被爆79年に寄せる思い
KNOW NUKES TOKYO 山口 雪乃
3200人。今年8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にて奉安された死没者名簿のお名前の数です。私は毎年9日は、朝から夕方まで市内で開催されている平和に関連するさまざまなイベントを巡り慌ただしく予定を終えると、夜は自宅で平和祈念式典の録画配信を視聴しながら心を静かにする時間を持ちます。今年の式典も、長崎市長による平和宣言や被爆者代表の平和への誓いなど、心が震える場面が多くありました。その中でも個人的にとりわけ印象深かったのが、原爆死没者名簿の奉安です。今年の名簿には自分の祖父の名前もその一人に加えられ、「被爆者がいなくなる」という事実をあらためて突きつけられた思いがしました。
私は2018年から高校の平和学習部や署名活動などを通して、長崎を拠点に核兵器廃絶に向けた運動に関わってきました。その中で、日常的に被爆者のみなさんとお話しする機会が多くありましたが、その重さに改めて気づいたのは活動し始めてしばらく時間がたった頃でした。
私は被爆3世で、父方の祖父母は幼少の頃に長崎市内で被爆しました。しかしながら二人ともいわゆる「語り部」ではなく、祖母からは直接に被爆体験を聞いたことがありません。私が小学1年生くらいの時に祖父が話してくれた被爆体験の断片的な記憶が、かすかに思い出されるのみです。ある時、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に祖父が短い手記を残していることがわかりました。今ではそれが唯一、私が被爆3世である証しとして79年前の8月9日の祖父と私との関係をつなぎとめてくれている感覚さえします。
被爆79年のこの夏、「そうか、被爆者は確実に減っていくんだ……」という実感とともに残ったのが、祖父を亡くした悲しみ以上に「危機感」であったことは、私が核兵器廃絶のための取り組みを続ける理由の一つになっています。
大学進学を機に、東京でも引き続き核兵器の問題に関わり続けています。被爆や核兵器に関する問題が被爆地特有の話題として矮小化されず、被爆地の外でも自分事として捉えられる普遍的な話題になるように。核兵器廃絶に向けた自分の役割を模索する空間を目指し、「KNOW NUKES TOKYO」という団体で仲間たちと活動しています。国際的なNGOのネットワークであるICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のパートナー団体でもあります。核兵器禁止条約を推進したり、学校での平和教育、核兵器に関する対話イベント、SNS発信などを通じて、専門家ではない私たち市民が核兵器について考えたり対話したりする機会を生み出しています。
被爆者なき時代を悲観するのではなく、核なき世界を自分たちで創造していくために。被爆者の声と思いをそれぞれの心にしっかり携えて、世代や所属を超えてともに、歩みたいです。