米国からの完全な独立、アジアの平和・共生へ 沖縄県民の闘いと日米関係

全国総会特別企画―米国からの完全な独立、アジアの平和・共生へ

沖縄県民の闘いと日米関係

沖縄県議・オスプレイ配備反対県民大会実行委員会事務局長 玉城 義和 さん

虎の尾を踏んだ鳩山さん

 一昨日、総理大臣だった鳩山さんが政界を引退されるという報道がありました。沖縄では鳩山さんと言えば、「国外、少なくとも県外」と言って県民を喜ばせ、うっちゃりで絶望感を持たせた人です。県民はだまされたと感じており、民主党凋落の出発点をつくった人です。

 ただ、私は非常に複雑な心境です。これまで何年も続いた政府の中で、普天間基地を県外あるいは国外に持っていこうと言った総理はいない。そういう意味では、私は鳩山さんの善意を信じています。彼は当初、これほど過重な基地を沖縄に置くわけにはいかない、復帰以前も復帰後も沖縄は大変苦労をしていると、よくわかっていた。その善意を疑う余地はないと思っています。政治手法が稚拙だとか、民主党全体が彼をサポートしなかったとか、外務省や防衛省の役人が寄ってたかって彼を包囲したとか、そういうことがあったのだと思います。最近、彼が書いたものを読むと、アメリカのジャパン・ハンドラーや日本のカウンターパートナーたちがグルになって彼を抑え込んだ。虎の尾を踏んだと、本人も言っています。基地問題とか日米同盟に少しでも異議を唱えようものなら、官僚も含めて日米安保で食っている類の人たちが寄ってたかって引きずりおろす。そういう不条理なことがやられた。
 少し落ち着いた頃に、鳩山さんを沖縄に招いて講演会をやり、洗いざらいぶちまけてもらおうと考えています。何があって彼の思いができなかったのか、話していただく催しをやって、今の安保体制、日米同盟に巣食っている有象無象を暴き出し、問題解決へ少し前進させようと、那覇で準備しています。

講和条約と天皇メッセージ

 現在の基地問題をお話しする前に、それ以前のことを少しだけ申し上げたいと思います。
 ポツダム宣言は、日本の主権が及ぶ範囲を、本州、北海道、九州、四国と小さな島にするとしました。それを受けて、1952年の講和条約で、沖縄、北緯29度以南の奄美諸島等々が本土から切り離されました。その講和条約の検討が、1947年ころからアメリカで始まります。その時に日本政府が沖縄に対してどういう態度をとったのか、調べてみました。非常に冷たい態度をとっています。ご承知のように、天皇メッセージというものがあります。これはGHQから国務省にあてた1947年9月の文書の中にあります。「日本国天皇は合衆国が沖縄及び琉球の他の諸島を軍事的に占領し続けることを望んでいる」と書かれています。もう1つ、交渉に取り組んでいた駐日米大使は「沖縄返還について、沖縄、奄美では強い要求があるのにもかかわらず、日本政府からは何の要求もない」と国務省に報告しています。
 こういう背景があって、講和条約の第3条で、沖縄は奄美、小笠原とともに切り離されて、27年間の米軍支配が続くことになります。高等弁務官という1人の軍人が、行政・司法・立法の三権を握ってやりたい放題のことをやる。まさに帝王そのものです。終戦まぎわに海軍の大田実少将が「沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」という電報を海軍に打ちました。この特別の御高配が27年間の軍事支配だったと思うと、忸怩たるものがあります。
 講和条約後、沖縄の基地がどういうふうにして成り立っていったかは、ご承知の通りです。1952年から55~56年にかけて、高等弁務官が出す布令布告という法律に基づいて、強制的に住民を立ち退かせます。「銃剣とブルドーザー」で土地を奪い取っていく。こういうことがずっと続いて、今日の広大な基地になったわけです。

