ウクライナ戦争とイスラエル・パレスチナ戦争

人命尊重と即時停戦を基調とする
日本外交の原点回帰へ

静岡県立大学グローバル地域センター客員教授 

元駐オランダ大使 東郷 和彦

序文

 2年前にウクライナ戦争が始まって以来、半年前にハマス・イスラエル戦争が始まって以来、悲痛な殺戮のニュースから私たちは離れられなくなっている。普通の日本人の感覚は「もうかんべんしてくれよ」「なんとか戦争止めてくれないかな」ということではないだろうか。
 私は、この素朴なわが民族の国民感情に強い共感を覚える。これこそ、第2次世界大戦というすさまじい戦争を戦い、完敗した日本人が、骨の髄まで感じ取ったことではないか。まず考えなくてはいけないのは、もちろん戦争を起こさないで、武力を行使しないで、交渉によって、話し合いによって、対立と紛争をおさめていくことであろう。


 けれども、そう簡単に国際社会は動かない。現に今二つの戦争が起きている。そうなると次に考えなくてはいけないのは、戦後日本の原点である「生命尊重」の立場に立ち、一刻も早く少なくとも「停戦」にもちこむことではないだろうか。

ウクライナ戦争

(1)二つの見解

 ウクライナ戦争についてどう考えるか。二つの大きく分かれる見方がある。一つは、とにかく戦争に訴えたプーチンが絶対に悪い、だから戦争をやめるには攻め込んだプーチンが兵を引いてやめればよい、攻め込まれたウクライナは、自分の国を守るために戦うというのはあっぱれであり、その戦いを助ける米英などG7とNATOは正義の闘いをしている、日本政府がその立場で過去2年やってきたのはまさに正しい選択だったという見方である。
 ウクライナと米英などG7とNATOのコンセンサスは、最低、二度とこのような戦争を起こさないところまでプーチンのロシアを弱めねばならないという点にあるのではないか。
 しかし、これと違った見方がある。最初に攻め込んだプーチンに、本当に他策がなかったかと問い詰めたいのはやまやまである。しかし、一刻も早い停戦にもちこむためには、プーチンがなぜ攻め込んだのか、少なくともその戦争目的が何かを私たちは知らねばならない。
 そしてプーチンが許容できかつウクライナが許容できる接点を見いだし、軍人の手から外交官の手に主導権を移し、一刻も早い停戦を実現するのが唯一の人命尊重のための方法だという見方である。
 そこで、攻め込んだプーチンの論理は何か? プーチンの根本意識は、ウクライナのNATO非加盟・中立化が第1条件。ロシア系ウクライナ人の保護が第2条件。この二つが実現していれば、攻め込む理由はなかったということである。これが、本稿の中で、最も重要なポイントである。

(2)NATO非加盟問題

 では、NATO非加盟の第1条件が崩れたのは、いつか。2008年のブカレスト首脳会議でウクライナの原則加盟が認められた時であろう。冷戦終了とソ連邦崩壊以来、敵の同盟たるNATOはひたひたと東方に拡大されてきたが、プーチンがロシアと直接国境を接するウクライナとグルジアだけはだめだと力説していたにもかかわらず、原則加盟まできたことにプーチンは激怒した。
 しかも、この決定を主導したのが、アメリカの価値至上主義(新保守主義ともネオコンとも言う)のブッシュ・ジュニアだったことを、プーチンは決して忘れないであろう。

(3)ロシア系ウクライナ人の保護の問題

 次に、なぜロシア系ウクライナ人の保護がそれほど重要なのか。元々この国は、モスクワと親和性をもち、正教を信じ、ロシア語を話す東部と中央部の5分の4と、ポーランドを宗主国とし、ウクライナ語を話し、カソリックを信ずる西部ガリツィア地方の二つの頭を持つ国だった。
 そういう二つの頭を持つウクライナに、第2次世界大戦中の1941年6月ヒトラーが攻め込んだ。三方に分かれた攻撃軍の南方軍がガリツィアに攻め込んだのである。
 そこにいたステファン・バンデラ率いるウクライナ独立派は、ナチスと協力して独立のために蜂起し、赤軍とも戦うことになったのである。しかし、第2次世界大戦が赤軍の勝利に終わった結果、バンデラと共に戦ったウクライナ独立軍はカナダに亡命し、ここにウクライナは、二つに引き裂かれたのである。
 91年ソ連邦分裂、ロシアもウクライナもともに独立する。ウクライナでは、ユシュチェンコという親ヨーロッパ系の大統領が欧州との経済関係強化に大きくかじを切った。ところが次のロシア系ウクライナ人を選挙母体とするヤヌコビッチが「それは早過ぎる」と政策変更したところから両陣営の緊張が一挙に高まり、2014年2月のキーエフにあるマイダン広場で両陣営激突、結果としてヤヌコビッチはウクライナから放擲され、ロシアに逃亡せざるを得なくなった。
 第2条件はここで完全に崩壊したのである。このマイダン騒擾を裏から後押ししたのが民主党のネオコン、オバマの副大統領だったバイデンであったというわけである。
 かくてプーチンは、ロシア系ウクライナ人が最も多く住むクリミアを国民投票を実施して一挙に併合。次に大統領に選ばれたポロシェンコはドンバス(ドネツク・ルハンスク)両州のロシア系ウクライナ人保護のため、15年のミンスクⅡの合意によって両州を特別保護区とする約束をし、そこから曲がりなりにも、8年間の均衡が生まれたのである。

