激変の世界、大変な時代に生きている
安全保障をどう確保するかが問われる
衆議院議員(元自民党幹事長) 石破 茂
議員になってもう37年目です。右からは左と言われ、左からは右と言われる。実に不思議な立ち位置にありますが、絶対的な立ち位置は変わっていない。言っていることは変わっていないんです。
戦後は終わり民主主義も危うくなった
平成の時代はおそらく、三つのものが本質的に変わった、そういう時代だったと考えます。一つは間違いなく「戦後」が終わったということだと思います。昭和20年に少年兵として従軍された方も今は90歳になられる。田中角栄先生は従軍された経験がおありでしたが、ご存命中に、「あの戦争に行ったやつがこの日本の中心にいる間は大丈夫だ」とおっしゃっておられた。「だけど、そういうやつがいなくなった時が困るんだ、だからよく勉強してもらわなければいかんのだ」ということをよく言っておられた。その戦後が終わった。
二つ目は、民主主義が相当に変質を遂げた時代だったと思っております。民主主義というのは大勢の人が参加しないと成り立たない。国政選挙でも無投票が増えています。それは民主主義の危機なんだろうと思います。
権力とメディアが一体になると民主主義は破壊されます。恐ろしいことです。商業ジャーナリズムとはいえ、あまりに権力と一体化すると危ない。
日中戦争から太平洋戦争まで、戦争を一番煽ったのはメディアでした。今でも旭日旗を社旗にしている新聞社がありますが、当時は神風号なんてすごい飛行機を飛ばしていた。「わが皇軍の躍進」といった映像や写真を運ぶための高性能の飛行機で、陸軍と大手新聞社が組んで戦争熱が煽られる。もし太平洋戦争開戦の昭和16年12月8日に世論調査があったならば、日米開戦を支持する人は99%になっただろうと思います。「世論」にはこういう面があり、メディアの扇動は非常に怖いことだと思っております。
私は、議会人で一番尊敬するのは誰かと聞かれれば斎藤隆夫という名前を挙げるんです。兵庫・但馬選出の、当時与党であった立憲民政党の代議士です。昭和15年2月、時の内閣は米内光政内閣でしたが、斎藤は与党の代議士でありながら2時間にわたって、のちに「反軍演説」といわれる演説を議会の壇上で行いました。「けしからん」ということで、衆議院を除名になり、演説の3分の2は議事録から削除され、今なお削除されたままです。しかしその音声は残されていて、今はスマホで、「斎藤隆夫反軍演説」と検索してもらうと聞けます。
彼は、「この日中戦争は何のためにやっているのか。何のために兵隊さんはあの満州で戦っているのだ。その目的を述べよ。戦争を始めたらどうやって終わらせるのだ、見通しを述べよ」という趣旨の質問をし、それが軍を侮辱したということで除名になりました。反対したのはたった7人で、あとは賛成か棄権でした。大政翼賛会というのはそれほど強かったんです。「最近の選挙は大政翼賛会化していないか」という指摘も近ごろあって、労働組合も野党も何が何だかよく分からなくなってきていますが、当時の議会の状況はこういう怖いものでした。
斎藤隆夫は除名になりながら、次の選挙でも圧倒的な票数で当選しました。大政翼賛会の推薦は受けませんでした。
翻って今日も、民主主義はかなり危うい状況になっているのではないか。今の小選挙区制というのはまずかったかもしれない。導入に大きな責任のある張本人がそんなことを言っていたらいけないが、慙愧に堪えないところがあるんです。
自衛隊が国民のコントロール下でなくてよいか
自民党は自主憲法制定が党是です。私はいわばバリバリの9条改正派、第9条第2項削除派です。もともとの自民党の考え方もそうです。
「陸海空その他の戦力は、これを保持しない」とあるが、ではF-35を持っている航空自衛隊とは何ですか。イージス艦を持って、空母化した「いずも」も持っている海上自衛隊とは何ですか。「軍隊ではございません」、なぜですかと問うと「必要最小限度であって『戦力』にはあたらないからです」というのが答えです。
私も、防衛庁長官、防衛大臣としてそういう答弁をしました。しかし、北朝鮮に対して必要最小限度のものは、間違っても中国に対する必要最小限度ではないはずです。そんな便利な軍事力は世界中どの国にもない。国の独立を守るのが軍隊で、国民の生命、財産、公の秩序を守るのが警察で、法執行が検察の仕事です。
こうことを言うと反感を買うのは百も承知のうえで申し上げますが、マックス・ウェーバーは「国家とは、軍隊と警察という『暴力装置』を合法的に独占する主体」だと言っています。民主党の仙谷由人さんが当時、これを言って大騒ぎになりました。私は当時自民党の政調会長で、仙谷発言を「けしからん」と批判しましたが、仙谷さん、マックス・ウェーバーを読んでいるんだなと内心では感心した覚えがあります。
