角田義一代表世話人の死を悼む 川口 正昭

角田義一さんをしのぶ

群馬県教職員組合 川口 正昭

 上州が生んだ希代の政治家、角田義一さんが2月23日、静かに生涯を閉じました。
 角田義一さんは、平和と人権そして憲法を守ることを信条として、弁護士としても奮闘してこられた人でした。角田義一さんの法律事務所と同じ群馬県教育会館に私の職場があり、時折、事務所に呼ばれて、政情について話を伺ったり、励ましをいただいたりしながら、さまざまな闘いで角田さんの背中を見てきた私には、笑いと涙、言い尽くせないほど多くの思い出があります。


 私たち群馬県教職員組合と角田義一さんとの関わりは次のようにして生まれました。角田さんが司法試験に合格し、故郷に帰って弁護士になった時、群馬県内は教員の勤務評定の強硬導入をめぐって教育界が混乱していました。1958年、文部省の強い圧力を受けた県教委が、県教組本部や各支部との交渉を打ち切り、校長会など教育関係者の反対にもかかわらず勤務評定の導入を決めてしまったのです。さらに、導入に反対し年次休暇を一斉にとる休暇闘争を指令した組合幹部に処分を出しました。群馬県教組はこれを不服として裁判で処分の撤回を求めました(勤評裁判)。この時の弁護士が角田儀平治さんと若き角田義一さんだったのです。角田父子の奮闘によって、県教組はこの裁判に勝利することができました。
 群馬県教組はそれ以来、角田義一さんとは切っても切れない間柄になり、角田さんの勝った選挙も負けた選挙もすべて関わることになりました。私が教員になりたての86年の参議院選挙では、角田さんがいけそうだという手応えで投開票日を迎え、30万票を取ったのに敗れるという悔しい思いをしました。でもこれで挫けないのが角田義一さんです。3年後の89年7月の第15回参議院選挙で当選を果たし、土井たか子さんが「山が動いた」と言ったことを思い出します。角田さんの参議院選挙は、県教組にとって通知表の時期と重なるタイミングでしたが、よくやったもんだと振り返っています。
 参議院議員となった角田さんは、白い髪を振り乱しながら政府を追及する姿から「ホワイトタイガー」と呼ばれていました。激しい質問の後には議員事務所に抗議の電話がかかってきたそうですが、当時の秘書の方々は「そうでなくっちゃ」と笑っていました。事務所のスタッフも一緒になって角田さんと闘っていたのです。そんな闘士の角田さんでしたが、参議院副議長に選ばれた時の投票では満票でした。厳しい言葉で問題を追及する一方で、与野党双方から信頼されていたのでした。
 また、2004年、群馬県から民主党の富岡由紀夫参議院議員が誕生し、本会議での初質問の時、議長だった扇千景さんが議長席を角田さんに譲って、二人が一緒に写真に納まる場面を演出してくれました。議場からは、「ヨッ、上州コンビ」との声が飛んだそうです。角田さんはこの時の写真をいたく気に入って、長い間、事務所に置いていました。
 角田さんからは平和について何度も話を聞きましたが、よく周恩来の話をしていました。周恩来は日本が中国を侵略したことについて、日本国民も被害者で一部の軍国主義者が国民を戦争に駆り立てたと述べ、日本の国民が悪いのではないと中国の民を説いたという話です。そして、日本は、どんなことをしても外国と戦うようなことはしてはいけないと、繰り返してきました。戦争はどんな理由があっても恨みを残すだけだとも言っていました。
 議員を引退した角田さんは、教育会館2階の法律事務所で弁護士としての仕事をする傍ら、立憲民主党の県連顧問としても活動を続け、選挙になると血が騒ぐのかあちこちで選対責任者あるいは応援弁士として弁舌を振るいました。どの選挙でも、政治を正すため熱っぽく語る姿から、「角田さんは選挙になると元気になるねぇ」と言われました。
 その最後の選挙となったのが、2月3日投開票の前橋市長選挙でした。当選した小川あきらさんは、新人の時から角田さんが選挙責任者を務めたかわいい後輩です。角田さんは、昨年11月ごろから体調がすぐれず、いつもなら集会や街頭での演説に獅子奮迅の活躍を見せるのですが、それができずにとても気がかりだったでしょう。角田さんに呼ばれ、小川さんのことを頼まれ、最後に「遺言だから」と言われました。私は「角田さんから聞きたい遺言はもっともっとあるから……」と答え事務所を出たのですが、今となっては、この時、すでにもう長くないことを悟っていたのかもしれないと思っています。小川さん当選の報は、病床で、妻の恵美子さんから聞き、涙を流して喜んだそうです。2月28日、小川あきらさんが初登庁の際、掲げられた角田さんの遺影に向かい、「本当はこの場でスタートを見守ってほしかった。恩返しできるよう立派な前橋をつくりたい」と述べました。
 群馬の森の朝鮮人追悼碑のことも書いておきます。碑の設置許可更新を認めない県に対する裁判で、自ら弁護団長として県の対応の矛盾を突き、追悼碑を守る会のメンバーや若い弁護士を鼓舞し続けてきました。21年8月、東京高裁の判決が出ると、「こんな非常識な判決があっていいのか!」と強く批判し、「日本は非常識なことを平気でやる国だと批判される。私はずっと闘う。徹底的に闘おう!」と檄を飛ばし、その後、県に提案を行ったり知事と直接の話し合いを求めたりと碑を守るために奮闘してきました。
 昨年10月11日、「守る会」が前橋地裁に再び裁判を起こした時の記者会見では、「もし代執行するのなら、碑の前に座り込む」と言いましたが、それはかないませんでした。
 1月29日から始まった代執行による碑の撤去の知らせを耳にして、「酷いことをするもんだなぁ。こんなことすると恨みしか残らない」と言われたそうです。私は「追悼碑を守る会」の一人として、碑の撤去を許してしまったこともですが、角田さんにこのような思いをさせてしまったことは悔しくてなりません。告別式で角田さんの元気なころの写真を見ていたら、きっと向こうでも闘ってくれると思わずにはいられませんでした。
 角田さんは、地元の赤城山というお酒が好きでよく飲んでいました。弔問に伺った時も枕元に一本置いてあり安心しました。
 私の名前には正の字が入っていますが、正しく生きるのは結構難しいものだと思ってきました。「上州は義理と人情の国だ」とよく言っていた角田義一さんは、まさに最期まで義に生きた人でした。私は、角田さんの社会課題に向き合う姿を見せてもらい、また、その思いをたくさん聞かせてもらいました。これからもどこかから角田さんが見ていると思い、自分に恥じない生き方をしていかなくてはと思います。
 角田義一さん、ありがとうございました。ゆっくりとお休みください。