貴方の偉業は世界(記憶)遺産、ノーベル賞を超える

中村哲君を偲んで

元福岡県教職員組合委員長 中村 元氣

突然の訃報に

 「凄まじい温暖化の影響――とまれ、この仕事が新たな世界に通ずることを祈り、来る年も力を尽くしたい――中村哲」と冒頭に書かれた文章を含む「ペシャワール会報」(NO142号、12月4日発行)が、2019年12月4日に私の手元に届きました。まさか、その日の朝、中村哲君(と、高校時代からの呼び方で書かせてください)が、ジャララバードの宿舎を出て車で作業現場に向かっている途中、何者かに銃撃され、同乗していたドライバーと4人の護衛の方々とともに亡くなられるとは思いもしませんでした。

 最初の報道では「命に別状はない」ということでしたので、少し安堵したのもつかの間、「病院に移送された後に亡くなりました」という報を聞いて、一瞬言葉を失いました。

 哲君とは、今年は珍しく2回もお会いして話すことができたのに、「なぜ、彼が……」という気持ちでいっぱいでした。その夜は、私が哲君と高校の同級生だったということをどこかで知ったのでしょう、知り合いのテレビ局や新聞社の記者から問い合わせの電話が次々とかかってきました。「高校時代の思い出を」「どんな方でしたか?」「亡くなられての今のお気持ちは?」「写真はありますか?」「感想を述べるのを映像に撮らせてもらっていいですか?」などと、矢継ぎ早の質問に圧倒されながら、改めて哲君の素晴らしさ、偉大さを感じたものでした。しかし、哲君がどんなに素晴らしかったか、その生きざま、人生、思想性など、そんなことは今までにたくさんの人が知っていることだし、支援者も多くいたのに、「何を今さら」、「日本政府や政治家、一部マスコミなどは今までどんな態度でしたか」などと心の中で反論しながらも、ただただ哲君との「高校時代の思い出」を思い浮かべながらの受け応えに、自分自身に何となく違和感を覚えたのも事実です。

 哲君とは高校2年生の同じクラスメートでしたが、正直に言ってそんなに接点はなくて親しく付き合っていたわけではないし、むしろ、その後の人生の中での二人の生き方に共鳴し合って、私たちの組織の講演をお願いしたり、他の人に紹介したりして親しくなっていき、私の組合運動や哲君がやっている取り組みについて議論したりしたという方が、二人の仲を語るのにふさわしいのではないかと思っていたからです。

 そして、哲君とのつながりを語るにはどうしても私の生い立ちや境遇をはじめに語らなければならないとも考えました。

高校2年で哲君に出会う

 私は1946年に大分市で生まれ、8人兄弟の一人として育ちました。家は、私が生まれる前までは大きな下駄屋をしていて結構裕福な生活をしていたそうですが、その後、戦後のいろいろな金融政策や政治の変化などが原因で倒産をして、一家離散という悲惨な状況になりました。8人の兄弟姉妹は、4人ずつ二組に分けられ、両親と私以下4人は、私が小学校4年生の時に故郷から逃げるようにして福岡市に引っ越してきました。他の4人の兄弟姉妹は親戚や施設に預けられました。私は5番目、三男坊でしたが、福岡での生活では一番年上の長男としての役割で育ちました。

 育った場所は、現在、都市高速天神ランプ下にある那の津倉庫街の所でした。当時、その一帯は長浜新町と呼ばれていましたが、そこの集落(約200世帯と思っています)です。そこには、私たち家族みたいに破産などで家がなくなった人たちや在日の朝鮮人、そして、戦争が終わって中国などから引き揚げてきた人たち、なかには、「世捨て人」みたいな人たちなどがいろいろな理由で集まって、勝手にバラック小屋みたいな家を建てて住んでいました。いわゆる「不法建築」です。