海兵隊が沖縄に集中する理由

 なぜ沖縄に海兵隊が集中しているのか。これがいつも沖縄県内で議論になります。
 防衛省も必要にかられてパンフレットを出して説明していますが、合理的で説得力のある説明になっていません。「地政学的」という常套用語を使い、沖縄は朝鮮半島にも台湾海峡にも近いから、沖縄に海兵隊を置いているのだと説明しています。しかし、距離を測れば、福岡や熊本の方が朝鮮半島に近い。福岡に持っていけという意味ではないですよ。説明が合理的でないと言おうとしているのです。佐世保に強襲揚陸艦の基地があり、佐世保から沖縄に来て海兵隊を乗せていきます。それなら、海兵隊を北九州に集めた方がいいということになります。「地政学的」という理由は説得力がない。
 いろいろ調べたら納得できる理由がありました。NHKが出版した『基地はなぜ沖縄に集中しているか』という本の中で、海兵隊にもいたことがあるアラン・ミレットという大学の先生が明らかにしています。
 1956年から57年のアイゼンハワー政権下で、海兵隊は沖縄、岐阜、大阪、御殿場など、日本各地に分散して配備されました。その海兵隊が、なぜ沖縄に集中されたのか、ミレットは4つの理由をあげています。
 第1は、本土各地で基地反対運動が激しくなったためです。石川県などでも反対運動が起こっています。
 第2は、自衛隊の創設。米軍を本土に置くと、独自の軍隊をしっかりつくろうという気概が起こらず、自衛隊の生成を妨げるためです。
 第3は、本土では土地などのコストが高いためです。沖縄ではすでに基地がつくられていますから、コストをかける必要がありません。
 第4は、本土での駐留は占領軍とみなされ、良好な日米関係を築くのが困難になるためです。だから、沖縄に移した。東京や大阪、本土から見えにくい沖縄に置けば、本土の人は海兵隊について考えずにすむ。これが沖縄に海兵隊を集中させた本当の理由だと私は思いました。
 最初に申し上げた講和条約も含めて、沖縄に対する日本政府の考えは一貫しています。琉球処分という話もありますが、いざという時は沖縄を見捨ててきました。

日米安保からも外された沖縄

 もう1つ調べて分かったことがあります。60年安保の時に沖縄は復帰していませんが、沖縄を安保条約の対象に含めるか否か、与野党で議論がありました。結局、沖縄を含めませんでした。理由は沖縄の核兵器です。60年安保で核兵器の持ち込みは事前協議の対象になりました。沖縄を含めると沖縄に核兵器を持ち込むのが難しくなり、核の傘で日本を守るのに都合が悪い。だから、沖縄を外したのです。ここでも日本政府の考えは一貫しています。
 ついでに申し上げると、地位協定というのがあります。地位協定も60年に改定されました。復帰前ですから地位協定も沖縄を対象にしていません。普天間基地のようにあれだけ住民地域と基地がくっついていることは、地位協定で想定されていないと思います。それも沖縄における事件・事故の多発につながっています。そういう意味でも、安保条約、地位協定の不備は明らかです。
 だから、沖縄県は11項目の地域協定改定を要求をしています。しかし、20年近く経つのに1歩も進まない。なぜ進まないのか、外務省の地位協定対策室に聞きました。「地位協定を改定すると、安保条約の第5条や第6条に手をつけざる得えません。だから、解釈の運用でいくのです」。担当者はそう言いました。沖縄が抱えている問題は、安保条約とギリギリのところでせめぎあっていることがよくわかります。

