上海在住 中原 萌

魯迅公園内の記念時計
「魯迅公園」を訪れるのは、8カ月の上海生活で3度目になる。池のある緑豊かな公園は、いつ訪れても賑わっている。公園の中央には「中日青年世代友好」と刻まれた記念時計が立っている。中国と日本の青年世代の友好を祝し、1984年に設置されたものだ。
3回とも同じ時計を見ているはずなのに、毎回違う受け止め方をしている自分がいた。この8カ月間、中国で暮らし、学び、感じてきたことを振り返りながら、その変化を書き留めてみたいと思う。
温かみを感じた1回目
はじめて魯迅公園を訪れたのは、上海に引っ越して間もないころ。5月初旬、メーデーの連休中に、夫と当時1歳の息子を連れて足を運んだ。時計を目にしたとき、私は素直に嬉しく、温かい気持ちになったのを覚えている。
その数日前、夫の勤め先である大学に挨拶に伺い、教授陣との食事会に私と息子も同席させていただいた。驚いたことに、その場にいた10人ほどの教授全員が、日本に留学あるいは仕事で住んだ経験があったのだ。会話は自然と日本の話題で盛り上がり、最後には学院のトップの教授がこう語ってくれた。
「日本人と中国人では、中にはいがみ合う者もいる。だけどそれは誤解から来るもので、本来、私たちはとても近い存在で、分かり合い、協力し合えるはずだ。あなたたちが日本から来てくれたことを、本当に嬉しく思う。ようこそ中国へ」
その言葉と重なり合うように、魯迅公園の記念時計は、新しい生活を始める私たち家族を歓迎してくれているように感じられた。
公園の名の由来でもある魯迅は、「中国近代文学の父」として知られる人物。公園内にある魯迅記念館で、彼が日本に留学し、その後も多くの日本人と交流を続けていたことを初めて知った。日本の友人と交わした手紙や贈り物が展示されているのを見ていると、記念時計がこの公園にあることも自然なことのように思えた。その時は、まだそれ以上深く受け止めていなかった。
重みに気づいた2回目
2度目に魯迅公園を訪れたのは、上海の蒸し暑い夏を越え、涼しさを感じ始めた10月ごろだった。その夏、私は「アジアの平和と未来をひらく若者訪中団」に参加し、北京やハルビンを訪れた。日本帝国の中国侵略と統治、そしてそれに抗った中国人民の歴史に向き合うなかで、それまで知識として理解していたつもりのことが、現実味を持って感じられた。
一方には、奪われ、殺され、それでも抵抗した人々。もう一方には、ファシズムに吞み込まれ、手を血で染めていった人々。その対比がリアルに浮かび上がり、言葉にしがたい感情が残った。
その旅を経て再び魯迅公園で目にした記念時計は、一度目とはまったく違って見えた。侵略と戦争を経験した中国が、加害国である日本と友好関係を結ぶということ。その選択が、どれほど重いものであったのかを、ようやく実感することができたのだ。
訪中団で見た歴史よりも一歩手前の時代を生きた人物ではあるが、魯迅もまた、帝国主義が強まりつつあった社会のなかで、筆による抵抗を続けた人物である。1900年代初頭に日本で医学を学んでいた魯迅は、身体の病を治すことよりも、人々の精神に働きかけることこそが社会を変えると考え、文学の道を選び中国に帰国した。第1次世界大戦後、日本が中国に「二十一カ条要求」を押し付け、五四運動が全国的に広がるなかで、魯迅は雑誌『新青年』に参加し、白話(口語体)文学を通して封建主義や帝国主義、そしてそれらに無自覚に従属する人々の精神を鋭く批判した。
27年に上海へ移った後も、国民党政府からの弾圧を受けながら活動を続け、30年には左翼作家連盟を設立して革命文学を推進した。また、文字を読めない人々にも訴えかける表現として木刻(木版画)運動の先駆けとなり、多くの若い芸術家を育成した。
魯迅が亡くなった翌年、盧溝橋事件を機に日本は本格的な侵略戦争へと突入していく。多くの人々が命や尊厳を奪われるなかで、魯迅らの文学や思想は、中国社会を「目覚めさせる」役割を担い、日本帝国主義への抵抗を後押しした。
希望を見た3回目
3度目に魯迅公園を訪れたのは、年を越した1月半ばのこと。知人から内山完造という人物の存在を教えてもらい、彼の足跡を辿るために再び公園を訪れたのだ。
内山完造は、かつて上海で書店を営んだ日本人であり、魯迅と極めて親しい関係にあった人物だ。公園から徒歩数分の場所には、彼の書店跡を修復・拡張し、2022年に開館した「1927・魯迅と内山紀念書店」がある。
もともと目薬の行商として上海に渡った内山完造は、1917年に内山書店を開業した。日本語書籍を扱うその店は、日本人だけでなく、日本語の分かる中国人や朝鮮人たちの交流の場となり、やがて思想や文化をめぐる対話の拠点となっていく。芥川龍之介や谷崎潤一郎など、日本の作家たちも上海滞在中にこの書店を訪れ、中国の知識人と交流した。
内山完造自身は特定の思想を持つ者ではなかったが、博愛主義者として中国が立たされている苦境に共感し、多くの左翼先進系の思想家を迎え入れた。特に魯迅とは互いに心を許し合った間柄で、魯迅が国民党政府に命を狙われていた際、自らの身の危険を顧みず、書店の2階に匿ったほどだ。
現在の世界情勢や日中関係を見ていると、絶望感に飲み込まれそうになる時がある。だが同時に、歴史を振り返れば、これよりもはるかに深刻な時代が確かに存在していた。
内山は、日本が「脱亜入欧」の名のもとに中国蔑視をしはじめている時代から、第2次世界大戦集結まで34年間を上海で暮らしていた。まさに日中関係が最悪の時代に、彼は中国を生きていたのである。
その時代を知るからこそ、同じ過ちを繰り返さないために、内山や周囲の人々が選び続けた姿勢に立ち返りたい。内山書店に集った中国の若者の多くは、思想弾圧に抗いながら地下で活動を続けていた日本の社会主義者たちの存在に刺激を受け、励みにしていた。「蟹工船」などで知られる小林多喜二が日本で特高警察に虐殺された時、魯迅らが遺族のために上海で募金活動を行ったことからも、日中両国の人々の連帯がうかがえる。
彼らはどれほど対立の激しい時代も、国境や民族の壁を超えて、帝国主義に抗う方法を模索し、共に闘っていたのだ。そして戦後、内山の旧友たちは日中国交正常化の礎を築くことになる。
いまを生きる私たちにとって、20世紀に生きた両国の人々の友情と連帯は確かな希望となりうる。どこに暮らしていても、私たち「普通の人」は、同じように働き、暮らし、平和を願う人民であるはずだ。日中が二度と戦争を繰り返さないために、共に何ができるのか。そんなことを考えながら、私は「中日青年世代友好」の時計を後にした。
