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香港問題をどう考えるか(2)

『日本の進路』編集長 山本 正治

アヘン戦争で「大英帝国」に奪い取られた香港

卑屈なわが国マスコミ

 朝日新聞社説は「19世紀以降、英国の植民地支配下で育まれた独特の都市文化は変質せざるをえないだろう」(7月1日)といって、英国の香港植民地支配を無条件に賛美し、中国政府を激しく攻撃する。「香港の声を聞かずに」「人権」「香港の高度な自治」等々と、わが国マスコミも野党も声高である。だがこれらの中国攻撃は、「大英帝国」がアヘン戦争を通じて香港を中国から強奪し、植民地支配を進めたことに一言も触れない。それどころか朝日新聞に至っては逆に、それを天より高く持ち上げる。「植民地都市文化の変質」、大いに結構、それこそ必要ではないか。植民地文化にどっぷり汚染されたマスコミ人は気づかないのであろうか。
 「一国二制度」というが、イギリスとの「返還」交渉で中国が余儀なくされた妥協の産物に他ならない。サッチャー首相は当時、返還を求める中国に対して香港の強奪を定めた(一連の条約は)「正当なものだった」と居直った。香港返還合意の直前にサッチャー政権は、1833年から占領を続けるフォークランド諸島の返還を求めるアルゼンチン軍を戦争(フォークランド紛争、1982年)で降伏させ、今も、イギリスは植民地支配を続けている。こうしたまさに帝国主義のイギリスが、あるいはアメリカが、どうして中国の主権の問題、内政問題にすぎない香港の制度問題に発言できるのか。それでは今も帝国主義ということになる。
 中国の人民と習近平政権は、こうした大英帝国と今日の「アメリカ帝国主義」に、歴史的に、そして今も対峙しているのである。
 わが国マスコミや野党各党は、もっと冷静になったらどうか。「香港の声を聞かずに」(沖縄の声をきちんと受け止めたか、胸に手を当てるべきだ)とか、「人権」(黒人抑圧のアメリカにどれだけ声を上げたか)とか。街頭掲示板に提示されたある野党の「写真ニュース」は、「香港国家安全法撤回」と大書している。だが、アメリカ黒人差別反対のものはなかった。
 マスコミも野党各党も、まったくのダブルスタンダードではないか。
 トランプ大統領はこの点だけは「正直」だった。ボルトン元補佐官は、「(大統領が、香港問題に)私は関わりたくない。米国も人権問題を抱えている」と昨年6月に発言したと暴露している。

香港はあくまで中国の一部

 イギリスの香港植民地化の歴史を振り返っておかなくてはならない。
 1842年、当時の中国・清朝政府はイギリスとの南京条約締結を余儀なくされ、香港島をイギリスに強奪(「割譲」)された。
 当時イギリスは、植民地のインドで製造したアヘンを、中国に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘンの蔓延に危機感を募らせた清朝政府はアヘンの全面禁輸を断行、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却した。これに対して海軍など軍事力に勝るイギリスは戦争に訴え(40年~42年、第一次アヘン戦争)、清朝軍を打ち破り南京条約となった。
 イギリスとの不平等条約に中国民衆の帝国主義反対の抵抗闘争は発展した。
 こうした中で清国官憲がイギリス船籍を名乗る中国船アロー号を臨検した。これに対して現地のイギリス海軍は広州付近の砲台を占領するなど干渉・圧力を強めた。広州民衆の反英運動は頂点に達し、「居留地」を焼き払うなどした(「アロー号事件」)。イギリスとフランスは、アロー号事件とフランス人宣教師殺害事件をそれぞれ口実として英仏連合軍を形成し、清朝に対する第二次アヘン戦争(56~60年)を始めた。この結果として60年に締結された北京条約に基づき、清国は九龍半島の南端部をイギリスに割譲させられた。
 その後、清朝政権は弱体化し、中国は帝国主義の半植民地状態となった。イギリスは、98年に九龍半島の残りの部分および付近の島嶼部(いわゆる「新界」)を99年の期間で租借した。清朝政権は抵抗できなかった。
 以上の3段階の「割譲」「租借」という名の強奪によって現在の香港地区が形成された。植民地領としてイギリスの支配下に置かれた。香港住民にはイギリス本国民と同等の待遇は与えられず、属国民であった。香港住民は、植民地奴隷として徹底的にこき使われ搾取された。これが「独特の都市文化」の形成過程であった。
 こうした歴史をもつ中国人民と政権が、今日、「国家の統一」と「強い国」をつくることに情熱を傾けるのは当然である。さらにわれわれは、日本もこの香港の歴史過程にいることを忘れてはならない。太平洋戦争中、日本軍はイギリス軍と戦い、3年8カ月の間(1941年12月~45年8月)香港を占領し軍事支配した。過酷な支配でとくに軍票を発行して香港住民を搾り取った。忘れてはならない!
 アメリカに占領・支配、属国状態に置かれて75年間、沖縄を除けば満足に抵抗すらできていない日本のわれわれである。その主権回復の過程に学ぶことすらあれ、非難など許されることであろうか。