基地を撤去しなければ
 事件・事故はなくならい

 日本にいる米軍は約3万6千人です。このうち沖縄には海兵隊を主として約2万5千人います。人口1万人あたりの人数は、本土が0・8人、沖縄が180人で、沖縄は本土の約225倍です。沖縄本島の面積は12万ヘクタールで、琵琶湖の約2倍ですが、そのうち米軍基地の占有面積は2万3千ヘクタール。つまり沖縄本島の20%が米軍基地です。それも中部地域の平らで使いでのよい所が全部基地です。
 1万人以上の米軍がいる国は日本、韓国、イタリアとドイツだけです。ドイツは約5万3千人、イタリアは1万1千人足らず、韓国は2万5千人です。ドイツの5万3千人は、計画が出ていて、3万人に削減されることになっています。日本はいかにアメリカ兵、米軍の負担が大きいか、これでわかります。その中でも2万5千人が沖縄にいるわけですから、沖縄は世界に冠たる米軍駐留地ということになっています。事件・事故が起こらない方が不思議です。
 こういう中で、女性に対する暴行事件だとか、夜に寝ていると酔っ払った米兵が入ってきてぶん殴られるようなことが次々に起こっています。県議会はそのたびに決議し、防衛局や外務省の沖縄大使と交渉しますが、綱紀粛正で2度と起こらないようにすると言うだけです。全国で兵士の夜間外出を禁止しましたが、守られるはずがない。2万5千人もいる兵士をひとりひとり教育するのは不可能です。ローテーションで兵士もどんどん代わります。だから、沖縄では、「基地の全面撤去」という文字が県議会の決議に入るようになりました。どういう対策を立ててもだめだから、基地を撤去しなければこういう事件・事故はなくならない。当たり前のことが、県民の声として県議会の決議にやっと出てきたのです。
 米軍基地の縮小について、私たちが県民的にアピールを出したのは95年の県民大会です。女の子が3人のアメリカ兵士によって暴行される事件が起こりました。絶対に許せない事件で、8万5千人の集会になりました。この集会を契機にして、橋本総理とモンデール駐日大使が普天間基地の返還で合意しました。しかし、実際には辺野古への移設でした。あれから16年たちましたが、返還は一向に進まない。進まないだけでなく、普天間基地のヘリコプターが大学に墜落しました。普天間基地の危険性は増すばかりです。辺野古の反対運動も強まっています。
 こんな小さな島でこれ以上の基地をつくることに、県民は当然にも反対しています。ジュゴンが棲んでいる特級のきれいな海を土砂で埋め立て、そこに米軍のオスプレイを飛ばす。そういう時代ではないのです。そこにはおじいちゃんやおばあちゃんが座り込んで反対運動をしています。そのおじいちゃん、おばあちゃんを機動隊で排除して、基地をつくりますか。世界から環境団体も来ます。それを海上保安庁の船で排除して、基地をつくれますか。これは東京の防衛省で鉛筆をなめて書いている人にとっては可能でしょうが、現場ではとてもできる話ではない。
 保守党の政治家であれば、もう少し現実に目を向けて、何が可能で何が不可能か、考えるべきでしょう。自分たちが政権をとっている間、自分が防衛大臣や外務大臣である間だけ、何とか時間を過ごせればいい。後は野となれ山となれ。だから16年経っても何も動かない。それは自民党政権から始まっているのですから、そこは責任があると思います。本気になってどうにかしようという心境にはなっていない。非常に無責任です。とても腹立たしい。

米軍基地で
 地域経済はよくならない

 基地問題にまとわりついてくるのが財政的な振興策という問題です。冷戦構造が壊れる前は、あまりなかったという気がします。米軍基地はアメリカを中心とした自由主義体制を守る砦だという価値観をバックにしていたからです。しかし、冷戦が終った後は一種の厄介者になり、産業廃棄物施設と同じように金をつけないとどこも受け入れない。辺野古についても、金をどんどんあげますから、受け入れてくださいという話です。こういう問題は東京のように財政の強いところでは起こらない。
 曲球を投げれば世論が割れます。地域は過疎化しているから、基地を持ってくれば、アメリカ兵が来て少しは景気がよくなるんじゃないかとか、基地を受け入れれば金がきて、会館でもつくれるんじゃないかとか、そういうふうに思う人たちが半分は出てきます。これまで非常に仲良くしてきた地域社会が分裂してカサカサの状態になり、親兄弟も親戚も友人も何となく疑心暗鬼になって、彼は賛成派か反対派かよく分からんと、話ができなくなる。そういう地域社会の崩壊につながっていくような現象が起こっているわけです。非常にさみしくて残念なことで、情けないことです。賛成派にしても、心のどこかでは非常に悔やんでいると思います。こんなことをしちゃいけないと思っているので、心の中に沈殿してくる情けなさと屈辱感は一生涯ぬけない。こういうことが子どもたちにも伝わっていくのを、なんとしてもどこかで止めなければなりません。
 名護市は、今は反対派の市長が2年間やっていますが、それまではずっと賛成派の市長でした。金は相当入ってきたけれど、町はよくなっただろうか。失業率をとっても、生活保護の世帯数をとっても、学校に行くのが困難な児童就学援助の必要な家庭数をとっても、よくなっていません。全部悪くなっています、これはどうしてなのか。町がにぎわう、振興するとはどういうことか。考えてみれば当然のことですが、たとえば湯布院などはその見本だと思います。町の人が知恵を出し、汗を流して、わが町の特産は何だろう、わが町にあって他の町にないものは何だろう、そういうことを一所懸命に考える。じゃあ、わが町はこれでいこう、こういうものをつくれば観光客が来るんじゃないかと地元でしっかり考えて、そのために予算はいくら必要かという順序になります。
 ところが、基地の場合はまったく逆で、1年間に100億円使ってくださいと金が投げ込まれます。そうすると、役場の企画部は大変です。何に使っていいかわからない。ノイローゼになってしまうわけです。こういう金の使い方では、いくらやっても町は元気にならない。日本政府はそれでいい。むしろ、町が元気になって、基地はいらないとなったら困る。いくら金を投げ込んでもどうにもならんので、基地依存が続くわけです。まさにナンセンスなことです。私はそれを考えると夜も眠れないぐらい腹が立ってきます。基地と振興策というのは考え直さなけれならないような現状にあります。
 もう1つ、世間的に沖縄は基地があるから相当お金をもらっているのではないかという話があります。いろんな制度があることは事実ですが、日本政府から沖縄への財政移転の額は沖縄がトップではありません。鳥取、島根、高知、そして沖縄という順序になっています。私は4番だからいいと言っているのではありません。鳥取、島根がどうということでもありません。大きな誤解があると言いたいのです。
 普天間の飛行場は480ヘクタールありますが、そこで働いている軍作業員は200名しかいません。これがもし返還されると、広大な場所で那覇空港にも近いので、とても使い勝手がいい。開発によっては、何千名という雇用を生み出します。そういう構想が地元の経済団体も含めて出ています。経済効果は年間9150億円と計算されています。これは県議会の事務局が計算した金額で、経済効果は現在の2・2倍ぐらいになります。つまり、基地があるゆえに、経済効果は半分しかない。基地が経済振興の障害になっています。こういうことがいろんな研究所の調査で出ています。
 基地収入が県民所得に占める割合は、1972年が16%、今日は5%まで落ちてきています。基地に頼らなければ沖縄はやっていけないというのは、日本政府がつくったストーリーであって、現実はそうではないということを申し上げたかったわけです。基地の撤去をやりながら、経済的に足腰を鍛えていこうと考えています。