(4)ウクライナ戦争の
前半

 そういう均衡が、どうして戦争にまで発展したのか。ウクライナに19年ゼレンスキーが大統領に、さらにアメリカにバイデンが21年に大統領になってから一挙に緊張が激化した。プーチンからすると許しがたい「クリミア奪還運動、ミンスクⅡの完全放棄などの挑発」が1年にわたって行われ、ついに22年2月24日ドンバス人民共和国の独立支持を目的とする「特別軍事作戦」が始まったのである。
 しかし、ロシア軍の初期作戦は大失敗であった。プーチンは、8年の間、ウクライナ軍が米英によって強化されていたことを見抜けなかったのである。
 しかし両軍は、開戦とともに停戦交渉を始めた。3月29日イスタンブールにおける交渉でウクライナ側は、NATO非加盟、ロシアを含む諸国による安全保障、15年間のクリミア和平交渉、これに倣ったドンバスの処理といった見事な和平案を提示、交渉はほぼ妥結したのである。
 これにストップをかけたのが「アメリカの冷戦後の至上の価値を認めないプーチンを徹底的に弱らせるまでは、停戦は早過ぎる」とした米英の意向だったという説が多数の研究者から述べられている。
 かくて4月6日、ウクライナは強硬な停戦案に切り替え、ロシアはこれを全面拒否、以後見通しのない戦争が続いている。
 それでも23年前半までは、米英他NATOに支持されたウクライナ側が戦況を有利に展開。ロシア側は、22年9月30日、ドンバス2州とザポロジア・ヘルソン2州を国民投票によってロシアに直轄併合して対抗したのである。

(5)戦争の後半

 ところが23年後半から、6月以降の反転攻勢の失敗、何よりも10月7日に始まったハマスとイスラエルの戦争によるアメリカの関心と支援の低下、年末から表面化したゼレンスキー大統領とザルジニー総司令官の対立等、全体状況はロシア側に有利に展開し始めた。
 かくて24年2月に入り、事態はさらに急変。6日クレムリンで、タッカー・カールソンとプーチンとの2時間にわたるインタビューが行われたのである。とりわけ注目されたのは、プーチンが何回にもわたり停戦の意義を強調し、22年3月のイスタンブール合意に戻れるか否かをそのヒントとして提起したことであった。
 片やゼレンスキーはミュンヘン安全保障会議で演説、「ウクライナの戦況がうまくいかないのは武器を十分にくれない皆さんの責任だ」と啖呵を切ったのであるが、ちょうどその日(17日)に東部戦線でこれまでウクライナ側が死守してきたアブデーエフカが陥落したのである。
 戦況が大きくロシア側に有利になったと喧伝される中で、米国議会では、下院の多数を押さえる共和党と民主党との間での対立が激化、年始めからウクライナ支援予算が凍結されたままで事態が推移し始めている。
 私は、プーチン側に一定の余裕が生まれている今こそ、彼から出てきた停戦へのシグナルを素早く受け止め、米英ウクライナは、停戦の可能性を探るべきではないか、カールソン効果が生きている間が、稀有の停戦への機会の窓が開かれているように思っている。
 しかし米英NATO派は、今こそプーチンを弱化させねばならない、マクロンに至っては、ロシアへの地上部隊派遣もありうるという危機感をあおる発言をしている(26日)。大統領選でトランプが勝てば、バイデンよりは停戦の可能性が広がると言われているが、アメリカの選挙頼みにするのではなく、むしろ今から11月までの間に「一刻も早い停戦」へのシグナルをお互いにつかみ合えるかが、今後の事態に大きな影響を与えるように思うのである。

ハマス・イスラエル戦争

(1)戦争の淵源

 中東戦争の本質を理解するには、どうしても第1次世界大戦まで戻らねばならない。戦争を有利に進めるために、当時の最大の帝国主義国イギリスは、パレスチナの地を、1915年にアラブ人居住区と是認(フセイン・マクマホン協定)、17年にユダヤ人居住区と是認(バルフォア宣言)する二枚舌外交を展開。
 さらにこの間、16年の英仏間のサイクス・ピコ協定で、中東地域を英仏の勢力圏で分割、パレスチナを共同管轄とする三枚舌外交を展開したのである。
 戦後この地域は国際連盟下におけるイギリスの委任統治下に置かれるが、やがて第2次世界大戦下のユダヤ人に対するホロコーストを経て、戦後、47年国連決議181号でイスラエルとパレスチナの分割の基本形が示され、これを踏まえて48年イスラエルは独立を宣言したのである。
 その後、中東におけるパレスチナとユダヤの対立は、48年から73年まで、周辺主要国に英仏米ソを巻き込み、4次の中東戦争として戦われたのである。