 その集落で始まった生活は、両親が福岡市の失業対策事業の労働(日雇い労働で、雨が降れば仕事がない、収入がない)で貧しく苦しかったのですが、地域の民生委員さんから「生活保護」のお話が何度もありましたが、それを受けないで暮らしていました。

 両親は口を開けば「世が世であれば、うちは他の人たちとは違う」、「いつかまた分限者(ぶげんしゃ)(大分弁でお金持ちという意味)になるから」と語り、それを生きがいとして苦しい生活でも必死に生きてきました。

 私は、こうした差別的な両親を「反面教師」として育ちながら、少しでも家計の足しになればと思い新聞配達を始めました。また、一番下の妹を保育園に預けるお金がないので、小学校の先生の配慮で、妹が小学校に上がるまで学校に連れて通学し、私の隣の席に座らせて勉強をしました。

 そんな環境でしたから、中学を卒業したら就職をして少しでも家族の役に立ちたいと決意していました。ところが、たまたま私の学業成績が良かったことと、「育英奨学金」制度が始まったこともあり、小・中学校の担任から「高校・大学に進んで、元氣君の境遇・経験を教師として生かしたらどうか」との提案で私の両親を説得してくれて、当時の高校進学率が50%程度だった時代に高校に進学することができたのです。

 ちなみに、8人兄弟姉妹で高校・大学まで通ったのは私一人だけです。住んでいた集落では初めての高校生誕生ということで話題になり、住民有志がカンパして記念品(辞書と万年筆)を贈ってもらったことは今でも忘れません。

 そんな経過を経ての高校進学でしたが、やはり、新聞配達は続けていました。当時、「夕刊フクニチ」という夕刊紙専門の新聞があって、私は、住まいのある地域を中心に、約100部を配っていました。そして、配るだけでなく、1部10円で販売するという方式でしたので、集金したお金を毎日販売店に持って行く必要があって、長浜新町から天神まで毎日歩いて行って精算をしていました。こういう苦しい日常生活の様子をクラスの仲間の誰にも語れませんでした。

 2年生の時に哲君と同じクラスになりました。同じ「中村」ですから出席番号は続きで私が先でしたが、成績は哲君の方がはるか先を進んでいました。高校時代の哲君は、下駄を履いた「バンカラ」という感じで、私の印象では割と口数が少ない方だったので、私とのエピソードというのはあまり多くはないのです。

 ある時、哲君が私に「元氣君はいつも授業が終わったらすぐに帰るけどなぜ?」と聞いてきました。私は「家計が苦しいから新聞配達をして稼いで少しでも役に立ちたいから」と応えると、哲君は「どうして高校生がそんなことをしなければならないのか」とまた聞いてきました。私は家庭環境の違いを感じましたが、それにはその時すぐに応えることができませんでした。しかし、その後、次第に私の生い立ちや境遇を哲君にだけには話すことが増えてきました。

 また、ある時には、「元氣君は将来どんなことをしたいのか」と聞かれたので、私は、「自分と同じ生い立ちや境遇の人たちのために学校の先生をめざしたい」と言うと、哲君は「僕は将来医者をめざしたい、それも生活が厳しい人たちを対象にね、元氣君と思いは同じだね」と言って、お互いに夢をかなえようねと誓い合ったことを思い出します。

 哲君の生い立ちの話では、かつて北九州で港湾労働者を束ねた祖父の玉井金五郎さんのこと、伯父の火野葦平さんの小説「麦と兵隊」「花と龍」のことなどを話したこともありました。後から考えれば、アフガン難民支援を一人で頑張っていたことについて、いつも哲君が言っていた「弱い立場の人を助けたい。命は惜しくない」ということを有言実行で示したのだと思います。まさに、祖父や伯父さんの義理人情を大切にする姿勢を受け継いでいると思いました。

哲君はペシャワール会、私は教職員組合

 その後は、哲君は九州大学医学部へ、私は福岡学芸大学(現在の教育大学)に進み、二人の交流はほとんどなく、同窓会でたまに会って「元気にしているかい」「どんなことをしているの」などと挨拶を交わすような程度でした。

 ところが、私はあんなに希望して頑張ってなった教員でしたが、いろいろな経過(詳述は省略します)があって、1993年に退職をして福岡県教職員組合の役員になりました。それからは教職員組合活動を通じて平和運動などを中心に取り組むようになりました。そんなころ、哲君がペシャワール会で活動していることは同窓会や他の関係で以前から知ってはいたのですが、その後は直接接触することが次第に増えてきました。

 ある時の同窓会で、お互いの近況を報告する中で、「二人の生き方に共通することがあるね」「高校時代に話したことを忘れずに互いに頑張っているね」「何か、お互いに協力できることがあれば頑張ろうね」などと話し合ったことをきっかけに、哲君に私の関係する組織での講演を何度もお願いしました。

 まず、2001年11月、福岡県教職員組合が主催した「アフガン難民を支援する会」で「アフガンの緊急情勢、新たな難民をつくらないために! 私たちにできること、何が必要か」と題しての講演をお願いしました。

 実は、この講演の直前の10月(あの「9・11」から1カ月しかたっていない時期)に、哲君は衆議院テロ対策特別委員会の参考人質疑でこう述べています。「現地におりまして日本に対する信頼は特別です。自衛隊派遣が検討されているようですが当地の事情を考えると有害無益です」と。これには自民党席から「有害無益は取り消せ」とヤジが飛んだそうですが、「ジャパニーズ・アーミーがアメリカン・アーミーに協力しているとしか見られない」と毅然とした態度で応えたと記録に残っています(実はこの後も、哲君は2008年11月のテロ対策特措法改正、米軍艦船への自衛隊による給油活動をめぐる参議院外交防衛委員会でも参考人として「自衛隊派遣によって治安はかえって悪化する」と断言しています)。

 このように、哲君は徹底した平和主義者であり、自らの行動で範を示す人だったのです。これらのことを報道で知った私たちは、「ぜひ、福岡で講演をしてもらおう」と要請して実現した講演会でした。

 この講演で哲君は、「ペシャワール会とは? その活動について」「ペシャワールは、パキスタンとアフガニスタンとの国境のカイバル高原の麓にあり、この山を越えたらアフガニスタンになる」「最も古典的なイスラム社会です」「2400人の患者にわずか16の病床しかない」「親日的なペシャワールの人びと……それは、戦後戦争をしなかった日本、平和憲法の日本だからです」「誰も行かないから行く、現地に定住、定着する」「なんでアフガニスタンでそこまでしているのか……義を見てせざるは勇なきなり、の精神です」「自衛隊が行くのは逆効果です、海外から見れば自衛隊はジャパニーズ・アーミー=日本軍なのです」などと話され大きな反響がありました。その後、この評判を聞いた日教組、そして大阪や九州の各県の教職員組合、平和フォーラム、労働組合、民主団体などに広がっていきました。その中で、カンパが集まり、ペシャワール会員も増えてきました。

 この講演会後の交流会で、私と哲君は再会を喜び合い、お互いの活動や近況を報告し合いました。哲君は、「これからは『アジアの平和、アジアの共生』が大切だ。今後も元氣君は今やっている組合運動・労働運動、そして、日本と朝鮮の友好(福岡県日朝友好協会副会長)や日本と中国の友好(福岡県日中友好協会事務局長)などで頑張ってほしい。私はアフガン支援を中心に頑張るから」と話したことが昨日のように思い起こされます。

