安保3文書閣議決定の撤回を求める 畠山 澄子

平和構想提言「戦争ではなく平和の準備を―〝抑止力〟で戦争は防げない―」をもとに 市民目線で安全保障を捉え直す

ピースボート共同代表 畠山 澄子

はじめに
 昨年12月、岸田内閣は臨時閣議で、「国家安全保障戦略」など安全保障関連の3文書の改定を決定しました。防衛費が大幅に増額になり、敵の弾道ミサイル攻撃に対処するために発射基地などをたたく「反撃能力」の保有が明記されるなど、戦後80年近くにわたって不戦を貫いてきた日本の安全保障政策が大きく転換します。


 私はピースボートの活動を通して、戦争や紛争の被害、また国際的な緊張関係や対立関係を、市民同士の草の根の交流を通して見つめてきました。その経験から、安全保障環境が厳しい今こそ、日本がすべきは戦争の準備ではなく平和外交だと強く思っています。また、平和外交は安全保障政策としてきわめて現実的だと、これも世界をめぐりさまざまな地域に学ぶ中で感じてきました。そのような問題意識を政府・与党の政策に対抗する言論としてしっかりと打ち立てたいと思い、学識者やジャーナリスト、NGO関係者でつくる「平和構想提言会議」のメンバーに加わり、昨年12月15日、「戦争ではなく平和の準備を―〝抑止力〟で戦争は防げない―」と題した提言を発表しました。
 提言には、市民のリアリティーとあまりにもかけ離れた安全保障の捉え方への強い危機感、国会での議論も経ずになし崩し的に国のありかたの根幹が変えられてしまうことへの憤り、そして、将来世代が本質的な安心を得られるような政策を考え実行してほしいという切実な願いを込めました。

「何があっても戦争を起こさせない」という強い決意を出発点に

 徹底的な非戦・平和主義にこだわる理由があります。これまで戦争体験を私に語ってくれた、たくさんの人たちの声です。平成生まれの私は、「戦争を知らない世代」とくくられます。たしかに私は戦時の体験はありません。しかし、私が生まれてからも、世界のどこかで戦争や紛争はずっと起きています。今この瞬間も、戦時下に生きることを強いられている人たちがたくさんいます。
 10代の頃、留学先で共に学んだボスニア・ヘルツェゴビナ出身の友人は、「戦争がなければお母さんは死ななかった」と私に一言つぶやきました。終わることのない悲しみを抱える彼女を目の当たりにし、返す言葉がありませんでした。ガザ地区から来ていた先輩には、「毎日ふるさとの家族の心配をしなければいけないこの気持ち、わかる?」と、ぶつけられました。ピースボートで訪れたベトナムでは、私と同じ年の女性が枯れ葉剤の影響に苦しみ、それでも前を向こうともがいていました。ピースボートが1990年代から支援を続けるカンボジアでは、内戦の傷痕はあまりに深く、地雷の被害はいまだに終わりが見えません。そしてロシアがウクライナに軍事侵攻した今、ピースボートのクルーズを共につくってきた元乗組員らが戦火を逃れ、家族がバラバラになりながらの避難生活を余儀なくされています。
 戦争や紛争を体験してきた人の話を聞くと、被害者も加害者も凄惨な経験をしています。大切なものを奪われ、尊厳を失い、人の命を奪ったことを悔い、計り知れない悲しみや憤り、憎しみを抱えている人ばかりです。「正義の戦争」であろうと「自衛の戦争」であろうと、市民にもたらすのは大きな被害と絶望、取り返すことのできないほどの喪失と破壊です。そして、一度憎悪を焚きつけられて分断した社会において、その後の和解はとても時間がかかります。これこそが、市民の知る戦争のリアリティーです。
 日本はかつて侵略戦争を行い、アジアの諸国に惨害をもたらしました。日本においても12万人が命を落とすという凄惨な沖縄戦を体験し、広島・長崎では20万人に及ぶ犠牲を出しています。このような経験を踏まえ、また世界中で戦争が市民に強いてきた惨禍を思えば、私たちの出発点は「何があっても戦争を起こさせない」という強い決意であるはずです。

何から何を守るための軍拡か、何を犠牲に成り立つ安全保障か

 戦争や軍拡、さらにはより広く軍事主義に反対する理由がもうひとつあります。軍事を中心に回る社会は、人権や民主主義などと相いれず、必ず脆弱な立場の人や地域に犠牲を押しつけるような社会構造を生み出すことです。
 私は長年、広島・長崎の被爆者の方々をピースボートの地球一周の船旅に招待し、世界中を回りながら証言活動を行う「ヒバクシャ地球一周~証言の航海~」を担当してきました。
 その中で、核兵器のある世界は、弱い立場にある人たちの命をないがしろにするからこそ成り立ってきたということを痛感してきました。核の被害者は広島・長崎の原爆を体験した被爆者だけではありません。ウラン採掘から核兵器の製造、そして核実験に至るまで、核兵器のある世界を維持するためにはあらゆるプロセスで核の被害者が生まれます。被害に苦しんできた人の多くは植民地支配下におかれた人たちであり、先住民族であり、貧しい人たちです。そのような人たちの多くは声を上げる手段を奪われ、自分たちの経験の不当性を訴える言葉を持ち得ませんでした。彼らの経験はなかったことにされ、隠されてきました。
 同じことは日本の軍拡にも当てはまります。日本政府がこの50年ほど徐々に防衛力を強化する中で、基地負担やそれに伴う環境的な影響や性暴力、貧困の連鎖は南西諸島をはじめとした地域に押しつけられてきました。地元の人たちがどれだけ反対の声を上げ、民主的な手段で政府の決定に抗議をしようと、その声はかき消され、軍拡は強硬的に進んできました。「軍は民を守らない」というのは沖縄戦の教訓でもあります。台湾有事で、なぜ沖縄が戦場になり、県民が犠牲にならなければならないのでしょう。台湾有事を盾に南西諸島で強行される日米の軍拡は「何から何を守るための軍拡か」との疑問をもたざるを得ません。
 フェミニズムの視点から見れば、そもそも軍事力で安全を保障するという考えは、抑圧的な力の行使や威嚇を肯定することです。それは、暴力的な力に優位性と「守る」役割を与え(いわゆる「男性性」)、日々の生活の安寧を重視した非暴力的な問題解決(いわゆる「女性性」)を従属させるという権力関係を構築します。私たちは戦争や軍拡の問題をより根本的な公平性(justice)の話と結びつけながら、負担を特定の人や地域に押しつけることでしか成り立たない軍事主義の構造的暴力からも目をそらさずに議論を進めるべきです。

