女性の候補者も当選者も過去最高! これからが重要
周回遅れの議会から多様性に寛容な議会へ
元熊本県議会議員 平野 みどり
4月9日深夜、熊本市東区の岩田智子選挙事務所は、上位当選により熊本県議4期目の議席を確定した岩田智子さんと支援者が喜びを分かち合う歓喜の声であふれた(熊本1区は定数12で4位)。
今回の熊本県議会議員選挙では、立候補していた熊本1区の女性候補は全員当選(3人)し、八代市、菊陽町でも女性が当選し、県議5人となり、女性占有率全国最下位の汚名は払拭されることとなった。県政史において、私が在籍していた期間、瞬間的に4年間だけ3人の女性が県議であったが、女性県議は1人もしくは0人の期間がほぼ恒常的に続いていた。
1997年12月、熊本県議会議員の死去に伴い、熊本市選挙区で補選が行われることとなった。それに先立ち、一議員が国政に転じており2議席が空白となったための補選だった。そこに現職議員が病気のため引退したため、結局、3議席を争う選挙となった。
政治とは無縁の人生を送ってきた私が、何故、この県議補選に立候補することになったか、その後どのような展開となったか、まずは私の来し方を含め振り返ってみたい。
ある日突然
私は、1958年に熊本市で生まれ、その後5歳まで父の仕事の関係で山口県下関市で育った。60年代にはまだ珍しかった交通事故により父が亡くなったため、母と弟と私は熊本市の母の実家に戻ることとなり、大学時代の4年間は熊本を離れたが、還暦を越す今まで、ほぼ熊本で生活してきた。
そんな私は88年、30歳の時に見つかった脊髄腫瘍の手術後、両下肢麻痺となり車椅子ユーザーとなった。大学を卒業後、地元の企業に就職し、その後英会話学校の講師をしていた時であった。とにかく、人生の決定的転換を迎え、生活が一変する事態となり、心身の回復とともに、障害をもった自分のレゾンデートルを確認するプロセスに向き合うこととなった。
とはいえ現実的には、車椅子で生活する上でのリハビリ、障害者手帳や障害者年金の手続き、自宅のバリアフリー化、車の免許取得など入院生活と並行してさまざまな課題への対応を迫られる日々で、正直自分の身を嘆いてばかりではいられなかった。
アメリカでの学び
そんななか、車椅子での生活が少し安定してきた89年秋、新聞紙上でミスタードーナッツ障害者海外派遣研修の募集を知ることとなった。リハビリで入院中、医療ソーシャルワーカーからこの研修について挑戦を勧められていたが、家族と離れての海外研修は、まだ無理かとも思っていた。だが、車椅子生活となるという人生の大転換を経験したためか、英語でのコミュニケーションは可能ということもあり、何にでも挑戦したいという気持ちの方が勝った。
幸いなことに、研修生として選考試験に合格し、それから出発まで、残念ながら障害をもつ前には知り得なかった障害のある人たちの生活や教育について、熊本県内の学校や個人を訪ね回り、事前学習を深めていった。最終的に、アメリカでの学びの目標設定を、①90年に制定されたADA法(米国障害者差別禁止法)の実現の過程について学ぶ、②障害のある子ども、学生の教育(を受ける権利)について学ぶ、とした。
研修期間は90年から91年のほぼ1年で、カリフォルニア州ロサンゼルスを中心に研修を行い、バークレーやワシントンDCにも飛び、当事者や活動団体、地域の学校や大学などを訪ねた。研修の詳細は別の機会に委ねるとして、アメリカでの1年間の研修で最も印象深く心に刻まれたのは、「Be political !」(政治的マインドを持て)という米国の活動家たちからのメッセージだ。ADA法ができた経緯のなかで、米国の障害者たちは、当時の大統領選で民主党、共和党のどちらが政権を取ってもADA法が実現するよう、両陣営に仲間を配置してロビー活動を展開してきた。そして、全米各地の障害者団体や個人にも、ADA法の意義や法の実現への取り組みについてオルグして回ったそうだ。
結局、大統領選では共和党が勝利したが、障害種別を超えたADA法を求める大きなうねりは見事に法実現へと帰結した。障害者運動を展開していくなかで、制度、法律を作ることは何より重要で、そのためには常に政治的なマインドをもっておくことが肝心なのだと、アメリカの仲間たちは教えてくれた。それは必ずしも、障害者自身が議員、政治家になることを意味するわけではないが、私の心のどこかに深く刻まれていたBe political !が、くしくも県議補選への出馬の要請を受けた際に、次第に「後退りはできない」との思いを搔き立てた。
帰国して障害者運動へ
前後するが、米国から日本に戻る直前、熊本では県の障害者入所施設で起こった職員による入所者(知的・聴覚の障害者)の年金搾取事件が発覚し、その人権侵害を糾す集会が開催されていた。そこに集結していた障害のある仲間たちから当事者団体を創ろうという声があがり、当時日本で10カ所ほど立ち上がっていた「自立生活センター」が熊本でも実現した。私も創設メンバーの一人になり、団体名は「ヒューマンネットワーク熊本」となった。
また、私が帰国する直前には熊本市議会議員選挙も行われており、ここにヒューマンネットワーク熊本の創設メンバーでもある電動車椅子利用者の友村年孝さんが立候補していた。友村さんは筋ジストロフィーの当事者で、当時まだ実現していなかった介助派遣制度の実現など、障害福祉の充実を訴えたが惜敗した。サービスの直接の窓口をもつ基礎自治体の議会に当事者議員が誕生することは大きな一歩であり、この選挙後も障害当事者の村上博さんが、後継候補として次期市議選挑戦を担うこととなり、私も応援団の一人となった。
