友好交流を支えた苦難の4000キロ「朝鮮通信使の道」

祝・朝鮮通信使のユネスコ「世界の記憶」登録!

写真家 仁位 孝雄

1 私と朝鮮通信使

 私は、対馬をPRするため1989年から朝鮮通信使をテーマに、江戸時代ソウルから対馬を経由して江戸、日光までの朝鮮通信使の足跡をたどりながら写真を撮り続けている。撮り始めた90年代は、朝鮮通信使が宿泊したお寺(客館)に撮影に行っても、ご住職が朝鮮通信使って何ですか?と全く通じなかった。
 2002年に長崎市で開催した朝鮮通信使の写真展では、これは遣隋使ですか遣唐使ですか?との質問があるなど一般の方には朝鮮通信使は全く認知されていなかった。

2 朝鮮通信使の記録物のユネスコ「世界の記憶」登録

 日韓両国に残る朝鮮通信使に関する記録物が「平和の象徴」として昨年10月31日にユネスコの「世界の記憶」に登録された。
 ギクシャクする日韓関係の中で両国の民間サイド・NPO法人朝鮮通信使縁地連連絡協議会と釜山文化財団が共同して作業を行い、ユネスコ「世界の記憶」に登録されたことは意義深い。

登録リスト
日本側・48件 209点(朝鮮国書ほか)
韓国側・63件 124点(日東壮遊歌ほか)
 合 計・111件 333点

3 朝鮮通信使とは

 朝鮮通信使とは、徳川幕府の将軍が新しく襲職した時にお祝いに朝鮮国王が派遣した使節のことで、江戸時代には12回来日、江戸まで10回(うち3回は日光まで)、京都まで1回、1811年の12回目の最後の朝鮮通信使は、対馬で国書交換が行われた。
 この江戸時代の朝鮮通信使の前段には、豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」の悲惨な歴史がある。

4 文禄・慶長の役

①名護屋城址
 1582年6月、運よく政権を握った豊臣秀吉はわずか数年で大きな野望を抱き、91年朝鮮・明への出兵の本拠地として佐賀県鎮西町に名護屋城を築城し15万人を超える大軍で92年4月朝鮮に攻め込んだ。

②加藤清正と小西行長と宗義智
 熊本城主・加藤清正と宇土城主・小西行長は境界争いが絶え間なく非常に仲が悪いなか朝鮮に出兵した。
 小西行長と娘婿の対馬藩主・宗義智は常に相計りながらある時、対馬藩主・宗智義が部下に蔚山にある加藤清正の城(西生浦倭城)に火をつけろと命令。火をつけに行くとこの城は「板壁が張り巡らされ板には黄色い土が塗ってあり今日は雨が降って濡れているので火をつけても類焼しない。また、悪いことには城の中に和議交渉のために朝鮮の僧侶・松雲大師が入っているので、火をつけるのは日を改めた方が良い」と帰って宗義智に報告している。(朝鮮王朝実録より)

③告身(写真:長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵)
 前述のように小西行長と宗智義は朝鮮と戦う一方で朝鮮側のために情報を流すなどさまざまな協力をすることによって、朝鮮は、対馬人に朝鮮軍の官職を告身(辞令)によって与えている。写真の告身は、対馬人の信時老に朝鮮軍・五衛軍龍驤衛の司直(官職)(正5品の位階)に任命した辞令で、しかも萬暦25年正月は慶長2年正月(1597年)で再度日本軍が攻め込む時期にこのような辞令が出ており興味深い。

④日延上人(写真:妙安寺に伝わる日延上人の御尊顔)
 日延上人は、4歳の時に加藤清正によって日本へ連れてこられた。日本では朝鮮第一王子・臨海君の長男といわれるこの男の子は、福岡の法性寺で出家、京都の本国寺で修行、26歳の若さで千葉県小湊にある日蓮宗大本山誕生寺の18世貫主に就任。後に福岡へ帰り、黒田藩の支援を受け、警固に香正寺を創建、晩年唐人町に妙安寺を創建し77歳で入寂した。御尊顔は、2002年同寺を訪れた韓国の圓光大学校の梁銀容教授がこれではあまりにもかわいそうだと御尊顔を借りて韓国へ持ち帰り、韓国の金山寺で同材の銀杏の木で胴体を製作し同寺で開眼供養。この御尊顔と妙安寺のご住職は臨海君の墓参りを行った。福岡市警固の香正寺には、黒田藩が納めた若かりし頃の日延上人の木像が祀られており、香正寺に向かう道を今でも上人通りと言う。(韓国では日延上人は臨海君の子供と認知していない)

⑤文禄・慶長の役の終結と国交回復
 文禄・慶長の役は、1598年8月豊臣秀吉の病死によって終わる。戦争が終わると同時に対馬藩主の宗智義は国交回復してくださいと使者を朝鮮に送るが、ことごとく殺されて帰ってこなかったという。

⑥徳川家康と朝鮮僧侶・松雲大師の伏見城会談と対馬藩の国書改ざん
 豊臣秀吉の死後政権を握った徳川家康は、日本の実情を探るため派遣された朝鮮僧侶・松雲大師と1605年3月伏見城で会談、大筋で国交回復が妥結する。
 後日、朝鮮側から対馬藩に国交回復の二つの条件が提示された。
 一つは先の戦争で朝鮮国王の陵墓を暴いた犯人を差し出すこと。
 二つ目は、徳川家康の国書を先に提出すること。
 対馬藩主・宗智義は悩んだあげく対馬藩の命運をかけて大博打を打った。これが有名な国書改ざん事件である。
 対馬藩主・宗義智は、一の犯人は対馬の罪人を仕立て、二の徳川家康の国書は対馬で偽造、これが奏して1607年国交が回復した。国書改ざんに使用された日本国王、朝鮮国王の偽造印は九州国立博物館で見ることができる。

5 朝鮮通信使の来日

 対馬藩主・宗義智の英断により国交が回復し第1回目の朝鮮国王の使節が1607年3月来日した。この時の名称は朝鮮通信使ではなく「回答兼刷還使」(3回目まで)で、回答とは徳川家康が先に提出した国書に対する回答であり、刷還とは先の戦争で日本に連れてこられた俘虜を連れ帰る目的であった。
 総勢467名もの大使節団(正使・呂祐吉)の副使・慶七松の著作「海槎録」には、「……3月29日釜山で海神の祭祀を行い午前8時に帆をあげた。海の中ほどまで来ると向かい風が船を打ち、巨浪が天にも達するので水夫達が気勢をなくし船は傾き、上がるときは天に登るごとく、下がるときは地底に入るごとく……釜山に帰ろうとすると海路は既に遠く、進退両難に陥り……」とある。
 敵国日本を行く朝鮮通信使にとっては辛く厳しい長旅であったに違いない。
 道中各地で詩文の交換等文化交流をしながら、時には侃々諤々論争しながら12回にわたって往来した朝鮮通信使の役割は江戸時代「200余年間の日朝の平和」に貢献した。

①朝鮮通信使の経路
 釜山から対馬・佐須奈に着いた一行は対馬の東海岸を南下し対馬・厳原―壱岐・勝本―福岡・相島―山口・下関―広島・下蒲刈―岡山・牛窓―大坂―淀からは、陸路で京都―大津など東海道を通って静岡―箱根―品川―江戸―日光と約8カ月前後の日程で往復した。朝鮮通信使一行は約470人前後、案内警護する対馬藩約1000人と大規模な使節団として江戸をめざした。

②三之瀬長雁木(広島県下蒲刈)
 下蒲刈のこの長雁木の岸壁に朝鮮通信使の正使の船が着岸したと表示されている。
 ここには、「御馳走一番館」という素晴らしい朝鮮通信使資料館があり必見である。

③朝鮮通信使人形
 朝鮮通信使人形の「小幡でこ」(土人形)は、滋賀県東近江市五個荘小幡町で作られた。初代細居安兵衛は京都通いの飛脚をしていたが、道中追い剝ぎや恐喝等に再三遭い、家の中でできる仕事を模索する中で当時盛んに売られていた伏見人形に着目、伏見人形の製法を身につけ「小幡でこ」を考案した。
 朝鮮通信使行列のインパクトの強さを物語るように当時土産品として朝鮮通信使人形が京都、青森、福島、山形など各地で作られた。

④正使・趙曮と対馬の薩摩芋(コグマ)
 1764年来日の朝鮮通信使の正使・趙曮は、対馬・佐須奈で薩摩芋を求め釜山・影島へ送った。今、釜山・影島区ではこの対馬から持ち帰った薩摩芋(韓国では「コグマ」という)でコグマ歴史公園整備事業が展開されている。

⑤雨森芳洲と玄徳潤が説いた「誠信の交わり」
 「……270年前、朝鮮との外交にたずさわった対馬藩の雨森芳洲は、〈誠意と信義の交際〉を信条としたと伝えられ相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東莱に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。今後の両国関係も、このような相互尊重の理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう。……」
 これは1990年5月24日、宮中晩さん会で来日された盧泰愚韓国大統領の答礼のあいさつ(草稿・徐賢燮元大使)である。
 対馬藩・雨森芳洲(写真:肖像画・芳洲会所蔵)と朝鮮・玄徳潤は外交の実務者として「誠信の交わり」(欺かず争わず真実をもって交わること)を実践した。

6 おわりに

 日本と韓国が平和の象徴として共同作業の中で朝鮮通信使の記録物がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。慰安婦像などギクシャクしている日韓関係ですが、対馬藩・雨森芳洲と朝鮮・玄徳潤が説いた「誠信の交わり」を今一度ひもときながら、未来に向け明るく楽しい日韓交流の礎を築いていただきたいと願っています。

にい たかお 写真家・長崎県美術協会名誉会員 1940年生まれ、長崎県対馬市出身。長崎県対馬支庁長等歴任。朝鮮通信使の写真展、大学等での講演活動を実施中。朝鮮通信使の写真展(現在31会場で開催)等日韓交流の功により、2008年「大韓民国外交通商部長官表彰」、09年国際交流部門において「長崎県民表彰」受賞。

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