「天の呼ぶ声」に導かれた中国との関係
早稲田大学名誉教授・元総長 西原 春夫
「盧溝橋」の形で登場した「中国」
1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件が勃発した。その後、支那事変(現在でいう日中戦争)、大東亜戦争(現在でいう太平洋戦争)へと拡大していくきっかけになった事件である。
私は小学2年生、9歳だった。盧溝橋事件そのものは、盧溝橋付近で演習をしていた日本の軍隊に、近くにいた中国の軍隊が十数発の実弾を発射したという単純な形をとるが、そもそも中国の領土で、その国の軍隊が展開しているすぐそばで(駐留は認められていたとはいえ、敵対関係にある)外国の軍隊が演習をするという異常さが物語るように、いつ戦争になるかわからない危険な条件が整った上での事件である。したがって本当は、事件の意義はそのような条件が形成される長い歴史ぐるみでなければわからないはずのものだった。
現在ではその背景はかなりはっきりしている。根本的な原因は、19世紀におけるヨーロッパ帝国主義のアジア侵略まで遡り、それへの日本の対応(防衛)、影響(帝国主義病の感染)という形で進行したその後の歴史が複雑に絡み合い、とくに日露戦争の結果獲得した南満州鉄道経営という権益を守るために軍隊の駐留を認めさせた、その成り行きがこのような異常な条件だったのである。
しかし小学2年生にとっては、歴史的背景など知る由もない。記憶にもなかった。お隣に「支那」と称する国があることは知っていたが、自分とかかわりのある特別な国だとの意識はなかった。ただそこに突然盧溝橋事件が飛び込んできただけである。
これは確かに重大ニュースだから、当時すでにラジオを聞き、新聞も垣間見られる年齢に達していたので、幼いながら事件の成り行きを追っかけたことはよく覚えている。今から顧みれば、たとえばニューヨークの摩天楼からアメリカを、ピラミッドからエジプトを意識するように、私にとっては中国が盧溝橋という形をとって意識に上ってきた瞬間だった。
日中戦争は小学生時代全体を覆う出来事だったから、意識の上で隣にはいつも中国があった。開戦まもないころ、通っていた学校の先生で、すでに陸軍士官の資格を持っていた方が学園から初めて出征した。凜々しい軍服姿の先生を、全校生徒で送ったものである。
しかしその先生は、出征後まもなく有名な上海上陸作戦に参加し、呉淞クリークで戦死を遂げたとの報告が入った。実は先生の娘さんが同級生だったので、その報告は衝撃的だった。「戦争」というものを実感した初めてのことである。同時に中国という国が、ある意味でますます近づいた。
人生を分けた1945年8月15日
中国との精神的な関係は、その後長い間、そのような状態のまま続いた。長い間というのは、日中戦争が太平洋戦争にまで拡大し、それが終わる45年8月15日までということである。
私は生まれながらにして、日本の戦争の歴史を後世に伝え、不戦を説く宿命を背負っていたのかもしれない。そもそも私の生まれた1928(昭和3)年は、近代日本が太平洋戦争の開戦、敗戦に向けて明確に転落を始めた年だった。国内的には、誕生日2日後の3月15日に、3・15事件(共産党員1600人の一斉検挙)が起こったし、治安維持法の改正やいわゆる特高警察の設置が行われ、まさに言論弾圧の基礎が築かれたのがその年だった。
国際的には第二次山東出兵や済南事件、さらには後に満州の建国につながっていく張作霖の爆殺事件が起こっている。
必然でもあり偶然でもあったのだろうが、私はそういう中で生まれ育った。比較的素直なほうだったので、親や先生の言うことをそのまま受け入れ、時代の成り行きを肯定し、愛国少年、軍国少年に育っていった。日本のアジア政策はすべて正しく、その一環として始まった戦争は、新アジア建設に向けた「聖戦」だと思い込んでいた。大変失礼ながら、支那や朝鮮は昔は立派な国だったが、今は衰退し、日本に服従するのは当然と考えていた。本気でそう思っていたのである。
そのような若者にとって、1945年、敗戦に伴って襲いかかってきた価値の転換は激烈だった。今まで正しいと信じていたことが誤っていたとされ、すべきだとされていたことがすべきでないものだったとされたときの衝撃の強さは言葉で言い表すことができない。しかもそれを人生でもっとも多情多感な17歳という年齢で経験させられたのだ。
とりわけ私を苦しめたのは、45年から数年の間に、過去の日本や日本人が外国でやったことの真相を知るに至った時である。鳥肌が立つというか、背中に汗がどっとわいてくるというのか、いても立ってもいられない思いを何回させられたことか。
そういう中でじわじわと浮かび上がってきたのは、日本人は屈辱や損害を与えた周辺国の人々に対し、償いをしなければならないのではないかという思いだった。確かに「国」の立場に立ってみると、過去の行動には複雑な原因、理由、名目があるので、起こった事実すべてについて日本だけが責任を負担すべきだとは限らない。しかし、被害を受けた「民」の立場に立ってみると、端的に被害の事実だけが問題となり、そこでは国としての名目などどうでもいいことになってしまう。そのことは、戦地で日本の兵隊の手によって愛する父親、夫、息子を殺され、家を焼かれ、食料を奪われた庶民の気持ちを考えてみるとよくわかる。そこに恨みが生ずるのは当然だし、その恨みは三代にわたって残ると言われる。そうだとすれば、日本は三代にわたってそれを償わなければならないのではないか――、それが当時の17歳少年の深い想いだった。
しかし当時の自分は若くて何の償いをすることもできない。おそらく大人になったら、何らかの形でそれができるようになるかもしれない。それまで、この想いを忘れないでいよう、これが当時の私の結論だった。
それから何十年間、私はこの問題から完全に離れ、ただただ与えられた道をひたすらに歩み続けた。「その日」が突然訪れたのは、37年後のことだった。
17歳少年の想いへの共鳴
1982年1月。私は早稲田大学教授でありながら法人の常任理事を仰せつかっていた。そこへ中国大使館から舞い込んできたのが、北京大学から学術研究交流協定を結びたいという意向だった。早稲田大学では手続きの上これを受諾することとし、6月24日、教務担当常任理事である私が総長の代理として協定書の調印のため北京に赴いた。思えば現在まで89回に及ぶ私の訪中の第1回がこの時に当たるわけである。54歳だった。
北京大学に行ってみると、予想に反して雰囲気が非常に固かった。82年といえば、文化大革命終息後5年しか経っておらず、往時の空気が残っていて、とくに未知の日本人に対しては針のような警戒心がわだかまっていたのかもしれない。
そのような中で翌25日11時、調印式が始まった。挨拶に立った私は、例の17歳少年の想いから話を起こした。そして述べた。「私は経済人ではないから、お金でもって償いをすることはできない。政治家ではないから、政治力をもって償いをすることもできない。しかし私は今、日本に影響力のある大きい大学の代表者となった。日中の学術交流の推進という形でもって中国に対して何らかの貢献ができるような立場に立った。今日私は、あの17歳当時の想いを引っ提げてここに参りました」
この挨拶はすごい反響を生んだ。固い雰囲気がいっぺんに吹き飛んでしまったのである。外事処(日本で言えば「国際交流センター」)の人たちからは「早稲田大学は裸になった」「人間と人間は裸にならなければ本当の付き合いはできない」という言葉さえ出てきた。
この物語には後日譚がある。帰国直後「教科書問題」が噴出した。日本の教科書がそれまで使っていた「侵略」という言葉を「進出」に改めたのに対し、中国や韓国から激しい反発が起こった。日中関係は最悪の状態に転落してしまったのである。私は思った。せっかく北京大学と仲よい関係ができたのに、北京大学も怒っているだろう。世論の圧力もあり、交流協定も破棄になるのではないかと。
夏休みが終わるころ、ひと夏北京大学に研究滞在していた教授から電話がかかってきた。北京大学の外事処から先生に伝言があるので、ぜひ明日会いたいと言う。私は協定破棄の覚悟を固めて教授を待った。その教授のもたらした北京大学の伝言を、私は一生忘れないだろう。
「国と国、政府と政府との間がどうなろうとも、われわれ北京大学は、先生率いる早稲田大学は絶対に信頼しているとお伝えください」
心と心が共鳴するというのはこういうことを言うのだろう。私はあふれる涙を止めることができなかった。
私の発想になる独特な実践