苦難の香港回復と「一国二制度」

 中国人民は立ち上がり解放を闘い取り、1949年10月1日、毛沢東は北京で新中国成立を宣言した。
 しかし、香港は台湾とともに帝国主義の支配下に残された。新中国は、帝国主義との間の力関係の中で米英間の矛盾を利用した。アメリカに世界の覇権国から追い落とされたイギリス側も、いち早く新中国政権を承認するなど巨大な中国市場に再び権益を求めていた。
 成立したばかりの新政権はイギリスとの関係を通じて国際関係を緩和しようとした。国境を接する朝鮮半島では朝鮮民主主義人民共和国が成立、南部では米軍占領軍に後押しされた大韓民国成立で戦争が迫っていた。中国は人民義勇軍を派遣し朝鮮人民とともに国連軍という名のアメリカ侵略軍と闘った。その後60年代に香港の青年たちはイギリス支配からの解放を求めて激しく闘った。しかし、当時の周恩来首相はそれを抑えた。植民地香港と中英関係は維持された。
 80年代に入り中国政府はイギリスに対し、租借期限が97年に満了する「新界」のみならず、第一次アヘン戦争および第二次アヘン戦争の結果イギリスに奪い取られた香港島および九龍半島南端部を含む香港のすべてを返還するように要求した。まったく正当な要求だった。交渉の結果、84年12月19日に北京で締結された「香港問題に関する中英共同声明」により、97年7月1日に香港を中国に返還することが合意された。
 合意から実際の返還まで十数年の年月があった。帝国主義の側は周到な準備が可能だった。
 中国は、抵抗するサッチャー首相、イギリスとの外交交渉で「一国二制度」を提案し合意に導いたが、妥協の産物に他ならない。中国にとっては、「(植民地時代からの)国際金融都市香港」を維持することで世界の金融資本と結びつき経済発展するための「手段」という面もあったであろう。先んじて、深圳のような「特区」が相次いでつくられていたから、中国政府の狙いは明らかである。
 「二制度」というが、確たる定義はない。香港に、「外交・国防事務を除き高度の自治権を与える」という合意にすぎない。当時、鄧小平氏は中国本土でも資本主義経済を進め始めていた。「総設計師」と言われた鄧小平氏は、交渉に当たった中国代表団に「二制度」についての4原則を示し、そのトップに「原則だけで大雑把であること」を示したという。中国政権は、「国家主権(香港に対する主権)」を回復しておけば、後は時間をかけてということだったのであろう。鄧小平氏と中国政府は、「改革開放」政策で中国全土の経済発展をめざして韓国や台湾、香港、シンガポールなど(「4匹の小龍」と呼ばれた)のように日欧米など先進資本主義国の資本や技術を導入して飛翔しようとしていた。それまでは欧米に対して『韜光養晦』(姿勢を低く保ち、強くなるまで待つ)という方針であった。
 「香港基本法」が確認した、「国際金融センターとしての地位を保ち、外貨、金、証券、先物等の市場を引き続き開放し、資金の出入りは自由であり、香港ドル(港幣)は引き続き流通し、その両替は自由」等々、中国大陸と欧米との結節点として「一国二制度」の香港が、その後の中国の発展に貢献したことは間違いない。
 それにしても、鄧小平氏がよくまあそこまで妥協するかと思うほどの合意である。1980年代初めで中国の国力は、例えばGDPで見て今日のおおよそ50分の1にすぎなかったにしても、である。強い権威をもっていた鄧小平氏が実権を握っていたから国内合意は可能だったのであろう。