三十年ぶりの生乳価格引き上げ  危機的状況が続く日本の酪農 [前田 浩史 氏]

三十年ぶりの生乳価格引き上げ

危機的状況が続く日本の酪農

中央酪農会議事務局長 前田 浩史 氏

乳価交渉

 10月16日、関東生乳販売農業協同組合連合会と大手乳業メーカー3社との乳価交渉が、基本的に妥結しました。妥結内容は、来年3月から飲用向けの生乳を1キロあたり10円値上げするというものです。今年4月に3円上がり、今回の妥結で来年3月から10円上がることになりました。飲用向け以外の交渉はこれからですが、1年間にわたった乳価交渉は大きな峠をこえました。生産者の経営実態からすれば、不十分な結果ですが、交渉としてはギリギリの判断だったと思っています。

 国内の牛乳・乳製品の消費量は生乳に換算すると、年間約1200万トン。うち国内生産は850万トン、輸入の乳製品が約350万トン。国内生産850万トンのうち牛乳は約400万トンで、残りがバターやチーズなどの原料乳です。牛乳は栄養バランスがよく、子どもからお年寄りまで幅広く、日本の食生活に根づいている基礎的な食品です。特に子どもがいる世帯では、牛乳が家計の中で大きな比率を占めています。そういう方々に牛乳を安定的に供給していくのが酪農産業の役割ですから、そういう方々の事情をまったく無視して、飼料価格の高騰分をすべて消費者に転嫁するわけにはいきません。それぞれが少しずつ痛みを分かち合うことにならざるを得ないというのが、われわれの基本的なスタンスです。
 一方、小売を担当するスーパーにとって、牛乳は集客する上で非常に重要な商品です。極論すれば、牛乳価格を上げるとお客さんが来なくなる。スーパーとしてはなかなか値上げができないから、川上(生産者)に負担を求めてくるという構造になっています。このように、牛乳は二重の意味で価格転嫁がむずかしい食品です。
 乳価交渉は乳業メーカーとの交渉ですが、乳業メーカーがスーパーなどの小売業者、消費者との関係の中で、この時期にどれくらい価格転嫁ができるか、限界もあります。今年に入ってから景気が非常に悪くなり、消費者の生活がとても大変になっている状況の中での交渉でした。
 さらに、牛乳の原料である生乳は、あっという間に腐ります。他の商品ですと、需給関係にあわせて出荷時期を調整したり、操業を調整することはある程度可能ですが、生乳は毎日搾乳し、ただちに出荷しなければなりません。需給調整のために余った生乳を処分しようとすれば、環境汚染になるので産廃処理する以外になく、生乳一リットルの産廃処理に20円かかります。捨てれば、売上げがゼロではなく、マイナスになります。つまり、牛乳は買い手市場で、生産者が価格に関与する余地がない特殊な商品なのです。
 生産者の側からすると、来年3月からではなく時期をもう少し早められなかったのかという問題がありますが、こうした状況と力関係の中で、この結果を受け入れざるを得なかったと思います。

酪農経営と乳価の関係

 今年4月に生乳価格が1キロ3円上がりましたが、それでも都府県の酪農経営では、1キロ搾るのに、配合飼料価格が上昇した分だけで約10円の赤字が出ていました。配合飼料価格の高騰は、バイオ・エタノール需要によるトウモロコシ価格の上昇、さらに中国やロシアなどにおける畜産の発展による穀物需要の増加などが要因となっています。
 さらに輸入乾牧草の価格高騰も、酪農にとっては深刻です。この原因もバイオ・エタノール需要と関係しています。国内外の畜産・酪農家に牧草を提供していた米国やカナダの農家が、バイオ・エタノールのために、牧草生産を減らしてトウモロコシ生産にシフトしました。その結果、牧草価格の上昇と牧草不足になりました。酪農家は、配合飼料の他に牧草や単味飼料も使います。配合飼料が高騰すれば、価格安定制度で若干の補てんがありますが、牧草や単味飼料は価格安定制度の対象外なので、高騰分はすべて生産者の負担になります。配合飼料の高騰分が10円で、それ以外の高騰分をあわせると13円~15円の赤字です。本来なら、コスト上昇分のすべてを要求したかったのですが、牛乳という食品の特殊な事情もあり、配合飼料の高騰分10円の値上げ要求となりました。
 ただし、配合飼料の高騰分が10円というのは、平均的な農家の場合です。生産性の高い大規模経営の農家はこれで一息つけますが、生産性の低い小規模な家族経営農家は、危機的な経営状況が続きます。
 さらに、値上げが実施される来年3月までをどうしのぐかという問題があります。乳価には需要が増えて価格が高くなる夏乳価と、需要が落ちて価格が低くなる冬乳価があり、関東の場合、9月と1月では10円くらいの価格差があります。今年4月~6月に酪農家数が減り、それ以後、減り方が落ち着いたのは価格の高い夏乳価になったからです。11月以降は、価格の低い冬乳価になりますから、これをどうしのぐか、対策が必要になります。
 いま考えているのは、生産者団体が銀行からお金を借りて、冬乳価で低くなる分の一定額を生産者に支払う、事実上の前払いです。そして乳価が高くなった時期にその分を差し引いて銀行に返済する。そうやって11月から2月までの時期をしのげば、3月から乳価が値上げされますし、4月以降には配合飼料価格がいくらか下がるのではないかとみています。
 家族経営の酪農家に対する対策も必要です。家族経営の中にも2種類あります。経営者が高齢化して後継者もいない農家については打つ手がなく、私どもとしては頭を下げるしかありません。家族経営でも後継者がいる酪農家については、国に低利子の融資制度などを要請していきたい。しかし、これだけでは決定的な対策にならないので、さらに対策を講ずる必要があると考えています。

