復帰50年 県民大会開催される 新川 秀清

戦場だったところに嘉手納基地はあるのです

第4次嘉手納基地爆音差止訴訟原告団 団長 新川 秀清さん

 「戦世(いくさゆー)」から77年、「復帰」から50年がたちました。
 私たち基地周辺に住んでいる住民が、これでは「にじてぃ にじららん」(耐えようにも耐えられない)ということで立ち上がって、嘉手納基地の爆音を止めろという裁判を提起してから40年です。今年、第4次の爆音訴訟を提訴いたしました。


 先ほどからの平良亀之助さん、石川元平さん、お二方のお話にもありましたように、私たちは「地上戦の戦世」をくぐり抜けてきた県民の思いを込めて平和憲法の下にと「復帰」を求めてきました。ところが、今私たち基地周辺に住んでいる住民、また私たちだけではなくて、沖縄県民がこの50年、味わわされてきた、踏みつけられてきたモノは何だったんでしょうか。

平和憲法の下に帰った沖縄は憲法番外地

 私が住んでいる沖縄市、かつてのコザ市は基地沖縄の縮図と言われました。今でもそれを引きずっている街だと思っています。この沖縄市で復帰前に、4期市長を務められた大山朝常さん(1958年から74年まで4期16年間コザ市長)が、復帰前にこういうことを繰り返し言っておられます。「沖縄は『唐の世』から『大和の世』、『大和の世』から『アメリカ世』、そして復帰して『大和の世』になるというけれど、戦前を生きた私に言わせれば『大和の世』ではならんどー! 『うちなー世』にしなくてはいけない」と何度も言われました。

 私は当時コザ市の職員ではありましたけれども、今の「復帰50年」に際しても、大山市長の言葉が脳裏を離れることはありません。

 「うちなー世」になったんでしょうか?
 復帰50年、平和憲法の下に帰ったはずの沖縄で、私たちは1982年2月26日に第1次爆音差止訴訟を起こしました。それが3次は2万2000人以上の大原告団でしたが、本年2月に提訴した4次では実に3万5000名を超える大原告団になりました。

 「にじてぃ にじららん」は、沖縄の思いとしてよく使われる言葉ではありますが、広大な土地を米軍に奪われて、その基地周辺に住まわされて77年。しかも自分たちが生まれ育ったところに行くこともできない。基地のフェンスに排除され入ることができないという沖縄の現実。これに対する怒りが爆発した、今回の大原告団をそういうふうに私は考えているんです。

 今、私たちは40年にわたって、基地の爆音を無くせと、人間が人間として当たり前に生きていく、それぐらいは認めろと叫び続けてきました。夜ぐらいは静かに寝られるようにしてほしいということを訴え続けてきました。

爆音ではなく、虫の声が聞こえる生活を

 そしてそういった中で今、基地周辺ではこういうことがよく言われます。沖縄に住んでいると、「子供たちは母親の胎内にいるときから墓場に行くときまで」爆音に曝されている。これが沖縄なんだと。皆さんもご存じでしょうが、「揺りかごから墓場まで」というこれは社会保障の大きな目標として言われたことがあります。ところが沖縄では胎内にいるときから旅立つ時まで爆音に曝されている。今、沖縄市や嘉手納町、読谷村、うるま市等、そういったところでは先立つ先輩をお送りするとき、その時間を静かに送ることができないんです。墓場に行く時まで爆音。それが沖縄なんです。

 嘉手納の高校生原告が、第3次の訴訟の時、裁判所で訴えました。
 「爆音でなくて、虫の声が聞こえる生活がしてみたいんです」と。この子ももう社会人になっていますけれども。そういった中で今、普天間小学校でどういうことが起こっていますか? 体育の時間に運動場で思いっきり飛び跳ねているときに米軍ヘリが飛んでくると、シェルターに逃げなければいけないのです。

 この光景に私は小学校2年の時のことを思い出します。授業中に空襲警報が鳴った。訓練ということで教室から出て校庭に伏せたことを思い起こすんです。それが続いているうちに実際の空襲警報があって、教室から飛び出て逃げていくことが繰り返されました。あの1945年4月の米軍の沖縄本島上陸だったわけです。

 私は経験しました。壕に逃げ込みました。父親たちは全部防衛隊に取られて、母親と子供たちだけ6所帯28名が入っていた墓(防空壕代わりの)に、4月3日上陸した米兵が来て銃を撃ち込んできました。目の前で私より3つ年上の女の子が一言も発することもなく、親兄弟の前で殺されました。そして、2回目に撃たれた時には、さらにもう一人が殺されました。そして、次に撃たれた中で兄弟二人が重傷を負いました。

アメリカ世に大和の世が被さり

 こうした戦場だったところに今、あの嘉手納基地があるんです。そして、今そこから飛び立つあの爆音、そして先ほど申し上げましたけれども、母親の胎内で爆音に曝されて低出生体重児が生まれている。これは大学の研究ではっきり出てきました。それから高血圧や聴力障害、こういった被害が繰り返されているんです。爆音のために年間で何名もが命を亡くしていく、こういったことが繰り返されているのが沖縄の現実、基地沖縄です。
 そして先ほど申し上げましたけれども、復帰をして平和憲法の下に帰るという望みがありました。しかし、私は今思うんですが、復帰をして沖縄のこの状況を基地問題を通して見るときに、米軍が統治してきた「アメリカ世」の27年間に、その後の50年間はさらに、日本政府の「大和の世」が被さってきて「沖縄の基地、基地の島沖縄」が、ずっと今継続されているという思いがしてなりません。

 こうした現状を見るとき、本当に沖縄の平和を願うわれわれは、あの50年前の屋良建議書の視点に立って、これからもどれだけの闘いを続けていくことができるかと原告団団長として考えています。大山朝常市長の語った「大和の世」の次の「うちなー世」をつくるために。(本文で語られている大山朝常氏の考えは、著作『沖縄独立宣言―ヤマトは帰るべき「祖国」ではなかった』現代書林1997年発行による)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする