子どもの貧困

 「こども計画策定」にあたって

子どもの貧困の解消へ

㈳おきなわ子ども未来ネットワーク代表 山内 優子

全国地方議員交流研修会第4分科会の問題提起者、座長団の方がたなど(左4人目山内優子さん)

 私は児童相談所に勤めて、そこでたくさんの虐待された子どもとか貧困家庭の子どもを見てきました。今から10年ぐらい前に本土の方から「授業料を払えない、給食費を払えない、そういう貧困の子どもが増えてきている」という話を聞きました。そのときに「え?給食費払えない、授業料払えないとか、そういう子どもたちを貧困って言うの?」と思ったわけです。沖縄の子どもたちの貧困というのはそんなレベルじゃないと思いまして、その言葉に大変ショックを受けました。
 もう一つは貧困というのは親の問題であって、子どもの問題ではないと思っていたわけです。だから貧困の子どもをたくさん見てきても、児童相談所はその子どもには対処しなかったわけです。ところが貧困家庭の子どもをそのまま放置すると、また貧困になっていくわけです。何とかしないといけないと思い、子どもの貧困の問題に取り組むようになりました。

沖縄の母子世帯の半分が貧困

 子どもの貧困問題に取り組めば取り組むほど、沖縄の子どもたちの貧困状況が非常によく見えてきまして、2016年には全国の2倍もいるということがわかってきました。貧困家庭の中でもいちばん貧困状態にあるのはひとり親世帯の母子世帯です。母子世帯では2人に1人が貧困だとわかりました。親自身が貧困だから子どもが貧困なのです。年間所得が200万円以下はワーキングプアですが、沖縄にはその当時で全国の3倍近くいて、非正規も全国に比べて高かったんです。
 だから生活保護受給者数が本当は全国1位になってもおかしくないけど、なかなか1位にはならない。なぜかと言うと、車を手放せないからです。車を持っていると生活保護を受けられませんが、生活保護を受けるより車を持っていた方がいい。家賃が払えなくて家から追い出されても、車があるとそこで寝ることができるとか、そういったこともあって生活保護は全国1位ではありません。
 「子どもの貧困」の与える影響がいちばん大きいのは、高校進学です。沖縄は高校進学率が全国の最下位、中退率も高い。高校と大学の進学率はもうずっと今まで最下位です。進学も就職もしないで中卒のまま社会へ出される「進路未決定率」がその当時は全国の3倍ぐらいありました。高卒の進路未決定率も全国の2倍~3倍です。そういう子どもたちが結局は仕事をしないでニートになって、それがひきこもりの予備軍になっていく。これも全国1位です。そういう形で貧困は子どもたちに影響を与えていきます。

沖縄戦による孤児の貧困

 それで私は沖縄の子どもの貧困はいつからか、復帰後なのか、戦争直後からなのか調べました。沖縄の貧困に大きな影響を及ぼしたことが二つあります。
 まず一つは戦争です。沖縄では地上戦が戦われました。地上戦では、子どもたちも全部戦闘に巻き込まれ、親を失った戦災孤児が生まれたわけです。その戦災孤児が約3000人いたということです。そのうちの1000人しか孤児院には収容されなかったということです。
 戦争で生き残った住民は、仮収容所へ収容されました。そこでは床なんかも板を敷いてあるかないかで、本当に衛生状態も悪くて、おにぎり1個しか食事も与えられなかった。だからせっかく生き残っても、この仮収容所の中で命を落とすという住民もいたということです。
 コザ孤児院では、当初は200人の収容予定が800人ぐらいに増えていたそうです。それで子どもたちはみんな裸です。その写真を見た女性が「風呂場ですか?」と聞いたのですが、これは風呂場ではないです。なぜみんな裸だったかというと、子どもたちの衣服が準備されていなかったのです。子ども用の食事もなくて粉ミルクを飲ませたらしいのですけど、粉ミルクを飲んだことがない子はすぐ下痢をしてしまう。翌朝には死んでいたという孤児もいっぱいいたということです。

