沖縄は本当に変わったか?
沖縄県女性団体連絡協議会前会長 大城 貴代子さん
「沖縄病」に罹った私
私は、山口県の出身です。うちなーんちゅになって68年になります。
まだ復帰前の1963年、沖縄から訪れた青年団との交流の時のことです。「沖縄の青年たちは、何を青年団活動でやっているの?」と聞きましたら、「復帰運動」と言ったのですね。「復帰運動」?それ何という感じでした。私は、「ひめゆりの塔」の映画とかは学校で見に行き、奄美諸島が日本復帰したというのは、小学校の6年生の頃だったんですが、新聞を見て知っていましたが、沖縄の復帰運動のことはまったく知りませんでした。
戦争があって大変な所だということくらいしか知らなかった私は、沖縄の青年たちが「そんな運動をやっているの」ということに目が本当に覚めました。沖縄はなぜそんな状況に置かれているのか、米国施政権下での暮らしはどんなものか。聞けば聞くほど関心は高まった。
その半年あとに山口県から沖縄に青年団を16人派遣するということになって、たった一人の女性として沖縄にまいりました。
そこで見たものが、まさに驚きの連続でした。
まず、パスポートを持って来なければなりませんでした。観光パンフレットを頂いた時には、沖縄は「唄の島」「踊りの島」といったパンフレット、観光の案内でした。ところが、来てみてびっくりしたのは、道路交通は右左反対だし、基地の金網ばかりが目立つわけです。
山口を出発して鹿児島経由で船で来て、途中、台風に遭って1日延びて、約10泊11日かかっておりました。その間に南部、中部、北部、そして案内された所は米軍の基地の中の何というのですか、VFW将校クラブとか、今のハーバービューホテルがある所もクラブでした。南部はもちろん、南部戦跡ですが、門中墓も見せてもらいました。
そういうのが観光でしたが、男性たちはたばこやお酒が安いからということで買いあさって、そういうようなイメージでした。
その後、夫になる役員のメンバーたちとの交歓会でさらに沖縄の現実を説明してくれて、意気投合したわけです。当時はやっていました「沖縄病」に罹りました。この病って分かりますか。東大の茅誠司先生が「沖縄病を広げましょう」と言われた伝染病です。
その「沖縄病」に罹ってしまいました。
あくる年の1964年に結婚し、沖縄にまいりました。共に運動したいと両親の反対を押し切り結婚にこぎ着けた。「自分の目の黒いうちにはもう会えないのでは」と嘆く親族がいるほど、沖縄は遠かったです。
異文化での生活が始まりました。チョコレートやマヨネーズも日本製はなくアメリカ製。会話には聞き慣れない英単語が交じる。水は天水をそのまま使い、やかんが重いと感じて中を見ると石灰分が層になっていました。日々の生活は驚きと戸惑いの連続でした。私たちは沖縄を知らなかったし、沖縄も日本を知らなかったわけです。
公務員試験を受けて、1年のちに琉球政府に採用されました。復帰の日まで約8年間、大田任命主席・屋良行政主席のもとで琉球政府職員、その後県庁職員として働きました。
女性の権利拡大に取り組む
ここで少し申し上げたいのは、復帰前後のことです。私は、労働組合を運動やったことはまったくなかったのです。
しかし、共働きを始めて、公立保育所はない、病気になったら保険はきかない、そういうような沖縄の労働者のおかれた状況でした。職場の中では、女性たちはお茶くみばかり、なんでお茶くみばかりやるのか。私はもともと専門職の栄養士でしたから、そういう職場に事務職で入ってびっくりしたんですね。
働く女性が、どうしてこうも家庭でも仕事でも、さらに沖縄全体がこうなのか。この状況を変えようということで、組合婦人部の再建に関わり、沖縄県女性(当時は、婦人)団体連絡協議会の発足の時にも参加しました。
67年、官公労の婦人部長になり、県労協の婦人部長をやるなかで、基地に働く女性たちの母性保護問題、民間で働く女性の問題、保育所をたくさんつくらないとだめだ、学童保育所がないんだ、そういうような働く女性の権利を拡大するために女性団体の活動にのめりこみました。
復帰の日の前後
復帰の日のことを少し話したいと思います。
先ほど平良亀之助さんが建議書を作る時の苦労をいろいろと話されました。私たちは復帰が近づくということには期待がありました。60年に祖国復帰協議会が結成されていますが、65年に出た佐藤栄作(当時首相)さんの「沖縄の復帰なくして日本の戦後は終わらない」という名文句もあって、それ以降いろんな運動が盛り上がったんですね。
それから本土からも女性の国会議員や総評婦人局などの婦人運動家たちが、いろんな形で沖縄の女性の調査に来ました。売春問題とか物価の問題とか、女性の権利とか福祉施設の問題等々、本土と沖縄の婦人たちの連帯行動も頻繁になりました。