いきなりの県議補選
村上博さんの2度目の熊本市議挑戦の準備が進められていた97年12月、前述のように熊本県議会熊本選挙区の補欠選挙が行われることとなり、私はいきなり県議補選への出馬の打診を受けた。結局、この要請を受けることになったが、その理由の一つに、99年4月に行われる熊本市議選と熊本県議選に、同じ障害をもつ車椅子ユーザーがそれぞれ出馬すれば、相乗効果が期待できると考えたことがある。
米国から戻ってから知り合い結婚した夫は、20代から労働組合運動で選挙応援をしていた。私の出馬について夫は、「あなたの人生だからあなたが決めればよい」というスタンスだったが、夫の両親は大反対だった。それもそのはず、夫の実家は熊本市でも農村部の保守的な地域であったので、選挙のたびに田畑を売る地元の保守系議員を見てきたため、仕方ない反応だった。しかしその反応にむしろ、「私自身以外の意向に屈従させられるなどあり得ない」との思いが私の中に湧き上がり、県議補選への立候補を決断するに至った。
選挙戦では、社民党、民主党、連合傘下の労働組合が選挙実務も選挙資金も支えてくれたため、何から何まで初めての経験ではあったが、無事乗り切れた。結果は、3議席の当選枠の中で1位当選を果たすことができた。
ジェンダーバランスが悪いどころではないと知っていた熊本県議会で2人目の女性であり、車椅子ユーザーで障害者である私の登場は、〝エイリアン〟がやってきたかのごとく、決して歓迎されているようではなかった。しかし幸い、当時の福島譲二知事の子どもが脳性麻痺の障害当事者で、バリアフリーについてはひときわ知事の思いが強かったため、県関係の建物は県議会も含めてバリアフリー化が進められていた。県議会棟にも障害者用トイレ、エレベーターも既に設置されていた。議場内の段差解消と登壇台の上下昇降化は私が当選してからなされた。これらの予算については、議員からの異論はなかったし、議会視察で県内外へ赴く際も、私が要求していた介助者の同行も議会の予算で認められた。
ところが、3期目の当選(2003年)まで実現しなかったのが採決の方法だ。国会などでもよく耳にする「賛成の諸君の起立を求めます」という議長の発言だ。立てない私がいるのに「起立を求める」だけではおかしい。「平野議員は立てないなら、手を挙げていればいいのです」と。それなら、「賛成の諸君の起立または挙手を求めます」という文言に変えてほしいと求め続けて5年がたっていたが、前例がないだの、慣習に合わないなど、議会運営委員会では否定され続けてきた。できるだけ議会内で解決したいと思っていたが、らちが明かないことに限界を感じ、私は当時ほぼ毎日つづっていたブログでこの間の経緯を紹介し、支援者や県民に賛同と解決への協力を求めた。するとたくさんの電話やメールやファクスが県議会に寄せられ、地元紙も取り上げた。多少の波風は立ったものの、ようやく熊本県議会は、運用で対応し、起立ができない議員がいる現状に鑑み、「賛成の諸君の起立または挙手を求めます」という議長の発言フレーズに変更するに至った。
先輩の保守系議員には、「平野議員、もっと大局を見てください。挙手でいいと認めているのですから、現状のままでよいでしょう」と〝諭して〟くる人もいたが、障害によって立てない議員がいることを無視することなく、多様性への対応が当たり前にできる議会になる必要があるという私の考えは終始揺るがなかった。女性議員はもちろん、視覚障害や聴覚障害のある議員、私より重度で常時介助者の支援が必要な議員、子育て中の議員、LGBTQの議員など、全国的にも多様な議員が誕生し始めていたが、違うことを少数派だから無視してよいと考えるのではなく、多様性に寛容な議会こそ多様な県民のニーズに対応できるようになるのだということを、当時の議員たちが私の〝抵抗〟から学べていたならよいが。ちなみに、私が当選した後所属した非自民の会派は、社民党や民主党、連合推薦議員、無所属議員などから構成されていて、17年間平均5~6人の少数会派だったが、彼らは常に私の主張やスタンスを理解し、支えてくれていたことを付け足しておきたい。
当たり前の男女バランス、
多様性ある議会へ
数少ない女性県議を17年間経験したなかで、先進国とは到底思えないバランスの悪い議会(あえて言えば、高齢の保守的な男性や彼らのDNAを受け継ぐ中堅・若手男性議員で占有されている議会)は、県民生活の多様性、厳しさを反映した政策提案や県政チェックができているのだろうか。私の答えはNO!である。なんせ周回遅れも甚だしいこの惨状であるから、これを一気に回復させることは難しいだろうが、少しずつでも議会に多様性をもたらしていかなければならない。
今春の統一自治体選挙では、全国紙でも地方紙でも、女性があまりに少ない議会の現状を、キャンペーンを張って世論喚起していた。全国や地方で「女性を議会へ!」という市民団体の動きも起こり、統一自治体選挙では、熊本県議会同様、全国でも女性の候補者も当選者も過去最高となった! これからが重要だ。政治的スタンスや個別課題で、意見が異なる場合もあるだろうが、女性という立場での共通する経験、思い、課題で一致する点を見いだしながら、連携して、さらなる多様性を実現していただきたい。