朝鮮植民地支配の罪悪 西澤 清

民衆の立場で掘り下げよう 朝鮮植民地支配の罪悪

東京朝鮮人強制連行真相調査団代表 西澤 清

江戸時代の友好的朝鮮外交

 日本の朝鮮侵略の野望は、豊臣秀吉の「壬申の侵略」(1592年)、「慶長の侵略」(1597年)までさかのぼる。侵略の目的は朝鮮の植民地化と明の征服であり、朝鮮本土の住民虐殺、西国大名による良質な労働力収奪=陶工・奴婢の拉致などは、現在と同じ構造である。
 徳川幕府は、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく日本側から打診し、対馬藩を窓口として交易は開かれ、全行程に約1年を要した朝鮮通信使が12回も来ている。江戸時代に友好関係は維持されていたのだ。

侵略・植民地への野望

 徳川幕府が倒されると明治政府の中に「征韓論」が持ち上がる。しかし、明治政府は、1875年江華島事件、76年に日朝修好不平等条規と着々と朝鮮侵略を進めていく。
 当時、朝鮮王朝は清国およびロシアとも交流関係があった。その中で日本は、「暴力的」に植民地化を進めていったのだ。朝鮮内地から「米麦」を収奪し日本内地に運び、朝鮮民衆の抵抗も呼び、94年に甲午農民戦争が起こった。
 95年の朝鮮王朝皇后に暗殺隊を放ち、宮殿(景福宮)で暗殺した閔妃暗殺事件は、日本の恥ずべき行為だ。しかも、別の朝鮮人を犯人にでっちあげ暗殺隊を無罪とし、その後要職に就けている。
 閔妃暗殺に使われた肥前刀は福岡市の櫛田神社に奉納されおり、韓国の運動団体の再三の要求にかかわらず廃棄されていない。1909年に伊藤博文を暗殺した安重根は、旅順の獄中で伊藤博文の15条の罪状の第1に閔妃暗殺を挙げている。
 05年に伊藤博文は初代韓国統監に就任する。強権的な圧力で「乙巳5条約」で外交権などを奪い、07年の「丁未7条約」で日本人次官が内政全般を掌握し朝鮮植民地支配を完了させた。しかし、これらの条約は、強制して結んだもので、朝鮮国内手続きも不備で国際的には「無効」とされている。
 1895年に「断髪令」が出され初期義兵(乙未義兵)が起こり、1905年には後期義兵が起こるがいずれも日本軍に鎮圧される。石川啄木は、「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつゝ 秋風を聴く」と詠んだ。これからの不幸な時代を思ってだ。
 この後、日本の植民地支配は1945年まで続く。
 抑圧の内容は、住民虐殺、創氏改名、教育勅語の押し付け、日本語教育の強要、文化財の略奪、官幣台湾神社建立、伊勢神宮を頂点とする神社組織と朝鮮神宮建立など朝鮮人のアイデンティティーを否定するものだ。

不問の植民地支配の罪悪

 23年、関東大震災朝鮮人虐殺は、本土で起こった最悪の虐殺事件であった。軍隊・警察だけでなく昨日までお隣に住んでいた日本人が同じ住民の在日朝鮮人を虐殺したのである。世界史に残る稀にみる事件であった。
 当時はこうした「虐殺」を表現する言葉はなかった。44年に「ジェノサイド」という言葉が生まれた。現在では、「エスノサイド(文化的集団抹殺)」という言葉も使われる。日本の朝鮮植民地支配にふさわしい表現だ。
 日本による朝鮮の植民地支配は、正式には45年9月9日に朝鮮総督府がアメリカ軍への「降伏文書」に署名した時に終わる。朝鮮では、独立への闘いが続いていたが、国際法上は「日本とともに敗戦国」扱いになって、日本の植民地時代の罪悪が国際的に問われなかった。

加担した日本人民衆の
責任追及も不十分

 また、敗戦後に「植民地時代の日本人民衆の責任の追及」が不十分であった。敗戦後、最も早く関東大震災朝鮮人虐殺について触れたものは、日本共産党の「朝鮮の兄弟諸君へ」(46年3月、宣伝部パンフ)だった。だが、そこには「(関東大震災の)虐殺事件は日本人民の手によって自発的に行われたものではなくて、正に日本軍国主義の軍閥の機関である憲兵隊司令部が出鱈目なことを捏造して、それを民間に流布させて、それを以って無知な、善良な自警団を、諸君等の尊い兄弟の虐殺に利用したのである」として、虐殺に深く、主体的にかかわった自警団を「無知な善良な自警団」と免責してしまった。
 また敗戦後、46年9月1日に初めての日朝提携追悼会が行われた。そこでは日本人民衆・自警団について「大震災のドサクサのデマに踊った惨虐行為」を反省点として挙げた。軍閥については「虐殺」、民衆は「惨虐」と使い分けている。この集会には日本人は殆ど参加しなかった。
 これは、「敗戦を迎えても朝鮮に対する日本国家の植民地支配と日本人民衆のそれへの加担への(についての)日本人民衆の反省がなされなかった思想状況」(山田昭次)であった。そして、いままでも「日本人民衆=自警団」の犯罪は隠蔽され続け、追及は十分でない。
 しかし、今年の私たちの9・1追悼会へは2年前から後援として名を連ねていた平和フォーラムが実行委員会を組織し、年始めから学習会などを行い「日本政府の植民地主義を追及する」立場で参加した。追悼会が厚さと幅を広げる中で、朝鮮総聯と私たちは初めて東京都知事に「参加・追悼文」を要請した。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする