九州地区日朝友好親善訪問団に参加して

長崎県教職員組合中央執行委員長 堤 典子

 去年、10月2日~7日の日程で、福岡県日朝友好協会が主催する「九州地区日朝友好親善訪問団」(兼/福岡県第10次・鹿児島県出水市第6回)」に参加して、初めて北朝鮮を訪問した。「(米朝の関係が緊迫している)今の時期に行って大丈夫ですか?」と何人からも聞かれた。外務省も渡航自粛は言っていたようだ。しかし、本当に大丈夫でないなら、許可されるわけがない。
 一行は訪問団25人とマスコミ関係者4人の計29人で、北京に一泊して10月3日に平壌入りした。現地で出迎えを受け、空港から市内までは朝鮮労働党のベンツ3台に日本の友好協会の会長・副会長と朝鮮総聯の代表らが乗車し、残りの私たちはマイクロバス2台に分乗して、以後、最終日まで移動するときは同様だった。今回の訪問団を、共和国側は国会議員等の政治家に対応する朝日友好親善協会が受け入れてくれた。

 ホテルに到着後、さっそく役員数人で表敬訪問を行った。私は5人の副団長の一人として、これに参加した。朝日友好親善協会の柳明善会長は、朝鮮労働党国際部副部長の要職にある人で、訪問は終始和やかな中に行われた。柳会長は「長崎から参加の人もいますね」と特に言及された。訪問の終わりの方で私は発言を求められ、「長崎・広島は原爆で大変な被害を受けた。核戦争に勝者はない。私たちはどこの国の核兵器にも反対で、核はなくしていくべきだ」といった趣旨のことを述べた。柳会長は、「米国による敵視政策、60年前からの核威嚇に対し、北東アジアの平和が守られるよう、自衛のため、われわれの生存権を確保するために核を持った。米国が敵視政策を撤廃しない限り、核は放棄しない。自衛のためなので、こちらからほかの国を攻撃することはない」と発言した。

 私は被爆地の声を十分届けられていないもどかしさを感じていたが、訪問後、同席した皆さんから、広島・長崎に言及したり、「ほかの国を攻撃することはない」の発言を引き出せたりしたのは、大変な成果だと称賛された。自分たちもこれまで同様のことを言ってきたが、ここまで踏み込んだ回答は得られなかった、とも。「長崎から来た」の一点だけで引き出せた発言だったのかと思う。

 表敬訪問後は歓迎夕食会。翌日から3日間、板門店、米軍による大虐殺の史実を伝える信川博物館、朝鮮解放戦争勝利記念塔、主体思想塔、大学教授の高層マンション自宅、穀物加工工場、孤児のための寄宿学校、病院、障害者協会等を訪問し、折しも1カ月間の研修に来ていた福岡の歌舞団を音楽大学に激励に行ったりもした。
 金日成主席・金正日総書記の遺体を安置する太陽宮殿の参拝や、金日成主席の生家・万景台見学も行い、そこで記念植樹をした。生家訪問は最終日に朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」に写真つきで紹介され、帰りの飛行機内で目にすることができた。

 平壌は2012年以来建設ラッシュで、多くの高層ビルが建てられ、訪問先では、短期間のうちに建物が完成したことを誇らしげに語られることが多かった。スマホを持つ人も多く、歩きスマホも見られた。電力は不足しているということで、平壌市内はともかく、農村部では照明を節約して使っているように見えた。ただ、経済制裁はこれまでも繰り返し受けてきており、人民はそんなことには負けないと意気盛んな様子がうかがえた。

 短い期間の滞在で、印象深かったのは、都市(現代)の高層ビルと農村(日本の1960年代頃か)の風景が同時にあること、徒歩や自転車で移動する人々の多いこと、しかも長い距離を。10月4日の旧暦8月15日は、朝鮮ではお盆にあたり、家族や親戚と、ごちそうの包みを持って丘陵地に墓参に行く姿があちこちで見られた。耕運機なども少し見かけたが、牛に荷台を引かせたり農耕させたり、またそれ以上に人々が鍬で田畑を耕す姿を圧倒的に多く見かけた。一家総出で農作業に汗を流したり、近所の人と交流したり、地域みんなで共同作業をしたり行事に参加したりする、質素ではあるが、日本ではほとんど見られなくなった光景がたくさん残っていた。
 絶えず新しい便利なものが生み出され、型や性能がちょっと古くなると見向きもせず、熾烈な競争社会の中で過剰なサービスに慣れっこになっている私たち。多すぎる物に囲まれながら、もっと多くの富や財産を欲しがる、その世界の価値観を物差しにしたのでは測れない、私たちの世界にはない別の豊かさがあると思った。

 一般の海外旅行と違い、私たちだけで行動することはできなかった。平壌駅を見に行った人たちは、駅の中に入れてもらえなかったそうだ。また、平壌市内を中心に、あらゆる場所に指導者親子の功績をたたえる肖像画や写真、建造物があった。訪問先全てで、三代の指導者の教えが紹介され、これが訪問の第一目的であるような扱いだった。私たちから見ると過剰と思えるこの個人崇拝は、共和国の体制を維持し、人心を掌握するのに必要とされているのだろう。荘重な建造物や巨大なモニュメントの建設費は、インフラ整備や人民の生活の向上に充てればいいのにと思うが、人々はこれを誇りにしているという。

 米国は1957年から韓国への戦術核兵器配備に着手し、92年末に完全撤去するまで、一時は1700発もの核兵器を配備して共和国への核威嚇、核による恫喝を行ってきた。また、78年「米韓共同防衛条約」に署名し、韓国に「核の傘」を提供して、米韓演習に核兵器を参加させた。そして朝鮮半島の情勢が緊張するたびに、核兵器使用を選択肢に入れた。共和国を核・ミサイル開発に追いやったのは、まさしく朝鮮半島で核戦争を追求し、さまざまな脅威と危機をつくり出してきた米国とその同盟国たる日韓の3カ国の側である。朝鮮半島の非核化実現のためには、まず米国が朝鮮への軍事的圧力や核恫喝政策をやめなければならない。そして、米朝国交正常化、日朝国交正常化、南北朝鮮間の交流と協力へとつなげていかなければならないと思う。

 しかし、米国の軍産複合体制―巨大な軍需産業と投資家、連邦議員、政府高官、米軍幹部、各種研究機関や情報機関等々、朝鮮半島の平和と安定を望まない勢力が存在する。常に米国への脅威または同盟国や地域の脅威となる敵対勢力をつくっていれば、これらの勢力は繁栄し、力を発揮することができる。これらが、ホワイトハウスや国防省を動かし、大統領もコントロールして、米マスメディアはホワイトハウスでつくり出された危機感や国務省の意向を報道している。

 日本では米国の側に立つ一方的な情報ばかり聞かされ、「北朝鮮の脅威」が繰り返される。それを、主要マスメディアも識者も不条理だと声を上げることはない。安倍政権は北朝鮮危機を政権の支持拡大と軍備増強に利用するばかりで、東北アジアの平和と非核化について、関係国に働きかける姿勢は全く見られない。唯一の戦争核被爆国、北朝鮮・韓国の隣国として、米国の対北朝鮮政策を変えさせる努力をするべきだと思う。朝鮮半島と日本の間にはさまざまな課題が横たわる。しかし、日朝友好を進めることを、まず優先しなければならないと強く感じた。

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