「非核三原則」見直しを許さない

核兵器は絶対悪だ!

長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長 川副 忠子

 小泉防衛大臣が「核兵器について触れざるを得ない」と発言していますが、とんでもないことです。
 今、世界の核弾頭数は増えています。ヨーロッパではフランスが核弾頭数を増やすことを決めました。フィンランドが自国への核持ち込みを認めました。このような世界の状況の中で、日本も「あらゆる政策をタブーなしで議論しなければならない」と小泉氏は語っています。
 しかし、核兵器の存在そのものが危険なのですから、核保有や、核共有は考えることすら忌まわしいことだと思います。
 日本の核兵器を「持たず」、「作らず」、「持ち込ませず」という非核三原則はわが国の国是であるはずです。
 戦争被爆国の日本は、核兵器がもたらした惨禍を知っています。核兵器がもたらした惨禍について、核が絶対悪であることを世界に示してきたはずです。

戦争はむごい

 私は被爆者です。記憶のない世代の被爆者ではありますが、幼いころから原爆被爆のむごさについて聞かされてきました。
 原子爆弾が落とされた時、私は爆心地から2・5㎞離れた西山町に住んでいました。爆心地と西山町の間には金毘羅山という小高い山があったので、爆風は感じたものの、熱線を浴びることはありませんでした。だから一緒にいた母も叔母(母の妹)も私もケガややけどは負いませんでした。
 しかし、どこに爆弾が落とされたのか母たちにはわかりませんでした。
 その日の午後、祖父(母の父親)が訪ねてきました。仕事場から城山の自分の家に戻ろうとしたが、長崎駅から先が火の海で通れなかったため西山にいる私たちの所へ来たのだそうです。祖父にも何が起こったのか分かっていませんでした。しかし、祖父は私たちの姿を見て、安心すると、「明日、三重村に疎開しなさい」と言って、城山の自分の家に向かいました。
 次の日、祖父は疲れた姿で西山のわが家に来ました。城山の家は焼けて家族の姿を見つけることはできなかったそうです。
 昼過ぎに、1歳半だった私は母に背負われて祖父や叔母と一緒に浦上の焼け野原を通って避難しました。叔母は当時16歳で女学生でした。毎日、飽の浦にある三菱長崎造船所に学徒報国隊として通っていました。たまたま、8月9日、私のうちにいたのです。
 叔母は言います。「高台から見下ろした浦上の町は黒い土地だった。振り返って見える西山は緑の木々が見えるのに」と。
 焼け野原を通って進みます。黒焦げの死体、立ったまま黒焦げで死んでいる馬。水を欲しがる人たちを見ながら浦上川を渡って鉄道線路伝いに進みます。そこは避難する人たちの行列だったと言います。まともに衣服を着ていない人、黒焦げのような人、やけどした皮膚を垂らしながら歩く人、悲惨な姿が続いていたそうです。
 夜になって、やっと三重村に着きました。
 12日に、祖父と叔母は城山に祖父の家族を捜しに行きました。次の日、祖父の家族である祖母、叔母(母の姉)、叔父(母の弟)二人の骨を持って帰ってきました。
 祖父はもともと今の眼鏡橋の近く材木町で商売をしていました。しかし、そこが建物疎開に当たり、6月に城山に転居したのです。
 叔母は言います。「戦争さえなかったら」と。叔母は戦争で6人の家族を亡くしています。その中に戦地で亡くなった人は一人もいないのです。1944年末、学童疎開から帰ってくる途中、船の遭難で妹二人を亡くしています。原爆で4人の家族を失っています。
 戦後、叔母は祖父と二人の生活になりました。戦争はむごい。

政府は非核・非戦で
国際関係を築け

 確かに、わが国の周りには核保有国があります。使われるかもしれないという疑心暗鬼に陥るより、核兵器は使ってはいけないのだという国際世論を作っていく努力をするべきだと私は思います。
 防衛力の強化をもとめて、敵基地攻撃能力の保有や殺傷兵器の輸出解禁など戦争ができる国に舵を切ることは間違っています。近隣諸国の信頼を失いかねません。
 防衛力を高めることが平和につながるとは思えないのです。戦後、日本は先の戦争の反省から平和憲法に基づいて、国づくりをしてきました。その結果、他国と武力による争いはしていません。
 非核・非戦の政策で国際関係を築いてほしいと思います。

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