「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」を断固支持する

「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」を断固支持する

自主・平和・民主のための広範な国民連合

 沖縄県玉城デニー知事は、施政権返還(日本復帰)50年に合わせ、「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」を庁議で決定した。われわれは、この新建議書を断固支持し、わが国政府が全面的に受け入れるよう強く求める。


 2013年1月28日、日比谷野外音楽堂周辺は異様な雰囲気だった。音楽堂では「オスプレイの配備撤回と普天間基地の県内移設断念を求める建白書」を政府に提出するために上京した翁長雄志氏を団長とした沖縄代表団を激励し連帯する集会が開かれた。集会後、沖縄代表団を先頭にデモに移ったが、会場を出てすぐにデモ隊は罵声を浴びせられた。「売国奴! お前らは中国のスパイだ」 日本政府の応対も冷ややかだった。

 今年5月11日の朝日新聞の世論調査結果は、沖縄の米軍基地を「今のままで良い」とするが沖縄19%に対し、日本全国41%だった。日本の米軍基地の70%が沖縄に置かれていると知らせた上での回答だ。

 日本は1952年、サンフランシスコ講和条約で「独立」を回復した。しかし、沖縄の日本主権は条約第3条で排除され、米国が「行政、立法、及び司法上」の権利を有すると規定していた。沖縄は米軍支配下に置かれた。軍事支配の沖縄では、「銃剣とブルドーザー」で新基地建設が強行された。折からの全国での米軍基地反対闘争の高まりの中で、基地は沖縄に集中され強化されていった。

 沖縄は日本から見放された。したがって、沖縄の「復帰」のとらえ方(想い)は複雑である。「日本復帰」「本土復帰」「祖国復帰」「施政権返還」とさまざまだ。沖縄の想いを私たちは歴史の中でしっかりととらえ返したい。

 時間をさかのぼる。明治政府の松田道之は首里城で1875年7月14日、独立した国家を形成していた琉球王国に対し、琉球王国を廃して琉球藩とすることなどヤマト政府の方針を伝えた。当然、琉球王国はこれを拒否した。そこで79年、処分官として松田は「琉球処分」を断行した。約600人を従えて琉球に行き武力的威圧のもと首里城で3月27日、廃藩置県を布達、首里城を明け渡させた。

 琉球王国が進んでヤマトに組み込まれたのでないことは明白だ。「平和な国」琉球を、一方的に武力で強権的に支配下とした。こうして「手に入れた」沖縄に日本政府はさまざまな犠牲を強要した。

 そして現代、太平洋戦争末期の1945年2月14日、近衛侍従長は「戦争終結」の上奏文を昭和天皇に出した。しかし、天皇はこれを拒否、沖縄を本土防衛の捨て石とした。その結果が、県民4人に1人が死亡するという悲惨な沖縄戦であった。こうして米軍の沖縄占領が始まったのであった。

 「新たな建議書」は、基地問題を「構造的、差別的」としている。日本政府・社会は、これまでさまざまな犠牲を沖縄に負わせてきた意味をしっかりととらえ差別をなくすことを課題としなければならない。

 50年前、屋良朝苗・琉球行政主席の「建議書」が日本政府に提出される2日前、政府は「沖縄返還協定書」を国会で強行採決した。屋良主席はこれを、「沖縄県民の気持ちと云うのはまったく弊履の様に踏みにじられる」と激怒した。

 今、ウクライナ戦争が続くなかで、「米中のアジア戦争の危機」が醸成されている。「台湾有事」が叫ばれ、日米共同作戦体制構築が進む。自衛隊が、台湾の目の前、八重山諸島、宮古島などでミサイル射撃の実戦訓練を行っている。

 政府に、沖縄県民の総意である「新しい建議書」の全面受け入れ、さらなる沖縄の犠牲を排除することを強く求める。