オスプレイ配備反対の闘い

 オスプレイが普天間に配備されることは、1992年頃からアメリカの情報として分かっていました。ところが日本政府は配備まぎわになるまで、そんな連絡は受けていないと言って、情報を公開しませんでした。
 私たちは、普天間は世界一危険な飛行場だ、閉鎖し返還してくれと言ってきました。政府もやりましょうと言った。そこにオスプレイを配備すれば、普天間の固定化につながります。オスプレイは何回も墜落し、30数名もアメリカ兵士が亡くなっています。未亡人製造機と言われるほど危険です。普天間の固定化やその危険性から、私たちはオスプレイ配備を絶対容認できないと県民大会を開き、県民総ぐるみで訴えてきました。沖縄には41市町村あり、保守も革新もいます。その首長、議会、議長会を含む地方自治体の全メンバーを網羅して、県民大会の実行委員会をつくりました。生協や経済団体、医師会や弁護士会、農協や漁協、青年会や婦人会、沖縄の主な団体を全部網羅した実行委員会で、9・9の県民大会をやりました。台風が来たりして大変困難だったのですが、10万人以上の人が集まりました。県民大会後に上京して、沖縄の総意としてオスプレイは受け入れないと日本政府に申し入れました。沖縄はオール沖縄でオスプレイに反対ですと国民に訴えました。
 これまでは、大会が終わって東京に来ればそれで終わりでした。しかし、今回は大会後に普天間の基地前に座り込み、1週間にわたって反対の意志表示をしました。基地前の座り込みは、自民党などの保守的な市町村長にとってはとても勇気のいることです。赤旗が林立する中で、オスプレイ反対とやるわけですから。最初はとまどっていましたが、いっしょにこぶしをあげるようになりました。堰を切って新しい流れが始まったと、私は感じました。
 私たちは全市町村長で100名ぐらいの上京団を組織して、12月16日に連名の建白書で野田総理に直訴し、官邸前に座り込み、日比谷の野音で集会をやる、という計画を立てていました。ところが、16日が選挙の投票日となり、これはかないませんでした。仕切りなおして、1月27日頃に、新内閣に直訴しようと考えています。

県民統一戦線の萌芽

 県民大会が終点ではありません。始まりです。持続する闘いを組むことが非常に重要です。全国でもいろんな団体がいろんな規模の集会をやっています。私も10数県まわっています。徐々にではありますが、そういう闘いが全国にも広がってきており、従来の闘いとは少し違うのではないかと感じています。オスプレイの県民大会実行委員会は東京行動まではやりますが、今年いっぱいで閉じます。問題はその後どうするかです。私は95年から4回、県民大会実行委員会をやっていますが、その基本的な考え方は1日共闘です。県民大会のために集まった団体です。いろいろ交渉があるため、1週間だったり10日だったり、今年は半年動いていますが、基本は1日共闘です。もう少し持続的に県民一同が結集できるような組織をつくる必要があります。
 幸いにして、自民党県連の元幹事長だった人が那覇市長です。彼は政党の枠を超えて、政治的枠組みをつくろうと提言しています。これは非常に時宜を得た提言で、日本政府やアメリカ政府と日常的に対峙していく組織にする必要があります。かつて沖縄では復帰をめざす、復帰協という組織がありました。幅広い組織でしたが、自民党は入っておらず、県民全体を網羅したわけではありません。県民全体を網羅することもできるそういう組織をつくって、3~5年も運動できればすばらしい。首長さんを中心に、県民統一戦線の萌芽みたいな組織です。県民の理解を得て、この萌芽を活かしていきたい。それができれば、沖縄の運動の質的転換につながっていくのではないかと思います。
 私が考えていたのは、夢みたいな話ですが、たとえば10年くらい、沖縄の全政党を解散して沖縄県民統一党をつくり、この組織で基地問題の解決にあたることでした。中国の国共合作のように、向こうに敵を定めて闘っていく。それができればいいのですが、各政党を解散させるわけにはいかない。現実的でない。だから、今は、各政党や政治勢力を残しながら、それを超えて統一戦線的な組織を、緩やかだが強靭に闘う気持ちを持つ組織をつくりだせれば、非常に大きな力になっていくだろうと考えています。那覇市長選挙も終りましたので、そういう相談もしてみたい。ここにお出での経験豊かな吉元・元副知事からもご教授いただきたい。そう思っています。

