被爆80年の新年に
核兵器廃絶・平和への決意を込めて
平和活動支援センター 平野 伸人(被爆体験者訴訟の原告団相談役、全国被爆2世団体連絡協議会・特別顧問)
2024年は、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞したこともあって、私の進めている高校生平和大使や高校生1万人署名活動にも注目が集まった年の瀬でした。私の平和活動のこの40年の歩みを考えると感慨深いものがあります。一方では、私が長らく関わり、知人・友人の多い韓国で戒厳令が出された事件もあり、たいへん心配しています。
私は、1946年12月長崎市に生まれました。母が被爆者の被爆2世です。父は、45年敗戦当時は中国東北部(旧満州)に徴兵されていて、満州から引き揚げ船が出る葫蘆島まで歩いて長崎に帰ったそうです。着いたのは、45年の9月。既に長崎の街に原爆が投下された後でした。そして、翌年に、私が生まれました。その母も、もう105歳になります。
若者の姿が見えないことに危機感
私は、1985年の被爆40周年を機に全国被爆二世教職員の会を結成し初代会長となり、被爆2世の運動を始めることになります。さらに、大きな転換点となったのは、87年の訪韓です。在韓被爆者の存在を知り支援活動にも力を注ぐきっかけになりました。退職後は「平和活動支援センター」を開き、在韓被爆者支援活動、中国人強制連行問題の取り組み、被爆体験者問題では相談役として、諸問題の解決のために尽力しています。また、高校生の平和活動の支援や被爆者・被爆2世の運動の支援を行っています。核兵器の廃絶と平和な世界の実現をめざす高校生平和大使は2025年で27年目を迎えます。
平和活動を進める中で、あまりにも若者の姿が見えないことに危機感を抱いた私は、何とか若者にも社会的な出来事に関心を抱いてもらいたいとの思いから「高校生平和大使」を立ち上げました。そして、その中から「高校生1万人署名活動」が生まれて、今日に至っています。毎年、高校生をスイス・ジュネーブの国連欧州本部やノーベル委員会のあるノルウェーに派遣し、年ごとに知名度も上がってきました。活動に参加した高校生平和大使は500人、高校生1万人署名活動に参加した高校生は6000人になります。集めた署名も272万3142筆になりました。まさに、「ビリョクだけどムリョクではない」ことを実践しています。
しかし、課題も山積しています。世界は平和な方向には向かってはいません。単純に被団協のノーベル平和賞受賞を喜んでばかりはいられません。せっかく芽を出した若者の活動も育てていかなければなりません。
一方で、現在の世界情勢を鑑みると、終わりの見えない、ガザ地区でのジェノサイド、ウクライナ戦争の果てしない状況。暗澹たる気持ちにさせられます。日本も軍拡路線をひた走る一方です。
核兵器廃絶はもちろん実現したい大きな目標ではありますが、いまだに苦しめられている人たちが取り残されてはいないでしょうか。被爆者援護の問題、在外被爆者の問題も残っています。とりわけ、長崎の被爆体験者問題は未解決のままです。足元の問題をおろそかにしてはいけません。
24年の9月9日、被爆体験者訴訟について長崎地方裁判所において一審の判決が下されました。判決は、15人の被爆体験者を被爆者と認める一方、29人の原告の訴えを退けました。体験者にとっては、不満の残る判決となりました。
9月9日の判決を受け国、県、市は控訴しました。しかし、裁判による解決を私たちは望んでいません。平均年齢85歳を超える当事者が、裁判を継続することは酷なことです。裁判によらない、政治的な解決が一番良い方法であると思っています。被爆体験者は被爆者であり、救済されなければならないという原点に立って、問題の解決を図ってもらいたいと考えています。先立って8月9日には、総理大臣に面会して救済を求めました。私も同席して、「被爆体験者は被爆者ではないのですか」と訴えました。
米国の原爆投下責任と
日本の責任と
また、原爆被爆者は被害者です。その被害者が核兵器の廃絶を訴えてきました。加害者のアメリカの原爆投下責任はうやむやにされてよいのでしょうか。オバマ米大統領が広島を訪問したときに、原爆が天から降ってきたかのような表現で、投下責任をごまかしました。
アメリカの原爆投下の責任についてですが、長い間、タブー視されてきました。一つは戦勝国のアメリカに対する配慮がそうさせたのでしょう。さらに、日本は、アジアの国を侵略して苦しめたという過去を背負っています。日本の侵略戦争の帰結として、原爆投下があった。原爆投下の責任は、日本にあるという論です。それは、事実でもあります。しかし、それだからといって、国際法にも違反する非人道的な兵器を使用して良いと言うことにはなりません。アメリカの原爆投下責任は、厳しく問われるべきではないでしょうか。
核兵器廃絶への道は、近いかもしれないし遠いかもしれません、2021年1月22日に核兵器禁止条約が発効しました。署名は94カ国、締結は73カ国にも達しています。世界の全ての国がこの条約を批准すれば良いのです。しかし、日本政府もアメリカ政府もこの条約にそっぽを向いています。
核兵器禁止条約は、核兵器の製造も保有も、核による威嚇も禁止しています。ある面では理想的な条約です。その条約に、日本政府は参加しようとしないばかりか、条約の締約国会議にオブザーバー参加さえしようとしません。「唯一の戦争被爆国」などと言える状況にありません。アメリカ政府も同様です。せめて、オブザーバー参加を第一歩にして、核兵器禁止条約を実のあるものにしていきたいものです。
25年は、被爆80年の節目の年になります。私たちが、平和な世界をつくり上げることではないでしょうか。そのような新年にしたいと決意を新たにしているところです。広範な国民連合に集う、志を同じくする皆さんと共に、尽力していきたいと思います。
ひらの・のぶと 1946(昭和21)年12月、長崎生まれ。早稲田大学教育学部社会科社会科学専修卒業。86年、長崎県被爆二世教職員の会を結成(会長)、87年に全国被爆二世教職員の会会長。その後、韓国被爆者の救援活動に取り組み、以来、今日に至るまで訪韓約500回を数える。92年より、韓国の被爆者に対する援護を求める裁判の支援を行い、韓国人被爆者の平等な援護を実現させる。韓国人被爆者の渡日治療に取り組み、現在まで約300人の韓国の被爆者を長崎に招き治療を実現。中国人強制連行裁判にも取り組む。2003年より毎年夏、韓国やフィリピン、ハワイの高校生を広島・長崎に招いている。また、毎年、日本の高校生を韓国・フィリピンに派遣し、韓国の被爆者との交流、韓国の高校生、フィリピンのスラムとの交流・支援を続けている。
1998年には高校生平和大使を発案し、国連へ派遣する。また、高校生1万人署名活動等をサポートし、若い世代の平和活動の育成にも尽力している。2009年、広島の第21回「谷本清平和賞」を長崎から初受賞。18年7月、第11回「秋月平和賞」を受賞。高校生平和大使は「ノーベル平和賞」の候補になっている。
(見出しは編集部)