ハ概ネ虚報ナリ。(中略)妄ニ虐待スルナ」としていた。
 にもかかわらず、9月3日午前8時15分、 海軍省船橋送信所から呉鎮守府副官宛てに内務省警保局長(後藤文夫)発の打電が行われた。内容は「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各所に放火し、不逞の目的を遂行せんとして、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火する者もあり、既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対して厳密なる取締を加へられたし」であった。この打電が、デマを事実化し朝鮮人虐殺に輪をかけたのである。
 取り消しもできるのに「船橋への内務省からの伝達は、騎馬あるいは徒歩だったからできなかった」としている。そして虐殺は地域を広げて続いた。
 しかし、通信網の復活は、天皇が滞在している日光御用邸との間に電話回線が2日午後11時には復旧し始め、3日早朝には各地への電信線が開通。有線電信・電話は、震災直後は軍用のものを在京の主要官庁間に仮設していた。4日夕方に電力の供給があり、本格的な通信が可能になった。
 しかし、政府は9月5日に臨時審査委事務局に各方面の官吏を集め、「朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、肯定に務ること」「風説を徹底的に取調べ、これを事実として出来る限り肯定することに務ること」を決定した。
 当時、ソビエトの建設とそれを妨害する日本のシベリア出兵、そしてパリ講和会談(日本の南洋諸島委任統治《植民地化》決定)が行われていた。日本政府は、「虐殺トリオの暴走を許した(放置した)国家責任」を隠すために、デマを事実に転化させようとしたのだ。また、虐殺は社会運動家にも転化され、亀戸事件や大杉栄虐殺などを「資本主義体制維持のために日本政府は正当なことをした」という「国際的言い訳」をでっちあげた。

問われなければならない民衆責任

 本来なら、関東大震災朝鮮人虐殺問題は、植民地支配の反省と共に「戦後精算課題」として第一に取り上げられねばならなかった。しかし、朝鮮解放が「勝利なき解放」であったがゆえか追及・糾弾がなされなかった。
 「敗戦・解放」後最初に出された朝鮮人虐殺についての見解は日本共産党宣伝部パンフ「朝鮮の兄弟諸君へ」(1946年3月)であった。そこには、「虐殺事件は日本人民の手によって自発的に行われたものではなくて、正に日本軍国主義の軍閥の機関である憲兵隊司令部が出鱈目なことを捏造して、それを民間に流布させて、それを以って無知な、善良な自警団を、諸君等の尊い兄弟の虐殺に利用したのである」(鄭永寿論文から引用)とある。また、戦後最初の「関東大震災朝鮮人虐殺糾明集会」に、日本人の参加は少なかったという。こうして日本人民衆は免責されてしまった。
 また、歴史学の立場から、敗戦後最初に出された研究論文は、58年の「関東大震災と朝鮮人さわぎ」(斉藤秀夫)であり、姜徳相が「関東大震災朝鮮人虐殺」を出版したのは75年であった。彼は、当初「社会主義者は殺す側にいた」として、かなりページを割いて事実を挙げていた。そして、「国民は明らかに殺す側にいた」としていた。しかし、「90年」(2015年)の「一国史を超えて」(大原研究所)では「殺す側にいた」を「殺されない側にいた」と訂正している。「殺されない側」という言い回しは日本語にはない。朝鮮語にもないという。「日本人を殺す側」とし、日本人の虐殺犯罪を問うた姜徳相にかけられた圧力の凄さを、私は感じる。
 民衆責任は、長い間追及されないできた。しかし、民衆も、明治政府成立以降あらゆる場で民衆に刷り込まれた「朝鮮差別」を深層に抱えている。災害後「地域を守る」として結成された「災害ユートピア・自警団」は、それ故に積極的にエリートパニックに組み込まれ虐殺を行った。そして、福沢諭吉、伊藤博文など民族差別・植民地化推進人物を、紙幣に組み込まれても問題にしない民衆になっていた。
 2003年、80年を機に「関東大震災時の朝鮮人虐殺 その国家責任と民衆責任」(山田昭次)が出版された。「民衆責任が明らかにならないで、なんで国家責任を追及できようか」と山田昭次は言う。
 朝鮮人虐殺は「国際問題」である。現在の、ヘイトクライムの激しさ、真相を究明する人たちにかけられている「暴力を伴った団体」の圧力や政治的動向、東京都小池知事の現在の態度から「民衆責任」問うことの困難さはわかる。しかし、それを乗り越えることが私たちの課題である。

 (筆者は、広範な国民連合代表世話人、 日教組元副委員長)