生乳の安定供給に不安

 乳牛の頭数は、ここ5、6年少しずつ減少しています。以前は、酪農をやめた農家の乳牛を吸収して大規模化が進んでいました。しかし、飼料高騰で、規模拡大する農家より廃業する農家の方が多くなり、乳牛の頭数全体の減少が進んでいます。
 さらに、搾乳できるメス牛の頭数も減少しています。酪農には生乳を搾る部門と、和牛を種付けして牛肉を生産する部門がありますが、生乳生産部門の収益が悪化する中で、多くの酪農家が和牛部門に生産をシフトしたからです。生乳を搾れる母牛の頭数は、昨年4月に比べて今年4月は約8%少なくなっています。しかし、母牛をすぐには増やせません。生乳が搾れるようになるには生まれて約2年かかります。来年の今頃までは、生乳を搾れる母牛が少ない状況が続きます。
 1頭当たりの搾乳量を増やすためにはエサをたくさん食べさせる必要がありますが、飼料高騰ではそうもいきません。さらに冬乳価で価格が低下し酪農経営は深刻になります。このように、来年3月に乳価が10円上がっても、今後1年間くらい生乳生産が伸びない構造があります。
 生乳生産の減少で、牛乳・乳製品の安定供給に不安があります。とくに都府県の生乳生産が減少し、本州で牛乳不足が起きました。北海道から牛乳を持ってきてしのぎましたが、その結果、北海道でバターやチーズなどの加工原料用の生乳が足りなくなっています。今年春先からのバター不足の構造が今でも続いています。輸入しようとしても、世界的な飼料高騰で乳製品も高騰し、品不足という現状です。飲用乳の需給バランスを取ろうとすれば、加工原料乳が足りなくなり、加工原料乳の需給バランスを取れば、飲用乳が不足する構造は来年も続きます。

消費者が納得する価格転嫁

 昭和50年代前半まで乳価は上がっていました。大型スーパーが登場する前のことで、牛乳の小売は牛乳屋さんが圧倒的でした。乳価が上がっていたので、値上げ分を生産者団体、乳業メーカー、牛乳屋さんの団体にどう振り分けるかで、生産者3、メーカー3、小売4という慣例がありました。しかし、公取委の指摘でこの仕組みは解散しました。
 今年4月の値上げは昭和53年(1978年)7月以来のことで、この30年間、生産者乳価はまったく上がっていませんでした。上がるどころか、下がり続けてきました。今年4月の値上げは30年ぶりのことだったわけです。生産者乳価は3円上がり、消費者に影響する小売段階での値上がりは6円程度でした。
 問題は、乳業メーカーや小売段階での値上げが適正かどうかです。私たち生産者団体は飼料高騰でコストがどれほど上昇しているか、詳細なデータを公表して、昨年は10円の値上げを要求しましたが、実際は3円の値上げでした。その後も飼料高騰が続いたので、再度の交渉で来年3月から10円の値上げとなりました。同様に、乳業メーカーや小売団体もコスト上昇分を公表し、消費者が納得するように説明する責任があると思います。
 栄養バランスの取れた牛乳・乳製品は、成長期の子どもをはじめ国民の食生活にとって重要な食品です。生産者は飼料高騰分を価格転嫁しなければ生産を続けられません。一方、消費者は価格が高騰すると、基礎的な食品なのに買えなくなります。生産者も消費者もその負担がギリギリの段階に来ています。牛乳・乳製品は不足したからといって、すぐには増産できません。食品の安定供給に向けた仕組みづくりが必要だと思います。生産者自らができることは生産者団体がやるにしても、できないことは国の施策が必要だと思います。コストがかかることですから、消費者に価格転嫁できない場合は政治的な施策が必要になります。
シカゴの穀物相場は、投機資金が少し逃げ出したので、幾分か下がっています。しかし、それが日本の飼料価格に反映するのは、早くても来年4月くらいからではないかと予測しています。穀物飼料の場合は、バイオ・エタノール需要の増加があり、中国などでの需要も依然として伸びていますので、簡単には下がりそうもありません。飼料価格が下がれば、消費者に還元できると思いますが、まだ見通しが立ちません。
 多くの食品価格はこの30年間に、1・8~2・5倍上がっています。上がらなかったのは牛乳、卵、お米などです。牛乳は逆に下がり続けてきました。それは、規模拡大やさまざまな生産性向上など生産者の努力の結果です。酪農家は規模拡大や生産性向上の成果を、この30年間の価格低下ではき出してきました。つまり、努力の成果をすべて消費者に還元してきたわけです。だから、生産者の努力ではどうにもならない飼料価格高騰分については、消費者に価格転嫁をお願いしてもいいのではないかと思います。そうしないと酪農家が再生産できない、持続的な生産ができない、非常に危機的な状況にあるからです。
 幸いにも、酪農家の危機的な状況が消費者の方々に理解されてきています。酪農だけでなく、安全で安定的な食糧生産、自給率向上に向けた国民的な理解が進みつつあると感じています。

(談・文責編集部)

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