本土では児童福祉法成立

 東京大空襲でも多くの孤児たちが浮浪児となり、母子世帯が掘っ立て小屋を作って子どもたちと住んでいたそうです。1946年の統計によると、少年犯罪が戦前の2倍に増えています。多いのは窃盗、強盗、それから殺人。これは少年の犯罪です。東京でもそういう浮浪児が町にいたわけです。
 当時日本を統治していたGHQが「この子たちを救う法律を作りなさい」と言って、日本は児童福祉法を47年に作りました。GHQは保護を要する子たちだけを救うための法律と指示しましたが、全ての児童を対象とした法律が作られました。この児童福祉法は素晴らしいものです。児童福祉法に基づいて設置すべき母子寮とか保育所などは、みんな児童福祉施設です。
 町には戦争未亡人がたくさんいましたから、母子寮や保育所がどんどん作られ、47年に112カ所だった母子寮は51年には407カ所で、50年代後半には600カ所ぐらいが各都道府県に作られました。皆さんの地域にも母子寮は必ずあると思います。母子寮には立派な勉強机があり、子どもが勉強したり、お絵かきをしたりする。それから午後、学校から子どもたちが帰ったら、少年指導員が子どもたちの宿題を見るという、同じ母子療の中で母子生活指導員も設置されていたということです。
 それから働くお母さんたちを支援するために認可保育所もどんどん作っていった。公立、社会福祉法人の保育所を1万カ所ぐらい作った。それから18歳未満の全ての子どもが無料で遊べる施設が児童館です。この児童館には体育館があり、18歳未満の子どもは無料でそこで遊ぶことができました。49年の大阪に作られた西淀川児童館ではおやつを出しています。本来なら児童館では食事は出さないのですが、ここではみんなおなかをすかせていたので、おやつを出したんだろうと思います。

米軍統治下で貧困は放置

 一方、沖縄では学校さえも作れませんでした。学校とは名ばかりで馬小屋にも劣るような、本当に机も椅子もなくて石を置いて、机が段ボール箱という状況でした。沖縄を統治した米軍には戦後数年たっても、沖縄の子どもたちの校舎の復興計画はありませんでした。そういう状況の中でいち早く教職員会が発足して、そしてこの状況を本土政府と全国民に北から南まで訴える運動をしたそうです。このときの教職員会の会長が屋良朝苗さんで、後の屋良知事です。
 1953年にやっと琉球政府が誕生し、遅れて6年後に児童福祉法もできました。だけど琉球政府はお金もない。だから児童相談所だけができて、母子寮も保育所も児童館も何もできなかった。貧困を放置したら非行になるという統計も出ています。青少年の非行が戦後過去最高で凶悪犯が4865件発生している。親はいるけれど子どもたちを学校に出せない、弟妹たちの子守とか子育てをやって学校に行けない。
 本土では青少年の健全育成のためにと、児童館に国庫補助がついた。その結果、毎年児童館が作られて2006年には4000くらいになった。本当にうらやましいなと思います。沖縄では、復帰前アメリカが統治していた27年間、児童館はゼロでした。

2016年に
貧困対策支援員が発足

 そして復帰後の1978年、児童館がやっと那覇市に建設されて、現在74館あります。沖縄は本土復帰すれば基地のない平和な本土並みの豊かな生活ができると思っていたけど、基地はそのまま残っています。しかも75年に沖縄海洋博覧会がありましたが、これがオイルショックと重なって不況になり、倒産とか夜逃げとかが増えて、子どもたちにしわ寄せが来ました。
 85年以降も貧困は家庭を直撃し、離婚率が全国1位になっています。何で沖縄は離婚率が高いのか。98年の調査では「夫の生活力がない、借金がある」など、根底には経済的な問題があったということです。母子家庭は全国の2倍超が現在まで続いています。離婚をすればお母さんが働いて子どもを育てますが、沖縄には大きな工場があるわけでもなく、母親が昼間働ける職場がなく、結局夜働くしかなくて、夜に子どもたちだけ置いて働くお母さんが増えてきたということです。
 夜親がいないと、子どもは当然不安になるし、しつけもちゃんとできない。朝起きられない。学校に行かせることができないとか。それから思春期になったら寂しいから外に出て市内を徘徊して非行も増える。そういう状況に気づいて、内閣府が沖縄の子どもを貧困から守りましょうということで、やっと2016年に10億円の予算をつけました。
 まず子どもの貧困対策支援員というのを市町村に121人配置し、子どもの居場所を135カ所設置しました。この貧困対策支援員が貧困の子どもを探して、そしてその子たちを居場所につなぐという仕事です。貧困の子どもをよく知っているのは学校ではないかということで、子どもの貧困対策で学校がプラットフォーム化されました。そのときに学校と協力をして貧困の子どもをピックアップして、そういう子どもたちを居場所につないでそこで支援をするという形をとったわけです。
 けれど、なかなか学校との連携がうまく取れなくて、当時の貧困対策支援員は苦労していたという経緯があります。私はこの居場所のコーディネーターをやったこともありますが、居場所のいちばんのメリットは直接支援です。同じ体験ができ、生活リズムが確立され、人とのいろんな関係性を育てることができます。ここでいう直接支援というのは、そこに行けば食事が取れる、それから宿題も教えてもらえ、そして一緒に遊んでもらえる。そう言う直接支援のメリットが非常にあったと思っています。