この「暴力装置」を「実力組織」と言い換えてもいいのですが、この国家の定義はなかなか正鵠を射ています。軍隊は国家に所属し、警察は政府に所属する。警察は行政機構ですが、本来の軍隊は三権分立の外にある組織とするのが一般国際常識です。
だから文民統制という話になる。文民統制には、統制する主体と統制される客体がある。コントロール・統制する主体と統制される客体が一体のものだったらコントロールは成り立ちません。日本の場合、法制上、防衛省は完全に国家行政組織。そうするとコントロールする側とされる側が同じ行政組織ということになってしまう。
5・15や2・26を引くまでもなく、クーデターが起こる可能性は常にあります。軍人というのは使命感が強い、正義感の強い人たちが多い。「自分たちがやらないでどうするんだ」そういう思いを持つ人たちも一部にはいるわけです。国家最大の実力組織が政治主体として行動したら、警察が束になってかかろうが、海上保安庁が束になってかかろうが勝てない、ということになる。
だからこそ、三権分立の外にある軍を、司法、立法、行政というすべての権力機構においてコントールする必要がある。それが本来の文民統制です。ところが日本において、例えば国会で制服自衛官が説明したり答弁したりすることはありません。そんな国は日本だけです。それが平和の証しだと言うけれど、私はそうは思っていない。議員が自衛官に軍事に関して質問をし、自衛官が専門的知見に基づいて答える。必要ならば秘密会もちゃんとやる。それが立法の役割ではないんですか。
私が防衛庁長官や防衛大臣を拝命していた間でも、まったく自衛隊法も知らず、日米安全保障条約も日米地位協定も読まず、自衛隊の装備、10式戦車と90式戦車の違いも分からない、そんな議員は残念ながらたくさんおられました。
私は、軍事オタク、軍事マニアみたいに言われていますが、専門知識もなくて自衛隊をコントロールするなどという方がよほど怖くないですか。それでは行政によるコントロールはできません。司法もそうです。普通は物を壊すと損壊罪、人をあやめると殺人罪、しかし戦場のルールと一般社会のルールとは全然違うんです。日本には軍法がないのが素晴らしいと言う人がいるが、軍法がない方がよほど怖くないですか、軍人の権利はどうなるんですか。どうやったらそれが守られるのですか。
安全保障を突き詰めて考える
「交戦権」というのは、戦闘行為を行うにあたっての国際法上のルールをいいます。ハーグ陸戦法規とかジュネーブ条約とか、捕虜は虐待してはいけないとか無差別爆撃はいけないとかいったものです。そうすると憲法の、「国の交戦権はこれを認めない」という条文は、聞いただけでもおかしいですよね。ところがそれが当たり前のように謳われている。
いかに日本人が、安全保障というものをきちんと考えてこなかったか。私は、そこを突き詰めて考えないといけないのではと思っているのです。そうしないと台湾有事をどう避けるか、そういう話につながっていかないという気がしてしかたがない。根本からきちんと考えませんかということです。
日本には、「基本法」というのが50くらいあるんですね。農業基本法とか水産基本法とかいろんな基本法があります。ところが安全保障基本法はない。
憲法改正というのは手続き的に難しいですね。衆参国会議員の3分の2の賛成で発議され、国民投票の2分の1で成立、ということで、けっこう難度が高い。だけど基本法は国会の過半数で成立します。
私は、集団的自衛権の行使は、国際法上のルールを守ったうえで全面的に認めるべきだし、今の日本の憲法でもそれは可能だと思っています。インデペンデントな(独立した)日本というのはそういうことじゃないかと思っています。
他国の軍隊が条約上の権利として駐留している国は世界中でも日本しかありません。アメリカは何も好意で基地を置いているわけではなく、条約上の権利として日本の施政下にある領域に駐留している。日米安全保障体制というのはそういうものです。
平たく言うと、日本がどこかから攻撃を受けたらアメリカが助ける義務を負う、アメリカが攻撃されても日本は助ける義務を負わない代わりに、基地を提供している。だから非対称双務条約といわれるわけです。
私は、在日米軍は必要だと思っています。だけど、それは憲法上の制約から条約上の義務として置くのではなく、日本国の主体的な政策選択として置くべきです。そして、何のために三沢にF-16があり、何のために嘉手納にF-15があり、何のために岩国にオスプレイがあるのか、何のためにどこに何があるのかをきちんと理解しないで、どうして日本の安全保障が組み立てられるか、ということです。
アメリカの国務長官だったダレス氏は新安保締結の前後、「合衆国の利益は、合衆国に日本を防衛させることにあらず。日本のどこにでも、どれだけでも、いつまででも、合衆国軍隊を駐留させる権利を持つことだ」と書き残しました。これをどう考えるのかという話です。
わが国のふさわしい抑止力はどのようなものか
台湾有事について、可能性がまるでないとは言えません。だから、起こらないために抑止力を機能させなければならない。
そこで、どのような装備を持っていて、どのような作戦計画で、どのように運用するのかというのを知らないで、どうやって抑止力が保てるんだと思うわけです。
先ほど柳澤さんが抑止力の話をされました。ご存じのように抑止力というのは二通りあります。懲罰的抑止力と拒否的抑止力です。やれるもんならやってみろ、倍返しだぞ、やったらひどい目に遭わせるからねというのが懲罰的抑止力です。日本はそんなものは持ちません。持てませんし、持つ意味がありません。
もう一つは、やっても戦争目的は達成されないからね、国際社会から非難を浴びるのはあんた方なんだよ、というのが拒否的抑止力です。ミサイル防衛システムというのは、それ自体は何の攻撃力も持ちません。飛んできたミサイルを打ち落とすだけです。しかも、飽和攻撃、いっぺんに何百発も飛んできたら、対処できないことがありえます。それでもないよりはましだと私は思っています。これも拒否的抑止力の一つです。
国民の命をどう守る
もう一つ重要な拒否的抑止力は国民保護だと思っています。
防衛庁長官を拝命していた時、この国民保護法制の国会審議を担当し、成立させていただきました。有事法制と言われ、自民党はいよいよ戦争準備を始めたんだと批判されました。
しかし例えば、阪神・淡路大震災の時に、パトカーも消防車も赤信号を無視して突き進んだ中、自衛隊の車両は赤信号で全部止まった。そりゃおかしいでしょう、ということなんです。有事法制は戦争準備法ではありません。いかにして自衛隊が緊急時、有事に、迅速に動けるか、ということを担保するための法律です。有事に戦車がサイレン鳴らして、赤いランプつけて走らなくてもいいように。侵略してきた国の戦車は赤信号で止まらないんですから。
有事法制の意義はもう一つ、国民保護です。なんで先の沖縄戦で、あんなにいっぱい住民が犠牲になったのか。それは民間の人々を兵隊と一緒に行動させてしまったからです。有事に兵隊さんと一般人が一緒にいていいはずがない。
なんで太平洋戦争で、あんなに多くの一般人が死んだのか。米軍は、日本の家屋が木と紙で出来ていることを調べていた。一方、戦前の日本には国民の命を守るという発想はなかった。当時の防空法というのに何が書いてあったか。「空襲を受けたら逃げてはいけない、バケツリレーとほうきで火を消せ、逃げたら厳罰だ」とあった。燃料を入れた爆弾(焼夷弾)が落ちてくるのに、バケツリレーで消せるわけがない。だからそれで大勢の民間人が犠牲になった。
そういう経験を教訓として、有事になっても民間人は死なないための有事法制が必要でした。今、法律はありますが、訓練と設備が足りません。シェルターの整備もそうです。キエフをご覧になってもみんな地下鉄に逃げています。北欧の国ではシェルター設置率は100%と言われています。
安全保障をどう確保するか
「敵基地攻撃」はこれから、まず自民党内でちゃんと議論します。今までの防衛体系の中でどのような意味を持たせるのか、どれだけ抑止に寄与するのか。
「核の傘」というけど、アメリカはどんな時に差してくれるんですか、傘はどれくらい大きいんですか、穴は開いていませんか、というようなことは定期的に検証すべきです。核共有にしても、NATOの非核保有国がなんであのような政策をとっているのかということは、きちんと検証しないといけないと思っております。
ドゴールが「同盟とは共に戦うことはあっても、決して運命は共にしない」という言葉を残しております。それが真実なんだろうと思います。だからこそ、自国の安全保障には、自国民がきちんと向き合わないといけない。
今回、国際安全保障に詳しい人ほど、ロシアがドンバス地方以外のウクライナに侵攻するわけはないだろうと予測して、それが外れました。核を持った国連安保理の常任理事国がそんなことをするはずがない、と見誤った。
戦のネタは掃いて捨てるほどあって、領土、宗教、民族、政治体制、経済格差、このような理由で戦争が起こってきました。冷戦時代は東西の「力の均衡」や「マッド(MAD、相互確証破壊)」などで、そういった多くのネタが封印されていましたが、冷戦が終わってそれらが出てきてえらい時代になりました。
今まで、国家主体しか持てなかったような武器をテロリストが持つようになりました。
テロリスト集団相手に「ユナイテッド・ネーション」は機能しないので、有志連合などの工夫が必要になりました。日本では「ユナイテッド・ネーション」を「国際連合」と訳していますが、誤訳なのか意図的なのか、ひどい訳だと思います。中国語では「聯合国」とそのものずばり言っています。ともあれ、テロ集団相手には国連が機能しない、と思っていたら、今度は常任理事国がこんなことをやり始めた。
大変な時代に生きている。だからこそ、安全保障をどう確保するか、そういう議論は本当に必要だなと思っております。