「元氣君の頼みなら優先するよ」の約束果たせず

 時が移って2014年、「高校卒業50周年同窓会」があり、哲君が記念講演をしました。話の内容はペシャワール会の活動が主でしたが、やはり、日本の政治状況を心配していました。講演後、質問・意見交換になって、私は「以前の講演会で、現地の治安の状況を聞いたが、現在はどうなっているか」「オバマ大統領が『核廃絶』と言葉で言っただけでノーベル平和賞をもらったが、哲君がもらうべきだと思うがどうか」などと質問と意見を言いました。哲君は「治安はずいぶん変わってきたが、政情は依然として不安定で、いつどうなるのか、心配だ」「ノーベル賞は考えていない」という返事で相も変わらずの淡々とした哲君らしい対応でした。

 昨年4月、私の知人で保育園の園長をしている人から「来年2020年の夏に、保育士の九州大会が福岡市であるので、その記念講演を中村哲医師にお願いしたいので連絡を取ってもらえないか」という要請がありました。早速、事務局と連絡を取ったら、「まだ1年ほど先のことなので予定が分かりません。来年になったらまた連絡してください」とのことでした。

 そして、昨年の2019年6月、「ペシャワール会の定期総会」が西南大学で開かれ、久しぶりにその園長と参加しました。ところが、哲君が日本に一時帰国し総会に参加していたのです。それで、事務局の人にお願いし時間を都合してもらって、哲君と私と園長の3人で話をしました。事情を聴いた哲君は、「来年だけど、元氣君の頼みなら優先してやるよ」と快く引き受けてくれたのです。これには園長も感激して「やはり持つべきものは友ですね」と喜んでくれました。私も本当に哲君の友情に感謝していました。

 その後、8月に博多駅で哲君にばったり会いました。「どこに行っているの」と聞いたら、「用事で北九州に行っているよ」とのこと。私が「先日お願いした保育士大会の講演のこと、よろしく頼みます」と言ったら、「うん、覚えているよ。大丈夫だから」と応えてくれました。それが、哲君に会って言葉を交わした最後になりました。本当に残念で仕方がありません。

 哲君の訃報があった翌5日には、岩手、大阪をはじめ各地から「何かできることはないですか」「いつ、葬儀、偲ぶ会があるのですか」という問い合わせが数多くありました。さすがに誰もが哲君の突然の死が信じられず、いかに深い悲しみに包まれていたかが分かります。早く犯行の真相を明らかにしてほしいと願っています。昨年末の毎日新聞に、「君がため 井戸掘る医師に なぜ銃弾」という句の投稿がありました。

 12月11日の葬儀は、多くの人が駆けつけてくれて哲君との別れを惜しんでいました。斎場のホールは結構広いのですが、半分近くの人が立ち見状態で、斎場外の道路にも人の列が幾重も続いていました。ヘリコプターも飛んで取材していました。

 それにしても、中村哲医師の訃報に接し、インタビューを受けた際の安倍総理の、気持ちが少しも籠もっていない言葉にむなしさ、空虚さを覚えたのは私だけではないでしょう。しかもその後に、あたふたと、勲章授与と総理感謝状を渡しましたが、これまでの対応とのギャップに私は違和感を覚えました。

 しかし、どんなことがあろうと、中村哲君、貴方のこれまでの遺業は、どんな世界(記憶)遺産やノーベル平和賞、勲章をも超えるものだと、私は思っています。私たちは貴方をいつまでも忘れません。今、改めてそんな貴方と個人的なお付き合いができた幸運と喜びをかみしめています。そして、高校平和大使が言っている合言葉「微力だけど無力ではない」という若者たちが貴方の遺志を継いで、「アジアの平和・共生のために」一人でも多くの人が頑張ってくれることを願っています。本当に長い間お疲れさまでした。ゆっくりお休みください。合掌。

 ペシャワール会代表としてアフガニスタンで活動していた中村哲さんが昨年12月4日、何者かに襲撃されて亡くなりました。高校時代の同級生で、福岡県教職員組合の活動で協力関係にあった中村元氣さん(広範な国民連合全国世話人)から「偲ぶ」投稿をいただきました。もっと早く掲載する予定でしたが、コロナ感染症対策問題への対応を優先させたため遅れました。ご了解ください。編集部

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