軍拡は戦争を回避するのか

 政府は今回の安全保障政策の転換を、戦争を回避するための施策だと説明します。しかし、今回の政策転換が戦争のリスクを著しく高めるものであることは明らかです。
 北朝鮮による核ミサイル開発、中国による軍備増強や海洋進出は、たしかに日本にとって重大な問題です。しかし、それらへの日本の対応策が「抑止力強化」という名の軍備増強や「日米同盟強化」という名の攻撃態勢強化ばかりであるならば、軍事的緊張を高めこそすれ平和的解決は遠のく一方です。北朝鮮は自らのミサイル発射について、米韓軍事演習への対抗措置だと主張しています。日米韓が軍事的圧力を強化し続けるならば、北朝鮮が軍事的挑発を加速させることは必至です。
 一方、中国の軍備増強は、米中間の戦略的な対立の構図の中で捉えるべきです。台湾有事を想定した日米共同統合演習(キーン・ソード)を含む日米の言動そのものが中国を刺激し、台湾海峡をめぐる緊張を高めています。日本が米国とともに台湾有事を誘発するような挑発行為を行い、その結果として自ら戦争の当事国になるリスクを高めるという、負のスパイラルに陥っているというのが、今の日本がおかれた状況でしょう。
 戦争を回避するという政治の最も重要な役割を果たすために岸田政権がやるべきは、軍拡ではなくアジア外交と多国間主義の強化です。平和とは関係性の問題であり、一国でつくれるものではありません。だからこそ、日本政府は日米同盟一辺倒になるのではなく、外交と対話を通した地域の信頼醸成に何よりも力を注ぐべきだと思います。具体的には、東アジアにおいて敵をつくらない「共通の安全保障」をあらためて促進する必要があるでしょう。
 ASEAN(東南アジア諸国連合)やARF(ASEAN地域フォーラム)のような地域安全保障のアプローチを北東アジアにも生かしていくべきです。
 日本は第2次世界戦争の反省をもとに、憲法の下で「専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国にならない」ことを基本理念としてきました。世界に対する誓約でもあるこの理念こそが、戦後日本が国際社会で信頼を得てきた基盤になったことを忘れてはいけません。その原点に立ち返り、着実な外交と対話を進めることを求めます。
 「過去の戦争を見つめ、未来の平和をつくる」というのが、ピースボートが設立当初から掲げる理念です。教科書問題がきっかけとなり、アジア地域の対話を通して歴史を見つめ直すための船旅として始まったピースボートは、今年40周年を迎えます。何か緊張関係が生まれたときに、漠然とした不安を煽るのではなくまずは対話をするべきだというのは、40年間にわたり世界中の戦争や紛争に学び、また年々多国籍化する船内の運営において試行錯誤を重ねる中で、私たちがたどり着いたひとつのたしかな結論です。国家の関係にも同じことが言えるはずです。平和的に共存するための対話の努力を怠り安易な軍拡に走ることは、大きな過ちです。

おわりに

 最後に考えたいのは、平和やゆたかさ、安心・安全の再定義です。現役世代の日々の暮らしを見れば、人間の安全保障の観点からゆたかさを定義し直し、政策を立て直すのが急務であることがわかるはずです。私たちの目の前に広がるのは、賃金は上がらず物価だけは上がり、ジェンダー指数は世界最下位レベル、子育てにせよ介護にせよ老後にせよ、生きていくことに不安が付きまとう社会です。余裕のなさが思いやりを失わせ、協力ではなく競争が、分かち合いではなく削り合いが蔓延っています。
 ベーシックニーズが満たされているか、将来の心配をせずに仕事や子育てに取り組めるか――、本来はそういったところに実質的な社会の持続可能性や人々の安心・安全、そして平和があると思います。防衛力を大幅に強化するということは、本来社会保障や教育、医療や公共サービスに使われるべき資源が防衛に振り替えられるということでもあります。
 国家の安全保障を優先することが本当に人間の安全保障につながるのか、私たちは冷静に見極める必要があります。私は人間の安全保障を守ることが、結果的には国家のゆたかさにもつながると信じて、今後も安全保障の議論に市民の立場から積極的に参画していきたいと思っています。

提言は平和構想提言会議特設ページから閲覧・ダウンロードすることができます。 https://heiwakosoken.org/teigenkaigi/