1971年のニクソン・ショックでとても物価が高くなっていました。円の価値も変わりました。生活は大変です。そういう意味で一日も早くドルを交換してほしい、差損を補償してほしいと、そういうような女性たちならではの運動もあったわけです。復帰が現実に迫ってくると、通貨切り替えによる物価上昇や便乗値上げが日々の生活を直撃した。県労協婦人部で県内物価を調査し、130品目のうち魚、肉類、昆布など3割が10%以上値上がりしているといった実態を発表し、婦団協や労組などが各地で開いた値上げ反対集会にしゃもじを手に参加したりしました。
戦争体験のある女性たちは自衛隊が配備されることにも強い反対があり、国会議員や総理にも直訴したり、3・8国際婦人デーでは市内でデモ行進をしたりもしました。
本当に私たちが期待したのは、基地もない平和な沖縄の復帰でした。が、近づくにつれだんだんそうではないということが分かってきました。
当時の琉球政府職員の状況をちょっとお話ししたいんです。
まず琉球政府職員がどういう形で身分が引き継ぎされるのか。国家公務員に行くのか、県の職員になるのか、市町村の職員になるのか。
それから給料はどうなるのか。アメリカの制度で「通し号俸」だったんですね、前歴加算もなしに。それが日本政府では全部職階制で給与も決まるわけですね。そういうことを労働組合の皆さんが一人ひとり、「転がし計算」というので前歴から計算する、そういうような取り組みを組合の役員がやっていました。
復帰の朝は那覇市民会館、今はもう使われていない、その市民会館で式典があったわけです。私は、どうしてかは覚えていないのですが、朝早くNHKの車が迎えにきてもう一人男の方も呼ばれて、市民会館の前で感想を聞かれました。
その時言ったのは、私はちょうどまだ子育ての真っ最中したから、水道をひねれば水がいつでも出る、電気も停電しない、そういう静かで本当に平和な暮らしができるような復帰を期待しています、と言ったのを覚えております。
「日本政府を当てにしてはだめだ」の警告
そして最後になりますが、沖縄は本当に変わったかということです。
ちょうど復帰40年周年の記事を家に保管していたのを見たのですが、こういうのがあるんですね。これ「琉球新報」の40年の時の1月1日の記事。やはり「暮らしはどう変わったか」というテーマですが、医療とか福祉とかそれから保育、こういう分野に皆さんが点数を付けているんですね。
識者ということで私のインタビューも入っていますが、平均点70点を付けました。そして「インフラは進んだけれども貧困が教育環境に影響を及ぼしています」と影があると私も指摘しています。
しかし、10年を経た今年も遺骨のある土砂が辺野古新基地の埋め立てに使われ、先島への自衛隊配備、空にはオスプレイ、地中には不発弾、撤去にはあと70年もかかるといわれ、沖縄の戦後はまだ終わっていません。
それから、これご存じですよね。神山長蔵さん(1972年に県職員、日本復帰を祝う「新沖縄県発足式典」の運営責任者)の『沖縄「復帰の日」』という記録。とっても貴重な記録なんですが、この復帰の日の記念、それは式典の模様から全部書いてあるんですね。
その時に私たちは、職場で新しい辞令をもらって、それから与儀公園の大雨の中でデモに参加する。そういう5月15日の長い一日でした。
あくる日の講演会のことは知らなかったんですが、改めてこれを読み直しますと、3名の方が5月16日に講演をしていらっしゃるのです。「伊達裁判」の伊達秋雄さん、それから評論家の中野好夫さん、もう一人は地域開発について大阪市立大学の吉富重夫教授。その中でまさに指摘していらっしゃることが、50年後の今も同じ沖縄の状況です。
日本政府を当てにしてはだめだということ。それから地方自治、本当は「(3割自治でもない)1割自治」なので、「沖縄の自治」を求めるのは本当にきついですよということ。開発にしても、県民の意思が入ったような開発が進むのならいいんだが、難しいだろうと。
こういうことが当たらなければいいんだがなあ、というようなことを3名の方がおっしゃっておられるんです。まさにそれが当たっているんです。
復帰の願いは、「平和憲法のもとへ」であったはずです。中学3年の夏休みの宿題は、「日本国憲法を50回書いてきなさい」でした。初めて知った憲法、若い教師も必死に平和憲法について教えていました。
いまだに女性に対する性暴力や事件、事故が多発、安心して住める社会とは言えません。50年先の沖縄はブータン国のように幸福感に満ち安心、安全に過ごせる社会を望みます。
そういう意味でこの50周年を機に、やはり私たちが建議書で望んだ沖縄をめざす必要があります。
復帰前の女性団体は、平和と暮らしを守るためにたびたび上京し国に押しかけていったりしました。そういう元気のある運動があったのですが、最近はなかなか組織として大きな運動ができなくなっていることがとても残念です。
この50周年を機会に、また元気よく女性たちもがんばりたいと思います。
(県民大会での発言に大城さんが加筆修正されたもの。見出しとも文責編集部)