私は今年3月93歳になった。初めて中国に行った54歳からの40年を振り返ってみると、あまり人に知られていないが、知っていただくと、おそらくほかの誰にもできないことを日中の間で果たしてきたと評価していただけるのではないかと思っている(詳細は西原『明治維新の光と影』新版〈2019年 万葉舎〉参照)。
第一にしたことは、大学間の学術交流を北京大学以外に拡大することだった。復旦大学、上海交通大学等である、しかしこれは誰にでもできる普通の仕事だった。
第二は「日中刑事法学術交流」の開始と推進である。いろいろな縁があって、1988年上海で日中刑事法討論会を開いたが、その後これが隔年、日中所を変えてという方式での継続的な事業に発展し、今日まで33年、17回を重ねた。2010年から12年にかけて尖閣諸島問題で長年続いてきた日中間の多くの交流が中止・延期になった中で、私たちは何の影響も受けなかった。刑事法という微妙な問題を含む課題だけに、細心の注意を払ってきたことが揺るがぬ信頼感につながったのだろう。
第三は、「日中国際法学者シンポジウム」である。私は東アジア、ひいては世界の平和のためにはこの地域に国際法秩序が確立していることが必要であり、それには最大の影響力を持つ中国の国際法学者と意見を交わす機会を永続的に持つことが不可欠だと考えた。
これに対し、多くの人は、南シナ海で中国の行っていることは違法だとハーグの仲裁裁判所が判断している中でそのような会議をすることなど不可能と考えたようだった。しかし長年中国の中にもぐりこんで、中国や中国人の物の考え方を知っている私からすれば、必ずできると確信していた。そして事実、2017年から18年まで3回、厳しいけれども和やかな会議、懇親会が重ねられた。現在はコロナのため中断しているが、再開が望まれている。
そして第四は、本誌の昨年9月、10月号に紹介された「東アジア不戦推進プロジェクト」である。2022年2月22日22時22分22秒という、まさに千年に一度しか回ってこない特異日に、東アジア全構成国の首脳が共同して、または個別同時に「東アジアを戦争の無い地域にする」という宣言を発する、それを、戦争時代を知っている日本の長老18人が提案する、という大事業である。夢物語のようだが、もしこれが実現したら、世界は変わるとお思いにならないだろうか。
「天の呼ぶ声」に導かれた中国との関係
しかし今にして思うのは、なぜこのような困難で面倒なことを自ら引き受けてやってきたのか、ということである。他人も不思議に思うだろう。そこで自分の行動の内容を振り返ってみると、やはり前述の17歳少年の想いに行き着く。
ただ今では、もはや「償いのため」という意識で事を行ってはいないようだ。国がすべきことは個人ではできないと気づいたからだろう。しかしもっと深いところで、往時幼くて大人の言うことを真に受けていたとはいえ、例えば「支那」や朝鮮を日本に服従して当然と考えたり、南京「陥落」の際提灯行列に参加してこれを祝ったりしたその「自分が、何かをしなければ許せない」という個人内の想いを抱いたことは確かだ。その何かをしてきたことは疑いない。
問題は「何か」の内容である。振り返ってみると、個人としてこれをしようと思ったことをしたにすぎないとも言える。しかし、別な見方からすると、結果としてそれぞれが時代の要請に沿ったものであったように思う。だからこそ不可能と思われたことでも実現できたのだろう。
しかしそれは、私に時代の要請を見抜く能力や人を動かす力があったからかと問えば、違う、と言わざるをえない。なぜか。私自身の発想そのものについても、また実現に至るプロセスの中にも、普通では考えられない幸運が何重にも重なり、それが無ければ決して物事の着手も遂行もあり得なかったと思われる経過が常に存在するからである(前掲『明治維新の光と影』209ページ以下、221ぺージ以下)。
これはおよそ個人の能力を超えている。とすれば、すべては「天」がシナリオを描き、私が、そして何人もの協力者が呼ばれ、それぞれが結果としてその声に応ずる形でできることをする。天のシナリオだから、実現に必要な条件すべてが偶然のように重なり、結果としてできてしまう、そう思うほかはないというのが今の私の心境である。
85年近く前の盧溝橋事件。そこから始まった私の中国との関係。私の行動。それらはすべて、これからますます世界に大きな影響を与えていく大国中国を、世界から敬愛される立派な国にしようとの天の願望のなせる業だったと考えるほかはない。