(2)和平への模索

 この混乱状況に少なくとも2回の真剣な和平努力が行われた。最初は78年の「キャンプデービッド合意」で、これはカーター大統領の仲介で第4次中東戦争で激突していたイスラエル(ベギン首相)とエジプト(サダト大統領)の間で平和条約が結ばれ、パレスチナ問題について「ヨルダン川西岸とガザ」についてパレスチナとの交渉という案が出現したのである。
 2回目の合意は、冷戦が終了しソ連邦が崩壊し、アメリカのリーダーシップが最強になった時点で結ばれた93年のオスロ合意である。クリントン大統領を仲介にパレスチナのアラファトとイスラエルのラビンが握手をし、ヨルダン川西岸とガザに、5年間のパレスチナ暫定自治区域がつくられたのである。
 しかしその後、第2次インティファーダという反乱(2000年)、ガザにおけるハマスの登場(07年)、イスラエル軍のハマス攻撃(14年)が始まる。
 さらに、トランプ大統領は、エルサレムの首都承認、アブラハム合意によるイスラエルと中東アラブ4カ国との外交関係設定、イラン核合意からの離脱と対イラン制裁の強化等の思い切った「親イスラエル」の政策を打ち出した。
 これに次ぐバイデン大統領時代での最大の出来事は、シーア派の雄イランとスンニ派の雄サウジの和解であった。だがそれは中国を仲介として行われた。このように、米国の動きは目立たないものだったと言わざるを得ない。

(3)ハマスの蜂起と
戦争の激化

 さてそういう状況の中で、23年10月7日、ハマスは、油断をしていたかに見えるイスラエル軍に対し猛攻を加え、1200人を殺害、人質240人を奪取、11月末には人質110人が解放されるが、それ以降、結局解放に至っていない。
 他方、国の存立に対して挑戦してきたハマスに対しイスラエル軍はガザを南下して猛攻を加え続け、2月末にはガザの死者は3万人を超え、南端のエジプト国境沿いのラファには140万住民が押し込まれ最悪の人道状況が起きていると伝えられている。3月初めには、アメリカ軍による落下傘による食料投下が行われた。
 将来像についてもアメリカとイスラエルの見方には差異が窺える。アメリカは昨年末、ハマス殲滅の後はパレスチナ統治とする案を提案したのに対し、イスラエルは2月、パレスチナを同国の軍事占領下に置くとし、民間自治の一部のみをパレスチナに委任する案を提示、パレスチナ側の峻拒に遭っている状況である。
 さらに戦争の全体状況については、パレスチナ支持のアラブ側からは、レバノンにおけるヒズボラ、シリアとイラクという不安定地域における「イラン革命防衛隊」、イエメンのフーシ派などの連動部隊が次々と砲火を上げ、それらの背後における最大の強国イランの企図が不透明な中に、緊張のみが拡大しているというのが現状である。
結論
 そこで最後に日本外交の原点に立ち返り、日本として「生命尊重」の観点から、「一刻も早い停戦」のためにできることはないか、もう一度考えてみたい。
 第2次世界大戦に参戦した日本が骨身に染みてわかっているのは、①いったん始まった戦争を停戦に持ち込むことがいかに難しいか、②早期の停戦が実現すればいかに多くの死ななくてよい人を救えるか、③日本がそれでも1945年8月15日に停戦に持ち込めたのは、降伏に当たっての日本の最終条件が「天皇制の護持」であることを知った敵国アメリカが、日本の最終条件に反しない形の終戦条件を出したからであること、換言すれば、停戦実現のために敵国を知ることがいかに重要か、等の諸点だと思う。
 ウクライナ戦争については、まず、日本の言うことがロシアに対しても米英ウクライナに対しても説得力をもつためには、ウクライナの国家再建のための真摯な努力を続けるとともに、殺傷力のある武器を絶対にウクライナに供与しないことが必要である。
 そのうえで、バイデン、ゼレンスキー、G7に対し、①停戦は、外交により、双方の妥協によってのみ実現できると考える、②太平洋戦争であまりに多くの人の命を死なせてしまった日本として、一刻も早い停戦をアドバイスする、③今すぐその機が熟さなくても、そのためのチャンネルづくりと相互理解の深化をぜひ今から行ってほしいという発言はできるはずである。
 中東戦争についても、パレスチナ、イスラエル、アメリカに対し、基本的に同じ発想で発言できるはずである。
 第1次世界大戦という歴史的原点に立ち、93年のオスロ合意を評価し、イスラエルとパレスチナの両国家併存体制構築のために努力していきたいという立場を、粘り強く慎重に出していくことは可能だと思う。
 それが、人命尊重と即時停戦を基調とする、日本外交の原点回帰に最もふさわしいアプローチではないだろうか。