長生炭鉱の坑口を市民の力で開けた
次は死者に会いに行く
長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会 共同代表 井上 洋子
事故は石炭供出を優先
した「人災」だ
1942年2月3日早朝、山口県宇部市にあった長生炭鉱の天井はついに水圧に耐え切れず崩れた。戦時下の石炭増産が国からの至上命令だったなか、海底炭鉱の大規模な水漏れを補修しながら、石炭採掘を強行したためだ。奥の浅く危険な採炭場には、朝鮮半島から連れて来られた朝鮮人坑夫たちが配置され、彼らは流れ込む海水に瞬く間にのまれた。犠牲者183人のうち7割に及ぶ136人が朝鮮人だった。
長生炭鉱は鉱山法で禁止されていた海底下より10mも浅い坑道で操業。その上、さらに上へ上へと掘り進めていたため、天井からの水漏れは日常化していた。この日は1000函供出の「大出しの日」であり、安全を度外視して採炭を強行した結果、水没事故は起きたのだ。戦後、法律違反であったことを会社責任者が明言しているが、そのような会社の存在を黙認した国の責任は重い。
長生炭鉱は「強制連行・強制労働」の象徴
宇部炭田には当時60近い炭鉱があり、「危ない炭鉱」と評判の長生炭鉱へは地元の者は寄り付かず、会社は安い労働力の朝鮮人に目をつけ、39年10月の第1回「募集」から42年の事故までに1258人を連行し、3・6mの高い塀に囲まれた「合宿所」に強制的に収容した。39年版の「特高月報」には、その第1回目から逃亡者が41人もいたことが明記されており、その後も命懸けの逃亡は相次ぎ、逃亡者を一人捕まえれば、会社は米1俵を渡したとも言われている。暴力支配による監禁生活は公的資料や証言からも明らかだ。この事故の朝も入坑を嫌がる坑夫たちは棒で脅されて中に入り、そして二度と戻ることはできなかったのだ。
「刻む会」は『遺骨』と正面から向き合って
こなかった
事故から50年後の1991年に「刻む会」は結成された。歴史の闇に葬られていた長生炭鉱の悲劇を明らかにし、①日本人としての反省と謝罪、犠牲者全員の名前を刻んだ碑を建立、②ピーヤ(排気・排水筒)の保存、③証言・資料の収集の目標を掲げ活動を開始した。
92年「韓国遺族会」が結成され、翌年からは「韓国遺族会」を招聘して毎年現地で追悼集会を開催しながら、交流を重ねてきた。2013年には、市民の力で1600万円の募金を集め、22年越しに追悼碑は建立されたが、その直後、「刻む会はこれで運動をやめようとしてないか、自分たちは遺骨を故郷に持って帰るまで闘う」と遺族会から突きつけられ、これまでの日本人の自己満足的な運動から私たちは決別を迫られた。
その翌年の14年、「刻む会」は「遺骨収集・返還」を新たに自らの目標に掲げて生まれ変わった。
日本政府は、「調査は海底のため困難」と回答
23年12月の日本政府との交渉では、政府は「海底のため遺骨の位置や深度がわからないので発掘は困難だと理解してほしい」と、発掘が可能かどうかの調査すらしようとしなかった。
直系のご遺族である息子さんたちは高齢化されて時間が残されておらず、政府の対応を待っていては、ご遺骨との対面は不可能に近いと判断せざるを得ない状況だった。そこで私たちは、24年2月3日の82周年追悼式で、埋められた坑口を市民の力で開けてご遺骨の存在を明らかにする決断を宣言した。
ついに市民の力で坑口を開けた
2015年に電気探査を依頼して空洞を探し当てた結果、坑口は地面から4m下に埋められていることがわかっていた。発掘にあたり、坑口付近の土地は誰の所有かということが大きな壁だった。私たちの調査では、もともと地元団体の土地だったが、戦後のポツダム政令により宇部市が保存登記すべき性質の土地だったと判明。しかし、未登記のまま現在に至っており、結果、所有者不明の土地を私たちは発掘することとなった。
次に壁になったことは、公共事業とは違い、リスクも社会性もある工事を引き受けてくれる会社があるかということだったが、テレビ報道で長生炭鉱を知っていたある社長が快諾してくれた。
24年7月15日からは工事や潜水調査のための募金活動を始め、3カ月で募金額は1200万円を超えた。9月26日には、82年間埋められていた坑口を探し当て、開けることができた。その坑口は、私たちの予想を裏切り、縦1・6m、横2・2mのあまりにも小さな坑口で、生命を懸けて入っていく坑夫たちの恐怖はいかばかりだったか胸に迫るものがある。
続く10月26日には、生きて二度と戻って来ることができなかったその無念の坑口の前で、日韓のご遺族の皆さまが、まだ会えぬ肉親に向かって祈りをささげることもできた。
1月末から遺骨の潜水
調査が本格的に始まる
洞窟探検家の伊左治佳孝さんは「悲しい遺骨を悲しいままにしておけない。僕が力になれれば」と、潜水調査を自ら申し出てくれた。リブリーザーという酸素循環型の装置で長時間の潜水をめざすため、メキシコでの訓練も重ねて、1月31日から3日間かけての遺骨発見と収集に備えてくれている。2月1日開催の83周年追悼式は、ご遺族が潜水調査を見守り、ご遺骨と対面できる歴史的瞬間に遭遇するという期待も出てきた。
政府レベルで「遺骨収集」を
私たちが遺骨の存在位置を明らかにしたとき、日本政府は、必ず遺骨収集の決断を余儀なくされるだろう。今年は日韓正常化60周年を迎える。日本の中に捨て置かれているこのご遺骨を放置したままの「未来志向」はない。日韓の共同事業として「長生炭鉱の遺骨収集・返還」が宣言されれば、日韓(朝)の「未来志向」はより確かなものになる。長生炭鉱の犠牲者のご遺骨が発掘されご遺族の胸に抱かれて故郷に帰る過程は、日本が過去に犯してきた過ちを明らかにし、歴史に刻んでいくことと重なる。
183人の無念の死の尊厳の回復を、両政府と両市民が手を携え連帯して成し遂げよう。