いちばんの貧困は若年の母子世帯

 最近になって私たちはそれだけでは足りないことに気づきました。居場所での子どもの支援は対症療法です。対症療法でなく、予防的な支援も必要ではないかということに気づいたわけです。そして、いちばん貧困の家庭の子どもから救っていきましょうと。ひとり親世帯の中でもいちばん貧困なのは若年の母、その子です。
 沖縄は若年出産が毎年全国の2倍です。それだけたくさんの若年の母子がいるということです。中にはお母さんが児童福祉法の対象の子どもで、子どもが子どもを産んで育てているというケースもあります。だからいちばん貧困の子どもを救うためには、妊娠中からの支援が必要ではないかと考えたときに、お母さんが自立しないことにはその子どもは救われないということで、自立に向けての支援が必要ではないかと思いました。
 その若いお母さんたちはほとんどが中卒で、なんの資格もなく、そして実家にお世話になっている。そういう若年母親の自立を考えました。いちばんは高卒の資格を取らせることです。けれどそれには時間がかかる。お母さんが働かないといけないということもあります。
 だから、まず運転免許を取らせましょうと。そして自分の部屋がないお母さんたち3人を私たちのところで預かって、子どもに食事も与えて保育所に連れて行く。そして運転免許を取らせて自立させるための支援事業を一般社団法人「おきなわ子ども未来ネットワーク」という私も関わっている団体が去年の9月から始めています。

予防的な視点からの
支援を

 これから地方議員の皆さんはこども計画の策定をするわけですけれど、それぞれの地域の特性を踏まえて策定してほしいと思います。沖縄は鉄軌道がなく、一歩外に出るには車が必要です。だから「自動車の免許を取らせますよ」ということから始めました。ただその金額は30万円と高く、そう簡単にはできません。自力ではできないからこそ私たちが寄付金を集めてやるわけです。彼女たちにとって、運転免許証は生まれて初めて取った唯一の資格です。ですから自己肯定感が高まり、一生懸命働いて車も買いたいという意欲にもつながっていきます。
 それぞれの自治体の特性があるはずですから、それを踏まえていちばんの貧困家庭の子どもは誰かということを把握して、そこから救っていくことです。それから対症療法的なものだけではなくて、予防的な視点からの支援を行っていくということです。
 それから、今増えてきている不登校の子どもが心配です。それを家庭だけに任せていいのか。親がしっかりしている子どもはちゃんとできるけれども、そうではない子どもたちが放置されて、沖縄も非常に不登校の子どもが増えています。これから考えていかないといけないのではないかと思います。

貧困解消の
最終目標は自立

 貧困解消の最終目標はやっぱり自立です。自立に向けての学歴と資格取得を目標にしてほしいなと思っています。
 私たちは運転免許を取らせる女の子たちを支援していますが、その子たちはほとんどが実家のお世話になっているわけです。その実家は狭いし家族も多い。そこを出たいと思っているけれども、部屋を借りるための初期費用の30万円が準備できない。また出たとしても家賃が非常に高いことで、生活保護を受けても、家賃の占める割合が高いから条件の範囲内でのアパートは借りられないとかということもあります。沖縄県の場合には市営団地でひとり親世帯の優先というのがありますが、くじ引きです。そうすると、くじ運が強い人しか入れないってことになるので、それよりは確実に入れるように、20世帯のうちに2世帯は母子世帯を入れるとか、そういったことを考えてもらいたいと思います。
 それと若者支援ですが、奨学金を借りた学生が200万円とか300万円を返さなきゃいけない。卒業してもとても結婚なんかできません。これを何とか免除する方法はないかと思います。
 最後に、去年の9月に韓国に行ってきましたが、韓国は若年の母親への支援がものすごく進んでいます。「愛蘭院」という施設がありまして、そこでは40人ぐらいの未婚のシングルの若年ママたちを預かっています。そこで食事も出して、子どもを預かって、高卒の資格を取らせる。大学へ行きたい人は大学まで支援するという施設です。そういう施設をぜひ沖縄にも作りたいと思います。
 また韓国では若年の女の子の出産問題は、個人の問題ではなく社会問題だということで、そこの女の子たちが「自分たちは2、3年あれば自立できます」と語っていました。日本でもこの問題は社会問題だということを、みんなで訴えていきたいと思っています。

 (本稿は、1月30日の第20回全国地方議員交流研修会分科会での報告を基にしたもの)

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