角田義一代表世話人の死を悼む 原田 章弘

「俺は、追悼碑を抱いて死ぬ」と語った先生の遺志を継ぐ

代表世話人 原田 章弘

 「自主・平和・民主のための広範な国民連合」の代表世話人で、群馬の角田義一さんが突然、お亡くなりになられた。先生とは今年になって1月のパソコンでのオンライン会議での意見交換が最後になってしまった。


 先生とは、事務局長の山本さんと二人で議員会館の近くのホテルでお会いし、「国民連合代表世話人」を引き受けていただきたいというお願いをした時が最初の出会いだった。快くご了解いただき、運動にご一緒することができた。その後、東京・神田まで出てきていただいて会議にもご参加いただいた。いつも先生は「戦争はしちゃいかん」「日本は戦争は『しない』と憲法に書いてある」「アメリカにも、戦争はしないと憲法に明言されていると言え」と、必ず、「日本は戦争はするな」と言われていた。筋、信念は一貫しておられた。
 もう少し早く出会えていたら、会議後に酒を酌み交わすこともできたのかなと、今は残念でならない。
 さて、先生は群馬の森「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会の弁護団長であった。やはり、数年前にお亡くなりになられた朝鮮人強制連行真相調査団群馬の猪上輝雄さんともご一緒に行動されていたのではないだろうか。私は、調査団日本人側共同代表という立場で、「追悼碑」の前で行われた追悼集会だったろうか、来賓でごあいさつする機会をいただいた。私の住む横須賀に、ソウルから秋田のダム工事に「強制連行」され、その後、群馬の月夜野に連行され、日発岩田ダム導水路工事でも働いたご本人・当事者が住まわれていた。肋骨6本折り、手術で1本除去の一級障害者になったが、お一人で生活。随分交流したが、残念ながら2006年に彼はお亡くなりになられ、ご遺骨もソウルの親類の方が引き取りに来てくれて、ソウルに葬ることができたのだが、それがかなわなかったご遺体、ご遺骨など、「碑」には多くの無念が祀られていただろう。彼らのことを話しながら、県がこうした「碑」を建てる場所を提供したことを誇りだと持ち上げながらも、「強制連行被害者の無念を忘れてはならず、ともにたたかいましょう」などとあいさつをしたのを思い出す。
 他にも、県から問題指摘される「政治的な言葉」があったのかもしれないが、「碑」は永遠に守るべき存在と捉えていた。それが、24年1月末に「県による強制代執行」で「撤去される」というショッキングな事件に遭遇した。どう考えても山本一太というアベ側近だった現知事の犯罪的な事件。もっと言えばアベとともに「ニッポンの前途と歴史教育を考える」の主要メンバーだった山本一太知事の「歴史抹殺」事件だ。行動を改めて糾弾する。
 私も神奈川メンバーによる「抗議文」の発送を要請した。全国各地に、平和を願い、歴史を反省する現代の日本市民が建てた「朝鮮人慰霊・追悼碑」が数多く存在する。また、関東大震災朝鮮人虐殺100周年を記念して、新たに「追悼碑」を建てようとする運動も起こってきている。私たちは群馬の皆様の志に触れ、勇気をいただき、力強い運動にしなくてはならない。歴史歪曲者・抹殺者に負けてはならないと強く決意する。
 角田先生は「俺は、追悼碑を抱いて死ぬ」と語っていたそうだ。本当にお亡くなりになられてしまった。
 先生の「無念」を心に刻み、群馬県民による「碑」の再建を期待し、また「国民連合」の大いなる発展を期待し、「戦争は絶対にしない」と願い、追悼の言葉としたい。