対米従属の呪縛から脱却を
広範な国民連合顧問・元沖縄県教職員組合委員長 石川 元平
天皇メッセージの検証を
沖縄の「日本復帰50年」を検証することは、即、日本の戦後史を検証することにもつながると思うので、勝手ながら持論を述べさせていただく。
はじめに、「昭和天皇メッセージ」がもたらしたものについて検証したい。
1947年9月と48年2月のメッセージはよく知られているが、50年6月26日、米国の国務長官顧問のダレスが朝鮮戦争勃発の翌日、帰米の途中に天皇に会い、そこで発せられた「第3のメッセージ」についてはあまり知られていない(中小企業組合総合研究所発行『提言』2016年5月1日号、「日米安保条約と日本国憲法」参照)。
それによると、メッセージは当初口頭で発せられ、2カ月後の8月9日に文書化されてダレスに送られたという。天皇はすでに47年と48年のメッセージで、日本の共産化を防ぐために、沖縄の長期占領について米側に伝えている。さらに51年9月8日の講和会議が迫る中で、条約の取りまとめ役のダレスに対して、天皇自ら日本国中に米軍基地を提供し、米軍の保護下に入ることを積極的に働きかけたという。つまり、天皇は共産主義の脅威の前には、日本国の主権制限、米国の主権侵害も許容するというのである。現実に天皇の思い通りとなった。
51年9月8日の講和条約締結は、サンフランシスコのオペラハウスで署名されたが、日米安保条約と行政協定は米軍の下士官クラブで、吉田茂全権代表単独でなされたという。そこでなされた「秘密合意」が、米軍に対する「基地特権」だと言われる。その中身は、在日米軍は52年4月28日の、形式的ではあれ日本の主権・独立回復後も、占領米軍が持っていた「基地特権」を持ち続けるというものである。
沖縄県民の復帰要求
米国占領支配下に置かれた沖縄では、米軍人・軍属による事件・事故が多発し、県民の人権は無視された。こうした圧政の中、異民族支配から脱却して、人権が守られる平和憲法体制下への復帰を求める大衆運動が高揚していった。「自治は神話」といわれた時を経て、68年11月の初の県民投票的意義をもつ「主席公選」が実施された。
結果は、祖国復帰協議会(復帰協)の基本方針である「即時無条件全面返還」(核も基地もない平和な沖縄)を求めた革新統一候補の屋良朝苗が、復帰尚早論を唱えた保守候補を破って当選した。69年11月の日米首脳会談(佐藤・ニクソン)で、沖縄の72年復帰が合意されると、国・県における復帰準備が加速していった。
政府は71年11月に「沖縄国会」を召集、沖縄返還協定と復帰関連7法案を提案し、国会で審議された。復帰関連法案が琉球政府の意向を無視していることに対して、屋良琉球政府では県民要求の即時無条件全面返還を基調とする「復帰措置に関する建議書」(屋良建議書)を取りまとめた。屋良主席は11月19日、「建議書」を携えて上京したのだが、羽田に降り立つ前に、既に衆議院特別委員会で自民党によって強行採決されていた。
これが、かつて沖縄戦で本土防衛の「捨て石」にされ、27年にわたる米施政下で苦悩してきた沖縄への仕打ちであった。当日の「屋良日記」には、「党利党略の為には沖縄県民の気持ちというのは全くへいり(弊履)の様にふみにじられるものだ」と、憤りと失望の気持ちが記された。
核抜き・本土並み返還の欺瞞
政府は「72年返還」に対して、「核抜き・本土並み」を喧伝したが、「核」は密約された。私たち復帰運動に関わった者たちが、朝鮮の核疑惑などを取り上げていた国連安保理に対して、在沖米軍基地の核査察・検証も求めたが、実現されなかった。核と化学・生物兵器が、3点セットで語られることが多いが、イラク戦争では、劣化ウラン弾や黄リン弾が使用されたことが伝えられた。その貯蔵庫は辺野古弾薬庫であった。
「本土並み」は、沖縄の過密な米軍基地を本土並みに整理縮小するという約束であったが、それは県民騙しのウソであった。現実には70%を超える米軍基地は依然としてあり、基地機能はますます強化の一途をたどっている。米軍基地は、復帰前は陸軍が主力の後方支援基地であったが、今日では海兵隊が主力の前線基地に変化している。生殺与奪の権能を持つと恐れられた琉球の帝王・高等弁務官も、陸軍中将であったが、今では陸・海・空・マリンの四軍調整官は海兵隊の司令官である。
日米共同の軍事植民地
復帰とともに強行配備された自衛隊は、多くの県民に「日本軍の進駐再来」を彷彿させた。
復帰50年を前に、南は与那国から石垣・宮古、さらに奄美へ延びる琉球弧は、中国を仮想敵とする自衛隊基地へと変貌を遂げつつある。69年の日米共同声明の中に、韓国条項と台湾条項があったが、現在の台湾有事を煽っての有事態勢づくりは、再び「捨て石」にならないか懸念する県民は多い。
96年「橋本・モンデール会談」で、普天間米軍基地の返還が合意されてから26年が経過した。沖縄戦で占領米軍が本土攻撃のために、ハーグ陸戦条約に違反して街の真ん中に建設した飛行場は「世界一危険」といわれて久しい。
2013年1月、保革を超えた「オール沖縄」による安倍首相への「建白書」をもっての直訴も、普天間基地へのオスプレイ配備反対と辺野古新基地建設に反対するものであったが、政府は聞く耳を持たなかった。普天間解決を口実に「辺野古が唯一」と、国家権力を総動員しての新基地建設強行の隠された狙いを筆者は、近い将来の日米安保体制下での「日本軍基地」建設だと警鐘を発してきたが、最近のキャンプ・シュワブ基地を使用しての日米合同訓練を見ると、その思いは増すばかりだ。
政府は沖縄戦終焉の地、南部の土砂を辺野古埋め立てに利用しようとしている。沖縄戦の死傷者の骨片や血の染み込んだ土砂で、新基地建設を急ぐ、非人道的な政府に対して、全国の多くの市町村議会から反対の意見書が寄せられている。願わくば、沖縄復帰50年への全国からの連帯で、辺野古新基地建設阻止で国家権力と対峙している玉城デニー知事をはじめとする沖縄県民を励ましてほしい。
結びにあたって
72年の沖縄復帰は、「核隠し・基地自由使用」という欺瞞的返還であった。そのころから私たちは、国家権力は国民を騙す存在だということを思い知らされた。だから、政府が言う「自由・人権、民主主義という普遍的価値を尊ぶ国」も騙しに聞こえてしまう。
52年の「4・28」は沖縄分断の「屈辱の日」にとどまらず、日本国民全体にとっても「屈辱の日」とすべきであった。
70年余、日本国憲法をないがしろにした日米安保体制下で、対米従属路線が延々と続いてきた。筆者は、この国の不幸は、不都合な過去に目を閉ざして、戦後総括をしてこなかったことだと思っている。したがって、沖縄復帰50年を機に、改めてこの国の戦後史を検証してほしいと切望する。
日本の真の主権国家・独立国家という道が開けてくるのではないかと信ずるからである。