もう一つの被爆地ナガサキの今
全国被爆二世団体連絡協議会・特別顧問 平野 伸人
ひらの・のぶと 1946年12月、長崎に生まれ、母が被爆者の原爆被爆二世。86年、長崎県被爆二世教職員の会を結成、会長。87年、全国被爆二世教職員の会会長。被爆二世の問題に取り組むと同時に、韓国被爆者の救援活動に取り組む。2003年より毎年、日本の高校生を韓国・フィリピンに派遣し、韓国の被爆者との交流、韓国の高校生、フィリピンのスラムの交流と支援を続ける。1998年、高校生平和大使を発案し国連へ派遣。また、高校生1万人署名活動等をサポート。
2023年5月19日、被爆地広島で主要7カ国首脳会議(G7サミット)が開かれました。広島を選挙区とする岸田文雄首相の肝いりで実現したこの広島サミットは何を残したのか、もう一つの被爆地ナガサキからの視点で検証してみたいと思います。
サミット前日の18日、東京では衆参の国会議員40人の参加で被爆者問題議員懇談会が開かれました。被爆78年を迎えようという今日でも「被爆者問題」が存在します。広島サミットと同じ時期の被爆者問題議員懇談会の設立は改めて、私たちに核問題を提起してくれているとも言えます。
人類史上初の核兵器の使用であった広島、長崎への原子爆弾投下によって二つの街は壊滅しました。破壊された建物の下で何万人もの市民が炎に焼かれました。生き残った人々も原爆放射線による後障害に苦しめられてきました。このような惨禍を経験した私たちは「ヒバクシャをつくらない」という決意を原点として、核時代に立ち向かおうとしています。しかし、被爆78年を迎えて、被爆者の数も高齢化により減少の一途をたどり、現在では12万7755人にまで減少してきています(厚労省統計:2023年3月末現在)。被爆者の平均年齢も83・94歳となっています。
1、広島サミットは何を残したのか
終わらないロシアのウクライナ侵攻は世界に暗い影を落とし続けています。このような年に日本は被爆地広島でG7の議長国を務めました。唯一の戦争被爆国日本の広島で何が討議されるのか被爆者・市民はもとより世界が注目したのですが、期待は見事に裏切られました。それは、このサミットが何ら具体的成果を上げることがなかったばかりか、21日から突然訪日したウクライナのゼレンスキー大統領への支援を約束する「ゼレンスキー・サミット」になってしまったことです。
中国やロシアとどう向き合うべきか。残念ながら「西側の結束を強める」のみの意味合いしかなかったように感じました。
2、広島開催の意味と
意義は?
広島開催の意味は言うまでもなく「核兵器廃絶への重要なきっかけになれば」ということです。もちろん、各国首脳が平和公園や原爆資料館を訪れたことには、それなりの意味があるでしょう。
しかし、それ以上に問題なのは「核兵器廃絶」を理想と断じたばかりか「核抑止」を完全に肯定してしまった点にあります。広島という地でこのことを認めたということは重大な禍根を残すことになりはしないでしょうか。
このサミットでは「核兵器禁止条約」には一言も触れられませんでした。核兵器廃絶を理想とも思っていない証左ではないでしょうか。核兵器の発射ボタンの鞄を持ち歩く大統領が、ロシアによる核の威嚇を非難することができるのでしょうか。理想なら理想でいい、もっと理想を語り合ってほしかったと思うのは被爆者だけではなかったと思うのです。
3、そして、ナガサキは?
今回のサミットで際立ったのは、もう一つの被爆地であるナガサキの存在感のなさでした。バイデン米大統領が長崎訪問するとの報道も流れたが、結局は実現しませんでした。そればかりか、もう一つの被爆地ナガサキが話題に上ることはありませんでした。不必要だった二つ目の原爆投下は歴史の汚点です。人類が再び核兵器の惨禍に遭わないようナガサキを忘れないでもらいたいものです。
かつて、アメリカの軍艦が長崎港に入港し、司令官が平和公園で献花したことがあります。その時、被爆者・山口仙二さんはその花輪を踏みつけたことがあります。今さらながらに、山口仙二さんの気持ちが分かります。バイデン大統領が長崎に来ると言っても、謝罪もないアメリカ大統領の訪問はお断りしたいものです。
さて、被爆者問題議員懇談会設立総会では、何が話し合われたのでしょう。
アメリカや日本政府は、長い間、原爆投下の影響を極秘とし原爆の被害を隠し、被爆者を放置していました。1957年にようやく被爆者に対する援護が始まり、「医療法」が施行され、さらに68年に「特別措置法」が施行され、95年に二つの法律を統合して、「被爆者援護法」が施行されました。現在の被爆者に対する援護は全てこの「援護法」に基づいて、健康診断や医療給付、諸手当の支給などが行われています。
《黒い雨訴訟と被爆体験者問題》
原爆を体験し放射線による被害を受けた人のことを被爆者というはずです。ところが、長崎では、原爆当時に「長崎市」でなかったために、いまだに被爆者援護法に基づく被爆者と認められない人たちがいます。
長崎の被爆地域は旧「長崎市」を基本に定められました。そのため、爆心地から遠点12・4㎞、近点8㎞のいびつな地形です。原爆被爆の実相はこれまで考えられた以上に大きく、特に黒い雨や粉塵汚染、放射線微粒子等による放射線内部被曝の被害は深刻です。
原爆により巨大なキノコ雲が発生し、その下の地域には放射能を含んだ微粒子が黒い雨や粉塵となって降り注ぎました。そして、住民は放射能に汚染された空気を吸い、水を飲み、畑の植物を食べました。その結果、放射性物質を体内に取り入れ、内部被曝による放射線障害に苦しむことになります。これらの地域の人たちは、被爆地の是正を求め続けてきました。その結果、長崎では、2002年度に「健康診断特例地域」による「被爆体験者」として認定されましたが「被爆者」とは認められませんでした。「被爆体験者」は、被爆者として認めるよう求める裁判を07年11月に長崎地裁に提訴しました。しかし、判決は、原爆被爆の実相を理解しない不当な判決でした。
原告団の高齢化も深刻で、裁判中にも多くの原告が亡くなっています。高齢化している「被爆体験者」の救済のためには早期の解決が求められています。
《被爆二世の闘い》
被爆二世の問題も放置されたままです。全国に被爆二世が何人いるのかさえ国は把握していません。
かつて、私が推測した30万人~50万人という数字が独り歩きしています。1979年から実施されている被爆二世健康診断の充実や法制化を求めて、毎年、厚生労働省交渉を行ってきました。しかし、国は被爆二世の深刻な状況に応えようとはしませんでした。このような中で、「原爆被爆二世」の援護を求める裁判を提起しました。2017年広島地裁・長崎地裁に相次いで「被爆二世」を援護の対象としていないのは立法不作為であるとして裁判を提起しました。残念ながら不当判決により現在控訴審が闘われています。
被爆体験者も被爆二世も被爆者援護にとどまらず、核のない平和な世界の実現に向けての闘いを続けています。ぜひ、国民的課題として世論の力で解決に導きたいものです。