安保条約と県民意識の変化

 先ほど、安保条約の話が中江先生からありましたが、沖縄的に言えば、今度の暴行事件もオスプレイもすべて安保に関わる話です。県民がとても不思議に思っているのは、これだけ県民が反対しており、墜落する可能性も高く、普天間の固定化につながるオスプレイ配備について、日本国総理がアメリカに一言も言えないことです。野田総理が公の場で「自分たちがとやかく言う問題ではないと」と言っています。日本国政府は県民や国民の安全について何ら発言することができない。安保条約第6条はそういうことになっています。第6条に関わる事前協議について「岸・ハーター交換公文」というのがあり、そのもとに藤山外相とマッカーサー駐日大使の口頭了解で、日本が装備の変更について言えるのは核兵器とミサイルだけとなっています。したがって、オスプレイでは何も言えない。沖縄からすれば、これだけ県民が切実に願っているのに、安保条約という枠があって、日本国総理は一言もいえない。保守・革新を超えて県民はみんな、共通に不条理だと感じざるを得ません。
 沖縄県知事も那覇市長も、基本的には保守で安保容認です。その人たちにしても、このままオスプレイが強行配備されたり、事件事故が続くと、全基地撤去を言わざるを得ません。本人が意識しているかしていないかは別にして、全基地撤去は安保条約に抵触します。沖縄に基地の75%がありますから、沖縄が全基地撤去と言えば、安保条約は成り立ちません。そういう雰囲気ですから、県議会決議にも「基地の全面撤去」という文字があり、自民党もこれでいいと言っているわけです。組織をつくろうという話と、県民の意識の変化は表裏一体となっていて、新しい状況をつくりだしています。

安保破棄へどう接近していくか

 安保条約の改定論議は、60年安保の続きのようなところがあります。特に年配の方々はそうです。安保条約ができたのは冷戦に向かう時期でしたから、社会主義か自由主義かという体制選択論、イデオロギー的な対立を反映しています。60年安保は冷戦下でしたから、イデオロギー的な対立を帯びることになりました。冷戦体制が崩れた後もこれが尾を引いています。体制選択論的なところから安保条約に接近すると、非常に難しくなる。だから、沖縄的に言えば、もっと生活や命というところから接近する必要があります。
 先ほど、中江先生がおっしゃいましたが、外務省の中で主権国家としてこれでいいのかという議論があった。この議論はそのとおりだと思います。講和条約で主権を回復した後も、日本に外国の軍隊が60年も駐留している。右とか左とかいうことではなく、県民として国民として本当にこれでいいのか、国民に問いかける必要があります。TPPもそうです。安保条約でアメリカとの関係が強いから、こういうことが起こってくる。アメリカ主導の経済的な側面が強く出ています。だから、安保条約の破棄にいたるプロセスとして、経済的な側面や安全・安心、あるいは国民としての誇りや主権意識、いろんな角度から安保条約に接近をしていく。そういう材料をどれだけ提供できるかということが、とても重要だと思います。
 安保条約を議論すると、なんとなく野暮ったいとか、素人くさいとか見られます。安保条約は動かせないものという前提や既成概念がどこかにあるからです。だから、鳩山さんがちょっと日米同盟のやり方を考えたらどうかと言っただけで、日米同盟が崩壊すると大騒ぎする。そういう状況が政界にも官僚にもマスメディアにもある。だから、それに乗らず、別の角度、多様な角度から、安保条約に接近する。誰にでも分かる接近の仕方を私たちは考えていくべきだろうと思います。
 これは沖縄だけで解決できる問題ではありません。全国的な運動がなければだめだです。国政選挙で、日米同盟のあり方はこれでいいのかと、問わないとどうにもなりません。そういう中でこそ、沖縄の基地問題が前進します。安倍さんは戦後レジームがどうのこうのと言いますが、見直すべき最大の戦後レジームは日米安保体制です。そこに手をつけず、違うことを言うのは欺瞞で、本当の意味での政治家ではない。中曽根さんも戦後体制云々と言っていましたが、それを言うのなら、今のわが国のあり方はこれでいいのかと問わなければなりません。
 安保見直しの議論は決して左派の専売特許ではありません。むしろ民族派といわれる右派の方が怒るべきだと思います。こんな日本国でいいのかと、彼らが言わなきゃならない。右も左も含めて、いろんな問題提起の仕方があると思います。私たちは工夫をこらして、戦略的に考えて、この問題を提起をしていくことが必要です。沖縄的にはまだ小さな動きですが、私たちもそういうところに大きなねらいを定めてやっていこうと思っています。

(文責・編集部)

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