敗戦80年 相模ダムにおける強制連行の歴史

相模ダムにおける強制連行の歴史

相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会事務局
相模湖・ダムの歴史を記録する会 代表 橋本 登志子

 相模ダムは1938年に神奈川県議会で可決し、47年に完成しました。背景には、戦時下における軍需産業の拡大に伴う電力不足があり、安価な電力供給で軍需産業を誘致し財政再建や、工業用水の確保がダム建設の目的でした。
 先祖代々の土地が湖底に沈むことを知った集落の住民らは、土地を残せるよう求める反対運動を展開しました。しかし、「時局柄重大性ある」事業という理由から山梨県側を含めた136戸の家々が湖底に沈みました。立ち退きを余儀なくされた人々は県内の海老名市、東京の日野村や八王子などに分散移住しなければなりませんでした。

朝鮮人の強制連行

 相模ダム建設で熊谷組は、東北や北陸地域を中心に労働者を集めましたが深刻な労働者不足になり、朝鮮人労働者が多く働くことになりました。この中には、以前から日本に移住していた朝鮮人も含まれますが、植民地であった朝鮮半島から連行された朝鮮人がいました。
 その数は不明ですが、42年6月末、熊谷組の作業所には約800人の強制連行された朝鮮人労働者がいました。
 彼らは「〇募」(マルボウ、〇の中に募の字)と呼ばれ、高い塀に囲まれた宿舎(現在は交流センターとなっている)で、監視の下で生活していました。主に単純作業ですが人力による砂利採取やトロッコによる運搬作業を強いられました。また、「〇募」以外の朝鮮人たちは日本人が忌避する危険な作業、「ダイナマイト点火」や「縦坑掘削」などの作業をしていました。

「死ぬまで話さない」との証言も

 「〇募」は常時300~350人が就労させられていました。しかし、厳しい状況下でも「〇募」の逃亡者は多発し、捕まった朝鮮人たちは折檻されたあげく死に至りました。熊谷組の下請けをしていた小俣班で働いていた人の奥さんは、その光景を目にした時の「アイゴー、アイゴー」と叫び、ゆがんだ顔は今でも忘れられない、と証言しています。
 そして小俣班の小俣夫人の証言では「大きな魚でしょう。なかなか焼けなくて、仕方なく埋めてしまって……。その場所に今は家が立っていて。私は死ぬまで話さない」と語りました。その他にも似たような証言もあり、「〇募」の朝鮮人犠牲者数は本当のところ、数多くあるように思われます。病死、事故死だけでなく、このように朝鮮人犠牲者は闇に葬られてしまいました。
 現在、朝鮮人殉難者は推定で17人程度です。河水統制事業進捗概要(神奈川県公文書)には昭和18年(43年)11月27日で内地人(日本人)4割、半島人6割の就労と記されています。

中国人の強制連行

 相模ダムに連行された中国人は八路軍、国民党軍の捕虜で289人。宿舎は現在、相模湖公園の一部になっています。
 日本人との交流を遮断するように特高警察が常駐し、日本人監督の下に国民党軍が隊長で八路軍が副隊長に任命されていて、さらにその下に20人の捕虜がいて、捕虜ごとに班長がいる形で組織され、隊長から班長に命令する形で組織され、捕虜の間を分断して対立させていました。ちなみに、捕虜の3分の1が国民党、3分の2が八路軍でした。
 作業内容は「〇募」の朝鮮人と同じで砂利採取、トロッコ運搬でした。中国人と朝鮮人の作業現場は離して分けていました。そして「〇募」の朝鮮人と同じように脱走する捕虜もいましたが、捕まって死に至るようなことはありませんでした。脱走して捕まると北海道の地先組の作業所とかに送られて、与瀬作業所には戻れませんでした。
 あまりにも逃亡、脱走があり、誰か手引きする日本人がいるのではないかと特高警察に疑われた日本人監督の芹沢さんはスパイ容疑で逮捕され、8カ月も横浜の寿警察署に勾留されました。
 芹沢氏は地元(与瀬)住民であったため住民が嘆願書に名を連ねて、ようやく解放されました。警察での取り調べで拷問を受けての傷跡は30年を過ぎても残っています。
 中国人捕虜の場合は病死、事故死でも遺体は荼毘にして遺骨は帰国の時に捕虜仲間が遺族に届けたといいます。そこのところは「〇募」朝鮮人の取り扱いとは隔たりがありました。
 中国人捕虜たちは15カ月(44年4月~45年7月)の間に29人が犠牲になっているのに対して、朝鮮人の死亡推定は17人であるということは、納得がいきません。

追悼碑の建立

 相模ダム建設に関連する碑は、1947年に神奈川県知事名で建てられた木柱の「建設工事殉職者慰霊塔」(腐朽により62年に石製に再建)と、79年7月に「記録する会」の「史実に沿った碑の建立」という要請で建立された県企業庁名の湖銘碑があります。
 それぞれに問題がありました。
 知事名で建てられた慰霊塔には中国人、学徒勤労動員の名前が刻まれていません。また、建設により命を落とした一人ひとりの名前や、ダム建設により沈んだ集落のこと、植民地の歴史に関する記述、それが国策で遂行された歴史が抜けていました。
 これに対して追悼会実行委員会が不十分な点を指摘し、史実の追加とすべての犠牲者の刻銘を求める運動を始めました。
 新・湖銘碑建立の転機となったのは、80年末の神奈川県主体の相模湖公園再整備事業でした。追悼会実行委員会は88年10月に神奈川県企業庁と県の津久井土木事務所宛てに「会と十分な協議を求める等の申し入れ」を送付、いずれからも了解との回答を得ました。ところが公園再整備が進んだ90年2月、湖銘碑が撤去されたことに気づいて、すぐに県企業庁と県津久井土木事務所に問い合わせ、「申し入れに反している」と抗議したところ、両方から謝罪の表明がありました。
 この行政の欠点を突くかたちで県企業庁の管理局長と面談を行い、その場で新しい湖銘碑建立を要請。県企業庁からも前向きな回答を得ました。
 90年以降、追悼会実行委員会のメンバーは県企業庁と数回、新しい湖銘碑の本格設置について協議を重ねましたが、担当者が人事異動となって連絡が途絶えてしまいました。そのためメンバーは県企業庁ではなく長洲県知事との直接面会へと方針を転換しました。追悼会実行委員長が91年4月に県庁を訪れ、知事の秘書に質問書を渡しました。
 そこでは新たに設置する湖銘碑は、①県知事名での建立、②すべての殉職者・殉難者の名前を刻み、③将来新たな犠牲者が判明した場合は刻銘可能なスペースを確保、④強制連行・強制労働の史実の記載などを求めました。
 知事への質問書を渡してから3カ月後ようやく面会が実現し、会の要望に沿った新しい湖銘碑の建立が決まりました。長洲知事は「まったく同感です」と述べ、「企業庁では判断が難しい問題が含まれるため、知事部局の渉外部が担当することにしましょう」と言われました。しかし、碑文に「強制連行・強制労働」の8文字は入りませんでした。
 妥協の産物ではありましたが湖銘碑には「捕虜として連れて来られた中国人、当時植民地であった朝鮮半島から国の方策によって連れて来られた方々のご苦労、殉職、病没等の尊い犠牲があったことを忘れることはできません」と入れることができました。
 (紙面がないので追悼会、記銘する会の結成、小中学校、大学への語り部活動はまたの機会に)